7 / 106
第一章 奴隷たちの島々
第4話 走るヨハネ
しおりを挟む
ヨハネはエル・デルタの大通りを大股で駆け抜けていた。
彼は、腿を高く上げ腕を大きく振り、呼吸に律動を持たせ、全身に春の空気の抵抗を感じながら、それを自らの肉体が引き裂いていく感触を全身の細胞で感じ取っていた。
彼の美しい黒髪が風になびいた。
裸足で通りの地面を踏みつける度に彼の足の裏には小石が強くめり込んだ。だが、そんな痛みさえも彼には生きている事実を実感させてくれる喜びの刺激だった。
やがて大通りは緩い登り坂になり、ヨハネの息は切れ、呼吸も苦しくなり、足が上がらなくなると、彼はわざと走る速さを上げた。すぐにわき腹が痛くなり、頭が朦朧としてきたが、彼はこれを待っていたのだ。
そのまま、さらに速度を上げると、ふらりと頭が左右に揺れるような錯覚を覚えた後、彼の頭は得も言われぬ陶酔感に取りつかれた。
こうなると、どんな苦しみも痛みも動物的喜びに過ぎなかった。肺が広がり、脳細胞は覚醒し、五感すべてが膨張した。目に映るものはより濃く細部まで姿を現し、道行く人々の大声はささやき声に聞こえ出した。
それは人間が、肉体を酷使した時にだけ、しかも若いごく一時期だけに感じられる異次元の体験だった。
美しい清潔な大通りをヨハネは走り続けた。そのまましばらくすると、美しい3階建ての赤い煉瓦で造られた建物がヨハネを圧倒するように現れた。三階の外壁には『アギラ商会本部』と大きく書かれた看板と、鷲が子羊を両足で掴んでいる紋章が打ち込まれており、一階には堂々たる正面玄関が造られていた。
もちろん彼はその入り口を使えない。
玄関を通り過ぎ、道を右に曲がって裏通りに入った。右手には商会の搬入口があり、出入り業者が馬車を付ける車止めがせり出していた。
しかし彼にはそこの入り口も使えない。
彼がさらに小さい路地に入ると狭くて汚い路面が現れた。湿った路面には不潔な水溜りが幾つも作られ、所々に野良犬たちの排泄物が落ちていた。生きているのか死んでいるのか判らない宿無しが寝転がり、ボロボロのシャツを着た子供たちが水溜りの汚水の中を飛び跳ねていた。さらに右手に曲がると人ひとりがやっと通れるほどの行き止りの通路があり、そこの右手に木製の粗末な扉があった。
ヨハネのような年季奉公人がこの建物から出入りする時のために作られた専用の扉だった。彼はそこまで走りつき扉へぶつかるように止まった。両手を両膝の上に乗せ中腰になると、汚物臭い空気を肺にいっぱい吸い込みながら息を整えた。そして両手で額の汗を払い飛ばして大声で叫んだ。
「カピタンからのご伝言! ご伝言!」
扉が外側に開くと枯れ木のように痩せた奉公人頭の男が現れ、ヨハネを下に見ながら「なんだ?」と権高に言った。
「セレド奴隷大市場のカピタンからのご伝言! 現金3億3千万ジェン分の10万ジェン紙幣を現金輸送用馬車1台で今すぐ持って来るようにとの事。この護衛は5人。加えて奴隷用10人乗り馬車を2台。こちらの護衛は10人。大至急とのご命令です!」
そこまで怒鳴り上げると、ヨハネは汚い裏路地の泥の上に背中からビチャリと倒れた。ゼイゼイと息をしながら路地の壁の隙間から見える青い空を見ていると、先ほどの奉公人頭が上から覗き込んで言った。
「了解しました、と伝えろ」
ヨハネが息を整えていると、奉公人頭に怒鳴りつけられた。
「奉公人の分際でいつまでも寝てんじゃねえぞ! 早く、カピタンに伝えて来い。『奉公人頭が確かに承りました。すぐに手配を始めます』とな!」
ヨハネは飛び起き後頭部と背中に汚泥おでいを付けたまま、また走り出した。ひと時の休息も、一杯の水も与えられずに、また大通りに飛び出した。少しでも早く走る事だけが、今のヨハネにできるすべてだった。
彼は、腿を高く上げ腕を大きく振り、呼吸に律動を持たせ、全身に春の空気の抵抗を感じながら、それを自らの肉体が引き裂いていく感触を全身の細胞で感じ取っていた。
彼の美しい黒髪が風になびいた。
裸足で通りの地面を踏みつける度に彼の足の裏には小石が強くめり込んだ。だが、そんな痛みさえも彼には生きている事実を実感させてくれる喜びの刺激だった。
やがて大通りは緩い登り坂になり、ヨハネの息は切れ、呼吸も苦しくなり、足が上がらなくなると、彼はわざと走る速さを上げた。すぐにわき腹が痛くなり、頭が朦朧としてきたが、彼はこれを待っていたのだ。
そのまま、さらに速度を上げると、ふらりと頭が左右に揺れるような錯覚を覚えた後、彼の頭は得も言われぬ陶酔感に取りつかれた。
こうなると、どんな苦しみも痛みも動物的喜びに過ぎなかった。肺が広がり、脳細胞は覚醒し、五感すべてが膨張した。目に映るものはより濃く細部まで姿を現し、道行く人々の大声はささやき声に聞こえ出した。
それは人間が、肉体を酷使した時にだけ、しかも若いごく一時期だけに感じられる異次元の体験だった。
美しい清潔な大通りをヨハネは走り続けた。そのまましばらくすると、美しい3階建ての赤い煉瓦で造られた建物がヨハネを圧倒するように現れた。三階の外壁には『アギラ商会本部』と大きく書かれた看板と、鷲が子羊を両足で掴んでいる紋章が打ち込まれており、一階には堂々たる正面玄関が造られていた。
もちろん彼はその入り口を使えない。
玄関を通り過ぎ、道を右に曲がって裏通りに入った。右手には商会の搬入口があり、出入り業者が馬車を付ける車止めがせり出していた。
しかし彼にはそこの入り口も使えない。
彼がさらに小さい路地に入ると狭くて汚い路面が現れた。湿った路面には不潔な水溜りが幾つも作られ、所々に野良犬たちの排泄物が落ちていた。生きているのか死んでいるのか判らない宿無しが寝転がり、ボロボロのシャツを着た子供たちが水溜りの汚水の中を飛び跳ねていた。さらに右手に曲がると人ひとりがやっと通れるほどの行き止りの通路があり、そこの右手に木製の粗末な扉があった。
ヨハネのような年季奉公人がこの建物から出入りする時のために作られた専用の扉だった。彼はそこまで走りつき扉へぶつかるように止まった。両手を両膝の上に乗せ中腰になると、汚物臭い空気を肺にいっぱい吸い込みながら息を整えた。そして両手で額の汗を払い飛ばして大声で叫んだ。
「カピタンからのご伝言! ご伝言!」
扉が外側に開くと枯れ木のように痩せた奉公人頭の男が現れ、ヨハネを下に見ながら「なんだ?」と権高に言った。
「セレド奴隷大市場のカピタンからのご伝言! 現金3億3千万ジェン分の10万ジェン紙幣を現金輸送用馬車1台で今すぐ持って来るようにとの事。この護衛は5人。加えて奴隷用10人乗り馬車を2台。こちらの護衛は10人。大至急とのご命令です!」
そこまで怒鳴り上げると、ヨハネは汚い裏路地の泥の上に背中からビチャリと倒れた。ゼイゼイと息をしながら路地の壁の隙間から見える青い空を見ていると、先ほどの奉公人頭が上から覗き込んで言った。
「了解しました、と伝えろ」
ヨハネが息を整えていると、奉公人頭に怒鳴りつけられた。
「奉公人の分際でいつまでも寝てんじゃねえぞ! 早く、カピタンに伝えて来い。『奉公人頭が確かに承りました。すぐに手配を始めます』とな!」
ヨハネは飛び起き後頭部と背中に汚泥おでいを付けたまま、また走り出した。ひと時の休息も、一杯の水も与えられずに、また大通りに飛び出した。少しでも早く走る事だけが、今のヨハネにできるすべてだった。
1
あなたにおすすめの小説
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【アラウコの叫び 】第4巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日21:40投稿】
4巻は、序盤は「推理もの」、中盤から後半は「ロマンスもの」が展開されます。
・サンティアゴで起こる「事件」と「裁き」
・「アンデスの悪魔」として悪名を轟かせた狂気の老人カルバハルの存在感
・ニドス家の兄妹の「行く末」
・イネスとバルディビアとの「出逢い」と「結末」
大きく分けてこの様な展開になってます。
-------------------
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる