19 / 106
第一章 奴隷たちの島々
第16話 月下の忍び歩き
しおりを挟む
ヨハネは真っ暗な男奉公人用の小屋に戻った。
この商会の奉公人たちはみなここで寝起きしていた。大きな部屋の中央に入り口から向かいの壁までまっすぐ続く通路があり、その左右に十台ずつの寝台が置かれていた。寝台の間には薄い木製のついたてが置かれており、互いの寝台からはお互いの姿が見えなくなっていた。他の奉公人たちはいびきを掻いて寝ていた。
ヨハネの寝台は入り口のすぐ右側だった。新入りは入り口から近い、落ち着きづらい場所を与えられるのがこの大部屋のしきたりだった。そこは男奉公人の汗の臭いが充満していた。寝台に付いている夜具は古い麻布を再利用したもので、敷き布も掛け布も汗と垢のせいで耐えがたい悪臭を放っていた。
ヨハネはドサリと寝台に仰向けに身を横たえた。今日はいろんな出来事が起こった一日だったな、と暗闇の中で思いながら彼は左頬を左手の指でそっと触った、骨は折れていなかったがひどい痣ができているようだった。そしていつも首に巻いているはずの手ぬぐいを取ろうと思って、あのワクワクの女奴隷を思い出した。
ヨハネは寝台から飛び起きると一呼吸おいて、他の奉公人に気付かれないように、そっと小屋を後にした。
春の空気は夜になってもまだ生暖かかった。水溜りを踏まないようにゆっくりとヨハネは歩いた。すでに日は落ちていたが、代わりに満月の光が路面を照らしていた。不潔な路面ですら、満月の下では薄い青色に光り、美しく神秘的に輝いた。
ヨハネは月の光が何よりも好きだった。
彼の生まれ故郷では、日の当たる時間が短く、昼の太陽よりも夜の月が人々の心に光の慈悲を与えた。太陽の強い光は、それを浴びる者たちに偉大な恩恵を与える代わりに、明瞭な影を必ず生み出し、人や物の醜い姿も情け容赦なくあらわにした。そんな太陽と比べて、物陰も人の卑劣な行いも、そして汚物でさえも柔らかく等しく青い光で包み込む月の光は無限の慈愛に満ちていた。
ヨハネが顔を上げて満月を仰ぎ見ると、その上に美しい女性が立っているように見えた。彼は目を閉じその女性の姿を心に焼き付けると、ゆっくりと目を開けた。すでにその姿は消えて、ただただ柔らかな青い光を放つ満月がヨハネを見つめていた。
ヨハネは路地をゆっくりと歩いた。奉公人小屋の隣は男奴隷の小屋だった。男奴隷は数日前にみな、鉱山や採石場のタコ部屋に売られた。いま中には誰もいないはずだった。
その隣が女奴隷の小屋だった。ヨハネはゆっくりとその小屋に近づくと、鉄格子の入った窓の下に張り付いた。目の粗い煉瓦が彼の手と背中に触れた。その窓はヨハネの身長よりも高い所にあり、中の様子を覗き込めなかった。試みに目をつぶって耳を澄ましてみると、すすり泣きと話し声が混じった音がヨハネの耳に入ってきた。中は真っ暗で光が漏れて来る事はなかったが、人の気配は確かにした。ここから中の様子をうかがえなかった。
まるで泥棒だな、とヨハネは思ったが、それ以上にあの娘にもう1度会いたいと言う気持ちが彼を活動的にさせた。ヨハネは女奴隷用の小屋の裏庭へ忍び歩いた。裏庭は鉄格子の壁とそれに沿って植えられたカラタチの木によって完全に囲まれていた。しかもカラタチの木の根元を守るように、柊モクセイの木がびっしりと植えられていた。人差し指ほどもあるカラタチの棘と刃のような柊モクセイの葉がそろって逃亡者と侵入者を拒んでいた。ヨハネが顔を上げるとその生垣の高さは彼の背の3倍近くにもなっていた。それでも煉瓦の壁と違って、生垣はその奥の様子を空気感で教えてくれた。
この先にあの娘がいるかもしれない。
そうヨハネは思った。
この商会の奉公人たちはみなここで寝起きしていた。大きな部屋の中央に入り口から向かいの壁までまっすぐ続く通路があり、その左右に十台ずつの寝台が置かれていた。寝台の間には薄い木製のついたてが置かれており、互いの寝台からはお互いの姿が見えなくなっていた。他の奉公人たちはいびきを掻いて寝ていた。
ヨハネの寝台は入り口のすぐ右側だった。新入りは入り口から近い、落ち着きづらい場所を与えられるのがこの大部屋のしきたりだった。そこは男奉公人の汗の臭いが充満していた。寝台に付いている夜具は古い麻布を再利用したもので、敷き布も掛け布も汗と垢のせいで耐えがたい悪臭を放っていた。
ヨハネはドサリと寝台に仰向けに身を横たえた。今日はいろんな出来事が起こった一日だったな、と暗闇の中で思いながら彼は左頬を左手の指でそっと触った、骨は折れていなかったがひどい痣ができているようだった。そしていつも首に巻いているはずの手ぬぐいを取ろうと思って、あのワクワクの女奴隷を思い出した。
ヨハネは寝台から飛び起きると一呼吸おいて、他の奉公人に気付かれないように、そっと小屋を後にした。
春の空気は夜になってもまだ生暖かかった。水溜りを踏まないようにゆっくりとヨハネは歩いた。すでに日は落ちていたが、代わりに満月の光が路面を照らしていた。不潔な路面ですら、満月の下では薄い青色に光り、美しく神秘的に輝いた。
ヨハネは月の光が何よりも好きだった。
彼の生まれ故郷では、日の当たる時間が短く、昼の太陽よりも夜の月が人々の心に光の慈悲を与えた。太陽の強い光は、それを浴びる者たちに偉大な恩恵を与える代わりに、明瞭な影を必ず生み出し、人や物の醜い姿も情け容赦なくあらわにした。そんな太陽と比べて、物陰も人の卑劣な行いも、そして汚物でさえも柔らかく等しく青い光で包み込む月の光は無限の慈愛に満ちていた。
ヨハネが顔を上げて満月を仰ぎ見ると、その上に美しい女性が立っているように見えた。彼は目を閉じその女性の姿を心に焼き付けると、ゆっくりと目を開けた。すでにその姿は消えて、ただただ柔らかな青い光を放つ満月がヨハネを見つめていた。
ヨハネは路地をゆっくりと歩いた。奉公人小屋の隣は男奴隷の小屋だった。男奴隷は数日前にみな、鉱山や採石場のタコ部屋に売られた。いま中には誰もいないはずだった。
その隣が女奴隷の小屋だった。ヨハネはゆっくりとその小屋に近づくと、鉄格子の入った窓の下に張り付いた。目の粗い煉瓦が彼の手と背中に触れた。その窓はヨハネの身長よりも高い所にあり、中の様子を覗き込めなかった。試みに目をつぶって耳を澄ましてみると、すすり泣きと話し声が混じった音がヨハネの耳に入ってきた。中は真っ暗で光が漏れて来る事はなかったが、人の気配は確かにした。ここから中の様子をうかがえなかった。
まるで泥棒だな、とヨハネは思ったが、それ以上にあの娘にもう1度会いたいと言う気持ちが彼を活動的にさせた。ヨハネは女奴隷用の小屋の裏庭へ忍び歩いた。裏庭は鉄格子の壁とそれに沿って植えられたカラタチの木によって完全に囲まれていた。しかもカラタチの木の根元を守るように、柊モクセイの木がびっしりと植えられていた。人差し指ほどもあるカラタチの棘と刃のような柊モクセイの葉がそろって逃亡者と侵入者を拒んでいた。ヨハネが顔を上げるとその生垣の高さは彼の背の3倍近くにもなっていた。それでも煉瓦の壁と違って、生垣はその奥の様子を空気感で教えてくれた。
この先にあの娘がいるかもしれない。
そうヨハネは思った。
0
あなたにおすすめの小説
7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる