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「うわぁ…やっば…エモすぎる!!」
…。
「って!ここで終わりかぁ…うぅ…。」
私はページをめくる手を止めて天井を見上げる。やっぱり、ここに来てから数ヶ月間たっても、このきらびやかな天井には慣れない。
「そんな大きな声を出して…一体どうされたんですか?」
「え?聞こえてました?」
「聞こえてました?って…。あなた、声大きいの自覚無いんですか…?」
「え…?」
ふと、文月さんとばったり目が合う。やっぱり…笑ってない。
「顔…?さっきからにやついてますよ。どうせまた、王道展開ラブコメで、キャー!!って感じで…ときめいてます?」
「あ~…」
図星…ではある。正直になろう…かな。
「いやだってこれ…!現代には珍しい純粋なピュアっピュアな純情ラブコメなんですよ!いやぁ…さっすが坊ちゃん!お目が高い!」
「は?」
文月さんの声にドスがきく。低い、怖い。死ぬ…。いや、殺される?これ…。
「えっと…私ちょっと、用事思い出しちゃって…えと、し、失礼します!」
「待ちなさい。」
「うっ!」
しまった…と思ったとき、もう遅かった。右手はもちろん、文月さんに、彼に鷲掴みされている。やっぱり…動けない。力が…強すぎる。だって、男なんだもん。勝てない…。
「それ…もしかして、坊ちゃんからお借りしたのですか?」
「…」
沈黙を続ければ続けるほど、握る力は強まる。多分…女だからって容赦はしないと思う。文月さんは、そういう人だ。
坊ちゃんを守るか…正直になるか…。
「春美さん?黙ってたら、何も分からないですよ…?ふふ…まだ、粘りますか?」
「…」
ギィィ…。
「痛い痛い痛い!!わかりました!ちゃんと、言いますから!坊ちゃんに借りました!坊ちゃんがくれました!!事実です!私は無罪!!」
「なるほど…。」
すまない坊ちゃん。許してくれ。私じゃ、文月さんには勝てない。
「あの…文月さん?何でもしますから…坊ちゃんには内緒で…って、ちょっと!」
文月さんは私の手から漫画をすっと奪って、中身をパラパラパラパラめくり出した。
確か…。私は頭の中に眠る記憶をたどる。確かこれは、4巻の修学旅行編。きっと…エッチなシーンは無いはず。
いや、待て。
文月さんの顔が笑っていない。漫画を片手に硬直している。石化されたみたいに、ピタリと動かない。まさか…。
「春美さん。」
「は、はい!」
「こちらは…お預かりさせていただきます。」
「え?え、ちょっと…ま、待ってください!いやこれ、健全ですってば!変なシーンなんて、これっぽっちも無いですよ!って文月さん聞いてます!?」
「はい。聞いていますよ。じっくり、ゆっくりと。」
「じゃあ返してくださいよ!これ、坊ちゃんの私物です!いくら使用人だからって、窃盗はダメです!犯罪です!窃盗罪!万引き!」
「ではこちらは、どういう意味…なのでしょうか?」
え?
文月さんは、漫画のとあるページを見開きにして、私に手渡した。
間違いなく…これは、ヤッてる。
布団の上で男女の影が重なっている。吹き出しは…察して欲しい。
そうだった…。確かシリーズ初のエロシーンでバズってたんだった。忘れてた。
それもそのはず、華の修学旅行編だ。シリーズアニメ化が期待されている、とはいえやっぱり思春期の読者の期待には、答えたいのだろう…。だってその方が売れるもん!
「はぁ…あの、春美さん、未成年ですよね?あなたも…坊ちゃんも。」
「あ、あははっ…。でも、坊ちゃんももう高校生ですよね?それくらい、今時当たり前っていうか…。ほら、文月さんだって、高校生くらいのときに、エロ本とか買ってなかったんですか?蒼井そらとか、そのへんのやつ。」
「は?」
文月さんは呆れたようにため息をついて、カラスのような目つきで私を見つめる。まずい、やらかした。
「ふ、文月さん…?」
「つまり、春美さんは私が、そのようなことをするマセガキだった、と仰っりたいのでしょうか?」
「…えっと…いや、そういう訳じゃ。」
「誤魔化しても…無駄ですよ?私には春美さんが、そう言っているようにしか聞こえません。自覚…おありですよね?」
文月さんは、私の両肩を掴むやいなや、どんどん壁際に追い詰めていく。やばい、逃げられない。
「あの、文月さん?聞いてます…?文月…さん?」
「金輪際…こういったことがあれば…クビにしたって…良いんですからね?」
文月さんは人差し指を唇の前に立てて、首を傾げる。悔しいけどエロい!似合うな相変わらず!
だけど、クビになるのだけはごめんだ。一攫千金を目指して東京に来て、なんとか雇って貰えたのに、こんなところでくたばるなんて…死んでも嫌だ。
「わ、わかりました!もうしません!だからあの…離してもらえない、ですかね?」
「…」
文月さんはまた、呆れたようなため息をして、私の肩から手を離す。よかった、まだ私、生きてる。生きてる!
「確かに、春美さんは坊ちゃんと年齢が近い分、彼の良い話し相手になるのかもしれません。ですが…。」
「あくまであなたと坊ちゃんの関係は主君と使用人にすぎません。それはあなたももちろん…自覚していますよね?」
そんなこと、わかっている。坊ちゃんには綺麗で優しい婚約者がいるし、たぶん、私のことを女性として見ているなんてありえない。だって好きな女にエロ漫画なんて貸すか?普通に。
「そんなの、わかってますよ。私も坊ちゃんも、お互いのことをそういう目で見てるなんて、絶対無いです。文月さん、坊ちゃんともう、長いんですから。そんなの、わかりきってる話じゃn…」
「わかってます。」
文月さんが声を張る。いつもよりいっそう怖くて、厳しい。声が大きくて、力が強くて。ただの上司じゃなくて、一人の男だって言うことを思い知らされる。
「坊ちゃんのことは、なんでも分かっているつもりです。なんせ、一生を捧げると心に誓った方なので。」
「だからこそ、使命を全うしたいんです。坊ちゃんが、七条家の主としてふさわしいように教育すること。それが私が先代から託された使命なのです。」
「ですから。」
「私は坊ちゃんに嫌われようが追放されようが、意地悪されようが、彼に生涯を誓います。私は死ぬその瞬間まで、すべてをあの方に捧げます。」
文月さんは、いつも以上に真面目な顔をしていた。単に執事の時のあの、ただ厳しい表情じゃなくて、多分、ガチの顔。文月さんは、人生のすべてを坊ちゃんにささげてる。この顔を見れば、分かる。
「ぽっと出の新人が、坊ちゃんのことをすべて分かったように振る舞うのは、少々嫌気が刺します。たとえそれが、坊ちゃんへの親切心だとしても…私は、嫌です。」
「これでも一人の人間ですから、感情はあります。大人だからって、感情に蓋をして繕うのは、決して良いことだとは思いません。」
「…」
文月さんは、厳しい。でもそれは、坊ちゃんが大事だから…愛しているから、なんだと思う。使用人と主君。血は繋がっていないけどたぶんそれは、家族と言えるくらいの強い何かで結ばれている、そんな気がする。
「ごめんなさい。反省します。」
私は頭を深くさげて礼をした。こんなの、ただの些細な出来事。されど、文月さんにとっては…考えたら、わかる。
「…わかっていただけるなら、良いんです。まぁ実際、あなたみたいな役柄も、必要ですしね。」
文月さんは口元に手を添えて微笑む。やっぱり、大人だ。所作が全部丁寧だし、親の顔をしている。
授業参観で、初めてお母さんが来てくれたとき。静かにわらって、優しい眼差しで私をみる。小さく手を振って、また微笑む。そんな顔。
「とにかく、この話は終わりです。今夜も仕事が沢山あるんですから、今のうちから、夕食の準備をしないと。間に合わないですよ。」
文月さんはそう言って、鞄の整理を始めた。例の漫画を入れて、あとは色々、片付けて。
「春美さん?」
「は、はい!私も手伝います!」
私も慌てて準備をする。カバンのファスナーを閉めて、メイド服のボタンを1番上まで止めて。後は髪を束ねて、まとめる。
文月さんは相変わらず、臨機応変でテキパキしてて、やっぱり一流の使用人。完全無欠の、執事だ。
私は革靴を鳴らして、前を歩く彼の背中を追う。今日も私は、彼に連られて、夜の仕事を始めた。
「…春美さん?春美、さん?聞いてます?」
「うわっ!」
突然の彼の声に私は思わず身がたじろぐ。そして自分の右手に握られている包丁を見て…、またやってしまった。
「…すみません。」
どうやら私は、相変わらず夕食の準備をしているなか、ウトウトしていたらしい。夕食前の暮方は、いつも眠たい。朝と昼の疲れが蓄積して、限界を迎えかける。夕食を終えたら、後は深夜テンションになるけど…やっぱり前は慣れない。
「ゔっ…!」
左手が、文月さんにつねられている。親指の付け根の、押されると痛いところ。
「ちょ…文月さん、離してください。痛いです…。」
「はぁ…。」
文月さんはため息をついて私の手を解き放つ。だけどまだ、痛みは残っている。
「寝不足…ですか?」
「え?」
「いつも言っているじゃないですか。うまく休憩を取って、メリハリをつけて仕事に励みなさい、と。」
「なのにあなたときたら…スマホやら漫画とにらめっこするばかりで、全く。時間を有効活用しなくて、使用人の仕事がつとまるとでも思っているんですか?」
「…」
「また、黙るんですか?」
「…文月さんだって、全然寝てない癖に。」
「は?」
「だから!文月さんずっと仕事してるじゃないですか!休みの日もずっと!!そんなので休むなんて…無理ですよ。」
文月さんの鋭い目つきと目が合う。やっぱり怖いけど、文月さんが休んでいないのは事実だし、いくらベテランの使用人とはいえ無理はしてほしくない。文月さんだって一人の人間なんだし。
「確かに…漫画読んだり、スマホ見たりしてますけど。でもそれは…坊ちゃんとお話出来るように、色々知りたいんです。私が楽しんじゃってるのは、確かにあります。だけど!」
「文月さん…ずっと険しい顔してるから。」
「…」
「ごめんなさい。仕事、します。」
私は包丁をもう一度握りしめて、まな板の上の野菜に手を伸ばす。確か今日の夕食はビーフシチュー。坊ちゃんに今朝リクエストされて、あとは…。
「え?」
不意に、文月さんに右手首を掴まれた。だけど、さっきみたいに力は強くないし、つねっても来ない。優しい。
「そんな手で…一体どうするんですか?」
文月さんはポケットから絆創膏をいくつか取り出して、私の指に巻き付けた。人差し指、薬指あとは小指と…。
ほとんど、全部だった。親指から薬指まで、たぶん十ヶ所は超えてる。文月さんの綺麗な指が私の指に伸びて、傷を癒していく。
自分では、気づかなかった。確かに、料理は美味いほうじゃない。でも。私は使用人だ。掃除も料理もびっちり文月さんに仕込まれた。朝から晩まで、上手くできるまで、びっちり。だから。
忘れていた。私は何も出来ない、ただの凡人。いや多分、それ以下のダメ人間。
「ありがとう…ございます。」
また、助けられてしまった。いつだって文月さんは視野が広くて。坊ちゃんだけじゃなくてみんなのことを見ている。そういう、すごい人だ。
「春美さん。眠れないときは、無理に眠ろうとしなくて良いですから。人間、考えれば考えるほど、脳が活性化して体は休まりません。」
「え?ちょっ、文月さん…?」
「目を閉じて、頭を空っぽにしてください。横になるだけでも、違いますよ。」
文月さんと目がばっちりと、ぴったりと合う。なんだか逸らしたら、だめな気がした。多分、文月さんは。
「心配、してくれてるんですか?」
勘違いかもしれない。だけど、文月さんは優しい人だから。厳しいけど、それと同じくらい、優しいから。
「…いやあの別に、そういう訳じゃ。」
文月さんは目を逸らす。でもたぶん、勘違いじゃない。だってこんなの、ずるいもん。ずるくてあざとくて、うざったい。思わせぶりだとしたら…考えるだけでもむかつく。
「…照れてます?」
「は?」
文月さんの目がかっぴらく。やばい、とは思ったけど…なんかちょっと、面白い。こういうとこは、少しだけ好きだ。大人っぽい、いや、大人なのにたまに表情がわかりやすく変わるところ。
「部下の体調を気遣うのは、上司として当たり前のことでしょう。そこに特別な感情なんて…」
「文月ー!!ただいま!」
「あらまぁ坊ちゃん、お帰りなさいませ。予定より少々早いですが…無事のお帰りを私文月は大変嬉しく思います。」
文月さんは、厨房を後にして、広間に腰掛ける坊ちゃんの方へ足を伸ばした。坊ちゃんの鞄を颯爽と受け取って、いつも通り、ダージリンのストレートを手渡して。
私も、行かなきゃいけない。だけど。
なんだか、誰かに、何かに固定されたように足が動かなくて、前を見れなくて。
「大人だからって、感情に蓋をして繕うのは、決して良いことだとは思いません。」
文月さんはそう言った。自分に正直になれ、素直になれ、自分を大切にしろ。
でも。
こんな気持ち、蓋をする以外にどこに解き放てば良いのだろう。文月さんの一番は坊ちゃんだ。そして、私の一番も、きっと同じ。だってそれが、七条家の使用人の使命だから。そんなの、わかりきっている。でも。
私は自信を持って坊ちゃんが一番だ、ということが出来ない。だって…。
言い訳も言い分も理由もあふれるくらいに浮かび上がる。こんなの…こんなの。
七条家の使用人にふさわしいなんて、口が裂けても言えない。
私はそばにあった玉ねぎに手を伸ばして、右手のそれで、ありったけに切り刻んだ。涙が止まらない自分を、それのせいにしてただひたすら、包丁を握りしめた。
…。
「って!ここで終わりかぁ…うぅ…。」
私はページをめくる手を止めて天井を見上げる。やっぱり、ここに来てから数ヶ月間たっても、このきらびやかな天井には慣れない。
「そんな大きな声を出して…一体どうされたんですか?」
「え?聞こえてました?」
「聞こえてました?って…。あなた、声大きいの自覚無いんですか…?」
「え…?」
ふと、文月さんとばったり目が合う。やっぱり…笑ってない。
「顔…?さっきからにやついてますよ。どうせまた、王道展開ラブコメで、キャー!!って感じで…ときめいてます?」
「あ~…」
図星…ではある。正直になろう…かな。
「いやだってこれ…!現代には珍しい純粋なピュアっピュアな純情ラブコメなんですよ!いやぁ…さっすが坊ちゃん!お目が高い!」
「は?」
文月さんの声にドスがきく。低い、怖い。死ぬ…。いや、殺される?これ…。
「えっと…私ちょっと、用事思い出しちゃって…えと、し、失礼します!」
「待ちなさい。」
「うっ!」
しまった…と思ったとき、もう遅かった。右手はもちろん、文月さんに、彼に鷲掴みされている。やっぱり…動けない。力が…強すぎる。だって、男なんだもん。勝てない…。
「それ…もしかして、坊ちゃんからお借りしたのですか?」
「…」
沈黙を続ければ続けるほど、握る力は強まる。多分…女だからって容赦はしないと思う。文月さんは、そういう人だ。
坊ちゃんを守るか…正直になるか…。
「春美さん?黙ってたら、何も分からないですよ…?ふふ…まだ、粘りますか?」
「…」
ギィィ…。
「痛い痛い痛い!!わかりました!ちゃんと、言いますから!坊ちゃんに借りました!坊ちゃんがくれました!!事実です!私は無罪!!」
「なるほど…。」
すまない坊ちゃん。許してくれ。私じゃ、文月さんには勝てない。
「あの…文月さん?何でもしますから…坊ちゃんには内緒で…って、ちょっと!」
文月さんは私の手から漫画をすっと奪って、中身をパラパラパラパラめくり出した。
確か…。私は頭の中に眠る記憶をたどる。確かこれは、4巻の修学旅行編。きっと…エッチなシーンは無いはず。
いや、待て。
文月さんの顔が笑っていない。漫画を片手に硬直している。石化されたみたいに、ピタリと動かない。まさか…。
「春美さん。」
「は、はい!」
「こちらは…お預かりさせていただきます。」
「え?え、ちょっと…ま、待ってください!いやこれ、健全ですってば!変なシーンなんて、これっぽっちも無いですよ!って文月さん聞いてます!?」
「はい。聞いていますよ。じっくり、ゆっくりと。」
「じゃあ返してくださいよ!これ、坊ちゃんの私物です!いくら使用人だからって、窃盗はダメです!犯罪です!窃盗罪!万引き!」
「ではこちらは、どういう意味…なのでしょうか?」
え?
文月さんは、漫画のとあるページを見開きにして、私に手渡した。
間違いなく…これは、ヤッてる。
布団の上で男女の影が重なっている。吹き出しは…察して欲しい。
そうだった…。確かシリーズ初のエロシーンでバズってたんだった。忘れてた。
それもそのはず、華の修学旅行編だ。シリーズアニメ化が期待されている、とはいえやっぱり思春期の読者の期待には、答えたいのだろう…。だってその方が売れるもん!
「はぁ…あの、春美さん、未成年ですよね?あなたも…坊ちゃんも。」
「あ、あははっ…。でも、坊ちゃんももう高校生ですよね?それくらい、今時当たり前っていうか…。ほら、文月さんだって、高校生くらいのときに、エロ本とか買ってなかったんですか?蒼井そらとか、そのへんのやつ。」
「は?」
文月さんは呆れたようにため息をついて、カラスのような目つきで私を見つめる。まずい、やらかした。
「ふ、文月さん…?」
「つまり、春美さんは私が、そのようなことをするマセガキだった、と仰っりたいのでしょうか?」
「…えっと…いや、そういう訳じゃ。」
「誤魔化しても…無駄ですよ?私には春美さんが、そう言っているようにしか聞こえません。自覚…おありですよね?」
文月さんは、私の両肩を掴むやいなや、どんどん壁際に追い詰めていく。やばい、逃げられない。
「あの、文月さん?聞いてます…?文月…さん?」
「金輪際…こういったことがあれば…クビにしたって…良いんですからね?」
文月さんは人差し指を唇の前に立てて、首を傾げる。悔しいけどエロい!似合うな相変わらず!
だけど、クビになるのだけはごめんだ。一攫千金を目指して東京に来て、なんとか雇って貰えたのに、こんなところでくたばるなんて…死んでも嫌だ。
「わ、わかりました!もうしません!だからあの…離してもらえない、ですかね?」
「…」
文月さんはまた、呆れたようなため息をして、私の肩から手を離す。よかった、まだ私、生きてる。生きてる!
「確かに、春美さんは坊ちゃんと年齢が近い分、彼の良い話し相手になるのかもしれません。ですが…。」
「あくまであなたと坊ちゃんの関係は主君と使用人にすぎません。それはあなたももちろん…自覚していますよね?」
そんなこと、わかっている。坊ちゃんには綺麗で優しい婚約者がいるし、たぶん、私のことを女性として見ているなんてありえない。だって好きな女にエロ漫画なんて貸すか?普通に。
「そんなの、わかってますよ。私も坊ちゃんも、お互いのことをそういう目で見てるなんて、絶対無いです。文月さん、坊ちゃんともう、長いんですから。そんなの、わかりきってる話じゃn…」
「わかってます。」
文月さんが声を張る。いつもよりいっそう怖くて、厳しい。声が大きくて、力が強くて。ただの上司じゃなくて、一人の男だって言うことを思い知らされる。
「坊ちゃんのことは、なんでも分かっているつもりです。なんせ、一生を捧げると心に誓った方なので。」
「だからこそ、使命を全うしたいんです。坊ちゃんが、七条家の主としてふさわしいように教育すること。それが私が先代から託された使命なのです。」
「ですから。」
「私は坊ちゃんに嫌われようが追放されようが、意地悪されようが、彼に生涯を誓います。私は死ぬその瞬間まで、すべてをあの方に捧げます。」
文月さんは、いつも以上に真面目な顔をしていた。単に執事の時のあの、ただ厳しい表情じゃなくて、多分、ガチの顔。文月さんは、人生のすべてを坊ちゃんにささげてる。この顔を見れば、分かる。
「ぽっと出の新人が、坊ちゃんのことをすべて分かったように振る舞うのは、少々嫌気が刺します。たとえそれが、坊ちゃんへの親切心だとしても…私は、嫌です。」
「これでも一人の人間ですから、感情はあります。大人だからって、感情に蓋をして繕うのは、決して良いことだとは思いません。」
「…」
文月さんは、厳しい。でもそれは、坊ちゃんが大事だから…愛しているから、なんだと思う。使用人と主君。血は繋がっていないけどたぶんそれは、家族と言えるくらいの強い何かで結ばれている、そんな気がする。
「ごめんなさい。反省します。」
私は頭を深くさげて礼をした。こんなの、ただの些細な出来事。されど、文月さんにとっては…考えたら、わかる。
「…わかっていただけるなら、良いんです。まぁ実際、あなたみたいな役柄も、必要ですしね。」
文月さんは口元に手を添えて微笑む。やっぱり、大人だ。所作が全部丁寧だし、親の顔をしている。
授業参観で、初めてお母さんが来てくれたとき。静かにわらって、優しい眼差しで私をみる。小さく手を振って、また微笑む。そんな顔。
「とにかく、この話は終わりです。今夜も仕事が沢山あるんですから、今のうちから、夕食の準備をしないと。間に合わないですよ。」
文月さんはそう言って、鞄の整理を始めた。例の漫画を入れて、あとは色々、片付けて。
「春美さん?」
「は、はい!私も手伝います!」
私も慌てて準備をする。カバンのファスナーを閉めて、メイド服のボタンを1番上まで止めて。後は髪を束ねて、まとめる。
文月さんは相変わらず、臨機応変でテキパキしてて、やっぱり一流の使用人。完全無欠の、執事だ。
私は革靴を鳴らして、前を歩く彼の背中を追う。今日も私は、彼に連られて、夜の仕事を始めた。
「…春美さん?春美、さん?聞いてます?」
「うわっ!」
突然の彼の声に私は思わず身がたじろぐ。そして自分の右手に握られている包丁を見て…、またやってしまった。
「…すみません。」
どうやら私は、相変わらず夕食の準備をしているなか、ウトウトしていたらしい。夕食前の暮方は、いつも眠たい。朝と昼の疲れが蓄積して、限界を迎えかける。夕食を終えたら、後は深夜テンションになるけど…やっぱり前は慣れない。
「ゔっ…!」
左手が、文月さんにつねられている。親指の付け根の、押されると痛いところ。
「ちょ…文月さん、離してください。痛いです…。」
「はぁ…。」
文月さんはため息をついて私の手を解き放つ。だけどまだ、痛みは残っている。
「寝不足…ですか?」
「え?」
「いつも言っているじゃないですか。うまく休憩を取って、メリハリをつけて仕事に励みなさい、と。」
「なのにあなたときたら…スマホやら漫画とにらめっこするばかりで、全く。時間を有効活用しなくて、使用人の仕事がつとまるとでも思っているんですか?」
「…」
「また、黙るんですか?」
「…文月さんだって、全然寝てない癖に。」
「は?」
「だから!文月さんずっと仕事してるじゃないですか!休みの日もずっと!!そんなので休むなんて…無理ですよ。」
文月さんの鋭い目つきと目が合う。やっぱり怖いけど、文月さんが休んでいないのは事実だし、いくらベテランの使用人とはいえ無理はしてほしくない。文月さんだって一人の人間なんだし。
「確かに…漫画読んだり、スマホ見たりしてますけど。でもそれは…坊ちゃんとお話出来るように、色々知りたいんです。私が楽しんじゃってるのは、確かにあります。だけど!」
「文月さん…ずっと険しい顔してるから。」
「…」
「ごめんなさい。仕事、します。」
私は包丁をもう一度握りしめて、まな板の上の野菜に手を伸ばす。確か今日の夕食はビーフシチュー。坊ちゃんに今朝リクエストされて、あとは…。
「え?」
不意に、文月さんに右手首を掴まれた。だけど、さっきみたいに力は強くないし、つねっても来ない。優しい。
「そんな手で…一体どうするんですか?」
文月さんはポケットから絆創膏をいくつか取り出して、私の指に巻き付けた。人差し指、薬指あとは小指と…。
ほとんど、全部だった。親指から薬指まで、たぶん十ヶ所は超えてる。文月さんの綺麗な指が私の指に伸びて、傷を癒していく。
自分では、気づかなかった。確かに、料理は美味いほうじゃない。でも。私は使用人だ。掃除も料理もびっちり文月さんに仕込まれた。朝から晩まで、上手くできるまで、びっちり。だから。
忘れていた。私は何も出来ない、ただの凡人。いや多分、それ以下のダメ人間。
「ありがとう…ございます。」
また、助けられてしまった。いつだって文月さんは視野が広くて。坊ちゃんだけじゃなくてみんなのことを見ている。そういう、すごい人だ。
「春美さん。眠れないときは、無理に眠ろうとしなくて良いですから。人間、考えれば考えるほど、脳が活性化して体は休まりません。」
「え?ちょっ、文月さん…?」
「目を閉じて、頭を空っぽにしてください。横になるだけでも、違いますよ。」
文月さんと目がばっちりと、ぴったりと合う。なんだか逸らしたら、だめな気がした。多分、文月さんは。
「心配、してくれてるんですか?」
勘違いかもしれない。だけど、文月さんは優しい人だから。厳しいけど、それと同じくらい、優しいから。
「…いやあの別に、そういう訳じゃ。」
文月さんは目を逸らす。でもたぶん、勘違いじゃない。だってこんなの、ずるいもん。ずるくてあざとくて、うざったい。思わせぶりだとしたら…考えるだけでもむかつく。
「…照れてます?」
「は?」
文月さんの目がかっぴらく。やばい、とは思ったけど…なんかちょっと、面白い。こういうとこは、少しだけ好きだ。大人っぽい、いや、大人なのにたまに表情がわかりやすく変わるところ。
「部下の体調を気遣うのは、上司として当たり前のことでしょう。そこに特別な感情なんて…」
「文月ー!!ただいま!」
「あらまぁ坊ちゃん、お帰りなさいませ。予定より少々早いですが…無事のお帰りを私文月は大変嬉しく思います。」
文月さんは、厨房を後にして、広間に腰掛ける坊ちゃんの方へ足を伸ばした。坊ちゃんの鞄を颯爽と受け取って、いつも通り、ダージリンのストレートを手渡して。
私も、行かなきゃいけない。だけど。
なんだか、誰かに、何かに固定されたように足が動かなくて、前を見れなくて。
「大人だからって、感情に蓋をして繕うのは、決して良いことだとは思いません。」
文月さんはそう言った。自分に正直になれ、素直になれ、自分を大切にしろ。
でも。
こんな気持ち、蓋をする以外にどこに解き放てば良いのだろう。文月さんの一番は坊ちゃんだ。そして、私の一番も、きっと同じ。だってそれが、七条家の使用人の使命だから。そんなの、わかりきっている。でも。
私は自信を持って坊ちゃんが一番だ、ということが出来ない。だって…。
言い訳も言い分も理由もあふれるくらいに浮かび上がる。こんなの…こんなの。
七条家の使用人にふさわしいなんて、口が裂けても言えない。
私はそばにあった玉ねぎに手を伸ばして、右手のそれで、ありったけに切り刻んだ。涙が止まらない自分を、それのせいにしてただひたすら、包丁を握りしめた。
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