文月さんと私

今日子

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やってらんねー!!
…なんてもちろん、叫ぶことなんて、出来ない。だけど。
プシュ。
炭酸のシュワシュワした音が夜風を受けたベランダに響き渡る。
何が何も考えるな、だよ。このクソ野郎。
私は冷たくなった指先で無理やり缶を持ちながらそれを流し込んだ。こんなの、ダメなのはわかっている。でも私はこれくらいしか自分の機嫌の取り方、いや慰め方を知らない。だって未成年だし!!
「はぁ…何やってんだろ。」
屋敷の端にある、私の部屋。小さいけど、冷蔵庫もベッドもあって、私は好きだ。広すぎる屋敷とは打って変わって狭くて、なんだか自分だけが世界に取り残されたような、そんな気分になる。寂しい?なんて思うかもしれないけど、別にそんなの気にしない。だって、もとから私に味方なんて…きっと。

口いっぱいに広がるレモンソーダはいつもより薄く感じた。疲れ果てた後の缶ジュースはいつも格別に美味しくて、好きだったけど、だけど。今日は。
「あぁもう…もう一杯開けよう。」
私は一度ベランダから自室へ戻ってもう一缶、レモンソーダを取り出した。
味なんか、どうでも良かった。とにかく、何かを体に流し込みたくて仕方なかった。流し込んで、満たして…あとは。

がらくたで繋がれたような私の体とは反対にベランダには美しい満月が顔をみせていた。月は寂しさとか、切なさとかそういう感情の象徴なのに、太陽みたいに明るくて、もちろん星なんて見えなくて。雲もひとつも無かった。
ベランダの手すりは冷えていた。缶ジュースも手すりも全部全部冷たくて。

私はベランダにへたりこんだ。夜風を受けて、体の力が抜ける。もう、立ち方を忘れたように、私の体に力は入らなかった。何も考えずに頭を空っぽにしろと言われた。彼の願い通り、私の頭は何も考えられないくらいになってしまっていた。でもそれは、もう全部が機能しないくらい、私の頭がボロボロでズタズタだったから。だから皮肉にも、その日の意識はすぐに溶けて、どこかに行ってしまった。


目覚めたとき、もう既に日は昇っていた。今日もまた一日が始まる。七条家の使用人としての一日。坊ちゃんに仕える、一日。
「ハックシュン!うぅ…寒い。」
一晩をベランダで過ごしてしまったせいか、私の体は酷く冷えていた。くしゃみをしたせいで鼻先は多分、トナカイみたいに赤くなっている。

私は窓を急いで閉め、暖房をつけてメイド服に着替えた。ボタンを一番上まで止めて、胸下までの髪をひとつに束ねて、リボンでとめる。いつも通りの朝だ。少し寒い、そんな秋の朝だ。
戸棚に手を伸ばして顔にファンデーションをはたいて、コンシーラーで目元の隈を隠す。薄いブラウンのシャドウをアイホール全体に塗って、濃い色で締める。ブラックのアイライナーをひいて、涙袋に薄くコンシーラーと、ピンクのラメを乗せる。後はビューラーでまつ毛を上に上に引き上げて、マスカラでさらに伸ばして。最後にマットリップを唇に重ねる。いつも通りの、私だ。七条家の使用人の、私だ。

鏡越しの自分は別に、綺麗じゃなかった。そんなこと、わかっている。化粧をしたからって、美人になれる訳じゃない。美しさや可愛いをつくるのは愛嬌とか仕草とか、多分そういった類のやつだ。前職で仕込まれたのだから、それはわりと簡単に演じられる。だけど。
あの人にはいつも、見破られる。どんなに「普通」を演じようとしても、だめだった。普通にバレて、見破られて、ありのままの自分でいろと説教される。そんなこと、私には到底できないのに、あの人の小言は止まらない。

私は冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して、コップにそそぐなんてことは面倒だからやめて、それをそのまま、がぶがぶ流し込んだ。こうして何かで満たさないと、私の一日は始まらないし、終われない。

時計の針はもうすぐ六時をさす頃だった。私はようやく我に帰って自室のドアを開けた。屋敷はまだ暗かったが、あちこちから使用人の音が聞こえてくる。朝食の準備をする者や、朝風呂の清掃に励む者。もちろん私も、これからその一人になる。だって私は、七条家の使用人…だから。
「あら、今日は少しお早いのですね。おはようございます、晴美さん。」
「おはようございます。」
文月さんと厨房前の廊下で挨拶を交わす。これも、いつも通りだ。
「…?」
しかし、文月さんはなぜか私を吟味しているかのようにじっくり見つめている。私はいつも通りだ。変わったところなんて、これっぽっちも…。
「リップの色、暗くしました?」
「…え?」
色なんて変えていない。いつものマットリップだ。チェリーレッドの、マットリップ。
「変えてないですけど…。文月さん?」
文月さんは私から目を離さなかった。私をじっと見つめている。
「そうですか。いつもより、色が暗く感じたので。失礼しました。」
文月さんはそう告げると、廊下を抜けてどこかに行ってしまった。大方、坊ちゃんの部屋、だろうけど。
色なんて、暗くしていないし、私にはそんなの似合わない。だとしたら、たぶん。
ベランダで寝落ちたせいで、体が冷えて化粧乗りが悪くなっているのだろう。しかし、いつもより長い時間を睡眠に当てることが出来た、だから別に問題は…。「うっ…」
突然頭に鈍痛が響く。痛い。苦しい。私は立つことすらままならないまま廊下の柱にへたれこんだ。まずい、このままだと坊ちゃんが起きてきてしまう。立たなきゃ、立たなきゃ…。
足に力が入らない。手で柱を掴んで立とうとしても、だめだった。直ぐに重力に負けて床に叩きつけられる。
こんな痛み、よくある話だ。歓楽街を歩いて、歩いてただひたすら歩いて。当たり前の食事も睡眠も保証できない世界で生きてきた。だからこんなの、どうってこと…。

私の意識は、そこでポツリと途絶えた。

「んっ…あれ、私。」
視界は、真っ白だった。真っ白な壁に、真っ白なペンダントライト。それ以上は何も、考えられなかった。
「…お目覚めのようですね。」
「…え?」
ふと聞き覚えのある声のほうに目線をやると、そこには文月さんが居た。本を片手に、メガネをかけた文月さんがいる。
「あの…文月さん、ここって?」
「医務室です。」
医務室。そういや、初めてここに来たときも、同じだった。目覚めたときに横に文月さんが居て。あかりが眩しくて、ベットはふかふかだった。
「少し、失礼しますね。」
文月さんは私の額に手を触れた。文月さんの手が、冷たくて気持ちよかった。
「まだ…熱いですね。今日はもう、休んでください。」
「え…?」
「ですから」

「ハックシュン!クシュン!」
突然のくしゃみが私を襲う。もちろん準備なんて出来ていないから顔も手もベトベトだ。ベタベタしていて、気持ち悪い。
「まったくもう…」
文月さんは純白のタオルで私をふいてくれた。白くてふわふわのタオルが私に伸びる。
「すみません…。」
「はぁ…。」
文月さんは大きなため息を着く。
「自覚…なかったですか?」
「え?」
自覚?
「ほら、頭が痛いとか体がだるいとか…ありませんでした?」
「えっと…」
別にそんなの、なかった。いつもと同じ、いつも通りの朝だった。だけど。
「昨日は、よく眠れたので、なんだか体がぽわぽわするなぁって思ってましたけど…それ、だめなやつですか?」
「…もちろんです。」
「そう、ですか…。ごめんなさい。」
私は文月さんに謝った。痛みなんてわからないけど、多分文月さんは、わかって欲しいんだと思う。だからきっと今の私はまだまだ、文月さんにとってはダメダメな人間だ。トロくて何も出来なくて、自分のことなんて何も分からない。そういう、ダメ人間。
「謝れなど…一言も言ってないですよ。」
「…」
じゃあ、なんて言えばいいんだ。怒られたときは謝る。それ以外に相手を納得させる方法なんて私は知らない。そんなの、誰も教えてくれなかった。
「じゃあ…なんて言えばいいんですか。」
「…」
「別に何も言わなくて良いですよ。ただ体の力を抜いて頭の中を空っぽにしてください。と言っても、今はもう何も考えられないでしょう?」
「…はい。頭、回んないです。」
文月さんは私の髪に手を伸ばした。綺麗で細長い真っ白な指が私の髪に絡みついく。指はやがて手になって私の上にたどり着く。
「…よく、頑張りましたね。今は休んでください。何も考えず、ただ体の力を抜いてください。春美さんは何も、心配しなくて良いですから。」 
文月さんは、私の頭を撫でていた。そして、優しく笑っている。文月さんの手はあったかくて心地よかった。 

昔、熱を出して寝込んだ時、お母さんがお粥をつくってくれて、私はそれで自分を満たした。眠れない私を、撫でてさすって、私を温もりで満たしてくれた。お母さんの手はあったかくて心地よくて…私はすぐに、眠れた。
「文月さん…そんなに優しくしないでください。」
「え…?」
「だから、私は大丈夫です。仕事、戻ってください。」
私は素直に、文月さんの優しさを受け取ることが出来ない。だってこんなの、きっと偽りの優しさ。文月さんにとって私はただの部下のひとり。血が繋がった家族でもなければ、一生を誓った主従関係でもない。だから別に特別でもなんでもない、ただひとりの普通の人間。文月さんの特別は、坊ちゃんだ。
「…坊ちゃんのところに、行ってあげてください。」
文月さんの優しさは、やっぱり坊ちゃんに向けて欲しい。私なんかじゃなくて、優しくて純粋な坊ちゃんに、ありったけの愛情をそそいでほしい。坊ちゃんには、私みたいになってほしくない。子供は子供らしく甘えて、愛情を溢れだすくらいまで受け取って、そうやって、大人になってほしい。
「坊ちゃんなら…先程お嬢様とふたりでお出かけに参りましたよ。なんでも、気分転換に庭を散歩をしたいのだとか。なので…」
「私、見ての通り暇を持て余しているんですよ。」
文月さんと目が合う。相変わらず長いまつ毛も、その切れ長な瞳もなんだか彫刻みたいに綺麗で、油断したら吸い込まれそうになるくらいだった。文月さんはよく分からない人だ。宝石みたいに綺麗だけど、何かあったらすぐ割れてしまうかもしれないし、あるいはまったく割れないくらい強すぎる何かを持っている、そんな人かもしれない。
「だったら…寝てください。」
「それは、こちらのセリフです。」
文月さんとの攻防が続く。多分これは勝てない、それでも私は。彼に恩返しがしたい。いつも助けられてばかりな、そんな自分が嫌いだ。迷惑がられても、嫌がられても坊ちゃんに尽くす文月さんが居るなら、私はそんな文月さんの手伝いがしたい。文月さんの代わりになりたい。文月さんが、自分のやりたいことを沢山やれる、そんな時間や場所を私が作りたい。
「前に言ったことがありましたよね。私は誰かに尽くすことに生きがいを感じている、と。」
「…え?」
「ですから、私。常に誰かに尽くして居ないと落ち着かないんですよ。体がソワソワしてしまって、何事にも集中できなくて。」
文月さんのやりたいことは、誰かに尽くすこと。であるのならば、私の助けなんて要らないし、むしろ迷惑だ。だったらどうすればいいんだ。私が文月さんにできる恩返しは何だ。わからない。わからない。だってこんなの、誰も教えてくれなかった。
「もう少し、誰かを頼ってみてもよろしいのではないでしょうか。」
「…」
「春美さんの周りには、あなたが思っているよりもたくさん、あなたのことを大切にしている方がいらっしゃいます。私ももちろん、その一人です。」 
「屋敷には、たくさんの人がいます。料理を作るシェフ、入浴補助や清掃業務を担当する者、庭園管理に勤しむ庭師の皆さん。数えたらきっと、キリがありませんね。」
「そういった方々が全員揃って初めて、七条家は成り立ちます。誰かが欠けてしまったらみんなで助け合って傷を癒していく。それが、この家に仕える者の義務であると、私は教えられてきました。」
「ですから。」

「何か、して欲しいことがあるなら。聞いて欲しいことがあるのなら、私に話してくださると、とても嬉しいです。少しでも、ゆっくりでも。私はあなたのことをもっと深くまで、知りたいのです。あなたは私の大切な、部下ですから。」

文月さんは優しく笑った。今までで一番穏やかな顔をしていた。だけど、それは今にも消えてしまいそうなくらい儚くて。今、何かしなきゃ、すぐに無くなっちゃう気がするくらい繊細で脆そうな、そんな顔。

「文月さん…」
「…どうされましたか?」
「何か…なんでもいいから。あったかいものが食べたいです…。あったかくて、あとは…」
私がそれを言い終わる前に、文月さんは私をギュッと抱きしめた。体が熱い。でも、苦しくない。文月さんはそのまま私を撫でた。頭に背中に、たぶんそのあたり。文月さんの真っ白で大きな手が私を包み込む。

人肌って、こんなに、あったかかったっけ?こんなに…恋しかったっけ?

「…よく、出来ましたね。」
文月さんの声は震えていた。いつも通りのハキハキとした、執事らしい声じゃなくて、まるでそれは。壊れかけの何かを拾い集めてもう一度繋ぎ合わせようとしているような、そんな感じだった。
「もう少し…甘えてください。あなたはまだ、子供なんですから。」
文月さんはそう言って私の頭を軽く撫でた後、本をベッドの側のデスクに置いて、医務室を後にした。

嬉しかった。だけど、悔しかった。このハグはきっと…そういうハグじゃない。でも私は、文月さんの言う通り、ただの子供だ。ただの、何も知らない、クソガキだ。
「うっ…ぐすっ。」
涙がとまらなかった。それはどんどんどんどん、まるで止まることを知らないように私の目から溢れ出す。
文月さんのくれた真っ白のタオルに、自分の涙が染み込んでいく。

こんな風に泣いたのはいつぶりだろう。向こうを飛び出した時も、こっちに来た時も、私は泣かなかった。長女だから?いや、そんなんじゃない。たぶん。

泣き方を、忘れていたからだ。
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