Angry Days

櫻井広大

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「取材してもいいかな?」
 女はそう言って名刺を渡してきた。見慣れない文字の下に「Keiko Umibara」と記されており、左端に十一桁の電話番号があるのをチラリと見やった。私は日本の出版社に勤めていて、アメリカのホームレスについての記事を任されていると説明した。再度取材交渉をし、俺はそれを許可した。匿名で載せるから答えられる範囲で答えて欲しい、と前置きし、年齢とホームレスになった大まかな経緯の説明を求めたので、俺はそれに答えた。特に辛い思い出でもなく、淡々と言葉を吐き出していったため、時系列が狂いに狂っていたのに気付いたりした。女はしかと目線を自分に向け、時折手元の手帳に書きつけた。綺麗な筆記体だった。アメリカ人ですらこれほど滑らかにペンを躍らせることはできないだろう。なんとはなしにアメリカで学んだ技術ではないような感じがしたが、同時に日本では筆記体を習うのだろうか、という疑問が浮かんだ。
「見事な文字だ。日本で学んだのか?」
「少しだけね。あとは独学」
「センスがあるのだろう」
「ありがとう。でも見様見真似だから専門家には見せられないわね」
「マジシャンは素人の目を欺いて初めてマジシャンとなる。魅せる対象は専門家じゃない。それと同じだ」
 Coolと女は相槌を打ち、再び取材を促した。雨は衰えを知らず、雨雲は広大な空で悠々と泳いでいた。女は背中に傘を背負い、そこに驟雨が火花のように弾け散った。
 次の日も女はやってきた。ストリートや道路には薄い水たまりが張り、反射した陽射しのせいで辺りはほとんど燃えるように光っていた。そこへ現れたホワイトシャツにブラックパンツ、踵の低い靴の女はニューヨークの街並みと対比してみると少し堅苦しい感じがしたが、セアンの目には美しく写った。ホームレスに話しかける女に物珍しい眼差しを向けつつ通り過ぎる人々など気にしない彼女の振る舞いには、芯があった。取材は順調に進んでいるようで、これから何人かのホームレスにも取材をする予定だと女は言った。政府に求める対応だとか、世間からはどのような扱いを受けているのか等、質問をぶつけた。
 この女と話をしていると、訳がわからず視線や口調が柔らかくなり、大したことでもないのに笑えたりできた。女が笑うと彼女の一重瞼は三日月を浮かべ、さらに自分は優しくなれる。取材とは関係のない会話ですらどこかが満たされる感じがする。親から、同級生から裏切られ続けたせいでいつしか感情に背を向け、金しか信じられなくなった自分の世界には、今、この女がいる。うずくまって呼吸をしていた何者かが、今、笑顔で自分という人格を否定せずに立っている。
 しばらくして女が手帳を閉じ、さりげなくボロボロの袋に計五十ドルを忍び込ませると、「ありがとう。また来るよ」笑顔で去っていった。
 女が長髪を翻したとき、セアンは無意識にその髪の残り香を嗅いだ。いい匂いだった。よくある花の匂いだとか香水の匂いだとか、そういう類の香りではなく、体臭と同じように生まれつき備わったナチュラルな香りだった。通行人からはヘアードレッシングの臭い、香水の臭いが無駄に鼻をつき、必ず不快にさせられるのだが、女のそれは不快に感じなかった。しかし、そんな香りも車の排気ガスやら人の口臭やらですぐに消え去り、ここに先ほどまで女が来ていた事実すら曖昧になりそうなくらい、現実に引き戻された。いつもと同じく淀んだ空気が世界を取り巻いていた。
 それからもセアンは取材を受け、二週間が過ぎた。ほとんど毎日やって来る女と話をするのはとても楽しかった。時々やってこない日があり、待つ間はストリートを歩く黒髪の女を探しては目線で追い、違うと分かれば落胆したり切なくなったりした。それが夜まで続き、とうとう女が現れる可能性が消えてしまうと、もう会えなくなってしまうのだろうかと無性にイライラした。そんな日に限って不吉な夢———例えば女が男と手を繋いで目の前を通り過ぎる夢や、女が日本に帰ってしまう夢を見、死んでしまおうかとポケットにあるハンドガンに手をかけるのだ。
 女が来た日は雨が降ろうとも、通行人にファストフードの残飯をぶっかけられようとも、気分は良かった。大量のエキストラから彼女の顔を見つけたときは待っていてよかった、と自身を褒めたくなった。セアンはもう、彼女の特徴や雰囲気を覚え、どんな場面でもそれを捉えることができていた。
 六月に差し掛かろうとする今日、セアンはいつも通りストリートで目覚め、意味不明の不安が胃を満たしていた。昨日、女が来なかったせいかもしれないとぼんやり考えた。まだ朝が早く、人通りはまばらだ。それだけを認識するとあとはどうでもよくなった。女と会うことも、生きることも、死ぬことも。脳みそが働いていないからか、朝の思考回路はバーキング・ドッグ並だ。いや、吠える意思があるだけまだ俺よりはマシだろう。生きるも死ぬも、どちらの意思も今の自分にはない。女はきっと来るだろう。そう思ってなければ自分が生きているということが実感できない気がした。
 女が現れるまで目は忙しく泳ぎまくり、変にソワソワし始める。分からないというのは残酷だ。誰かが今日は女は来ないと伝えてくれればどれほど気分が楽になるだろうか。はなから知っていれば諦めがつくのに、分からないから期待し、話している姿を想像してしまう。何を話そうか考えている時間が楽しくなってしまう。早く会いたいと気持ちだけが急いでしまう。だからその分会えなかったときは、心臓を握り締め上げられるほどに吐きそうになる。はなから知っていれば、どれほど安心できるだろうか。どれほど穏やかに待つことができるだろうか。どれほど待つのが楽しくなるだろうか。まだ朝は早い。生きる希望を見つけることができなくても、会える希望があればそれだけで十分なはずだ。
 結局、女はこなかった。
 次の日、セアンはテレフォンブースの中にいた。彼女から貰った名刺に書かれてあった電話番号を入力し、コール音が流れる間、ビル群の窓から漏れ出す蛍光を眺めた。目ん玉がチカチカとやかましく痺れるのを感じて目を背けた時、受話器の向こうから彼女の声が囁いた。
「はい、ウミバラです」
「セアンだ。今大丈夫か?」
 ケイコは一瞬黙りこくり、それからゆっくり「あなたの名前はセアンだったのね」と言った。
「ああ、伝えてなかったな。いきなりすまない」
「ううん、ちょっとビックリしただけ。セアンっていう名前、素敵」
「ありがとう。もう、ホテルにいるのか?」
「そう、ホテルで執筆してる」
「そうか、お疲れ様。取材は順調のようだな」
「おかげさまでね」
「なぜ、最近来ない?」
「ちょっと、忙しくって」
「ああ、そうか」
 話す内容をよく思案していなかったため言葉を探していると、ケイコの方からボソリと口を開いた。
「じゃあね」
 
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