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第二章 拡がりゆく世界
第35話 報告と査定
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トマスの秘書に導かれて、2人はカピタンの部屋に入った。
部屋の天井は高く、ペルシャ絨毯が敷かれ、黒檀で作られた大きな机の向こうの椅子にトマスはゆったりと座っていた。
その背後には、大鷲が赤子を爪で掴み去る大きな絵画が、高く掛けられていた。そしてその絵の下には、肩に付ける仕組みの義手が3本も掛けられていた。1つは、手首の先に木製の手が付いたもの、もう1つは、半円形の鉤が付いたもの、最後の1つは、短い短刀が付いたものだった。
トマスは、左頬に付いた傷を口の内側から舌で押しながら、紙に鵞鳥の羽ペンを使って右手で文字を書いていた。
ヨハネとペテロは直立不動で机の前に立った。トマスはまるで目の前の2人に気が付かないかのように、文字を書き続けた。その間、ヨハネは、トマスの容姿を注意深く眺めた。
赤毛の髪の毛は短く刈り込まれ、目の色は青かったが、肌の色はヨハネにワクワクを連想させた。体はやや小さめだが、骨太でがっしりとした体つきだった。
沖仲士や解体人足と働いているヨハネは、若い頃から本当につらい肉体労働をしてきた人間だけがああいう体になる事を知っていた。
そのままゆっくりと時間は立って行った。相変わらずトマスは文字を書き続けていたが、やがて書類を書きあげると、鵞鳥の羽ペンの先を布で拭きながら、2人の顔を交互にじっくりと観察した。
「ヨハネ」
トマスはヨハネの顔を眺めながら言った。
「はい」
「馬車の乗り心地はどうだった?」
「素晴らしいものでした」
「奉公人のお前が馬車に乗るなど法外な事だ。二度と馬車を使いたいなどと頼むな。分かったな」
「……はい」
「馬車に乗って何か気付いた事があったか」
「はい。歩いている時は気付きませんでしたが、大通りの整備は不十分です。轍が深くなりすぎて、馬に負担がかかる所がいくつかありました。また、中州を繋ぐ橋の坂は馬1頭では上るに難しい角度です。改善が必要だと思います」
「他には?」
「馬車の数が増えました。馬車を持てる人間が増えたのだと思います。また、馬車に人を乗せて運び賃を取る商売が出てきているようです」
「ふん、そうか」
トマスは次にペテロの顔をじっと見て言った。
「ペテロ。ご苦労だった」
トマスはペテロの海焼けした顔を見ながら言った。
「お前が東インドまで行って考えた事を話してみろ」
「東インドは大混乱ですよ。ポルトガルやオランダがあちこちに要塞や港を作って大げんかをしています。まさに群雄割拠の時代です。地元の勢力も反発の力は激しいものです。一番がジャワのマタラム王国です。その王スルタン=アグンとその後継者は希代の英雄と言われています。またスマトラのアチェーはポルトガルと敵対してオランダと付かず離れずの関係を保っています。マラカのポルトガル人はオランダに追われてしまいました。とにかく猫の目がくるくる回るように敵味方が入り乱れ、今日の情報が明日はもう古い、と言うくらいです」
「ふん、そうか。で、お前は東インドで何が売れると思う?」
「武器弾薬、それに人間です。欧州の国々は常に人手不足で本国から人を呼ぼうとしていますが、僻地へ行きたがる者が少なく、周辺からしきりに奴隷を買っているようです。また商館や要塞に住む人々は贅沢を憶え、王侯貴族のような生活をしています。そのため様々な贅沢品をティエラ・フィルメから輸入しています。麝香・大横・真珠・絹糸などです」
「ふん、お前ならどこの国と友好関係を結ぶべきだと思う」
「スペインです。スペインは世界帝国です。スペインと取引していれば間違いはないと思います」
「ふん」
トマスは羽ペンを噛みながら考えていたが、やがて言った。
「ペテロ。長旅ご苦労だった。明日の昼まで休んでいいぞ。あす詳細な報告書を私に提出しろ。それから、今日からお前は商会本会の2階の部屋を使え。ヨハネの部屋の隣だ。秘書に言えばすぐに分かるようにしてある。今後も東インドの情報を集めろ。終わりだ」
「はい! 有難うございます!」
ペテロはそう言うとカピタンの部屋から出て行った。ヨハネもそれに着いて行こうとしたが、「待て」とトマスに止められた。トマスとヨハネは部屋に2人きりになった。ヨハネはトマスのほうに体の向きを変えて尋ねた。
「何でしょうか?」
「ヨハネ。お前はペテロの報告をどう思う?」
ヨハネはしばらく黙っていたが、静かにこう言った。
「ペテロはカピタンの奉公人です。奉公人を評価できるのは契約主であるカピタンだけです」
「ふん。だが隣で聞いていて何か思う事があっただろう?」
「……私とペテロは友人です。友人は友人を評価できません」
「ふん。そうか」
トマスはしばらく黙り込んでいた。
「質問を変える。これからこの商会が商売を続ける上で最も大事な商品は何だと思う」
「布です」
ヨハネは即答した。
「布は人間が生きて行くために必ず必要なものです。しかも世界中どこの国でも、誰が有力者になろうとも、王侯貴族や成金たちは絹を求めます。豊かでない者たちにも必ず布は必要です。これは誰にでもいつでも必ず売れる商品です。贅沢品は一時的に大量に売れる事がありますが、それを買う富裕層は浮き沈みが激しいはずです。それより必需品を売るべきです。それに布は運搬が他の品物に比べて簡単です。高級品の運搬には特別な経験が必要です。誰でも運べるわけではありません」
「……そうか。ふん」
トマスはまた羽ペンを噛みながら何か考えていたが、やがて言った。
「お前も今日は下がっていいぞ。明日の昼まで休め。明日からはどんな仕事をするつもりだ?」
「商会裏の不潔な路地を作り直したいと思います。それから新人の奉公人たちに定常業務を教えます」
「そうか。よし、終わりだ」
そう言うとトマスはまた羊皮紙に何か書き始めた。ヨハネは邪魔にならないようにそっと部屋を出た。
部屋の天井は高く、ペルシャ絨毯が敷かれ、黒檀で作られた大きな机の向こうの椅子にトマスはゆったりと座っていた。
その背後には、大鷲が赤子を爪で掴み去る大きな絵画が、高く掛けられていた。そしてその絵の下には、肩に付ける仕組みの義手が3本も掛けられていた。1つは、手首の先に木製の手が付いたもの、もう1つは、半円形の鉤が付いたもの、最後の1つは、短い短刀が付いたものだった。
トマスは、左頬に付いた傷を口の内側から舌で押しながら、紙に鵞鳥の羽ペンを使って右手で文字を書いていた。
ヨハネとペテロは直立不動で机の前に立った。トマスはまるで目の前の2人に気が付かないかのように、文字を書き続けた。その間、ヨハネは、トマスの容姿を注意深く眺めた。
赤毛の髪の毛は短く刈り込まれ、目の色は青かったが、肌の色はヨハネにワクワクを連想させた。体はやや小さめだが、骨太でがっしりとした体つきだった。
沖仲士や解体人足と働いているヨハネは、若い頃から本当につらい肉体労働をしてきた人間だけがああいう体になる事を知っていた。
そのままゆっくりと時間は立って行った。相変わらずトマスは文字を書き続けていたが、やがて書類を書きあげると、鵞鳥の羽ペンの先を布で拭きながら、2人の顔を交互にじっくりと観察した。
「ヨハネ」
トマスはヨハネの顔を眺めながら言った。
「はい」
「馬車の乗り心地はどうだった?」
「素晴らしいものでした」
「奉公人のお前が馬車に乗るなど法外な事だ。二度と馬車を使いたいなどと頼むな。分かったな」
「……はい」
「馬車に乗って何か気付いた事があったか」
「はい。歩いている時は気付きませんでしたが、大通りの整備は不十分です。轍が深くなりすぎて、馬に負担がかかる所がいくつかありました。また、中州を繋ぐ橋の坂は馬1頭では上るに難しい角度です。改善が必要だと思います」
「他には?」
「馬車の数が増えました。馬車を持てる人間が増えたのだと思います。また、馬車に人を乗せて運び賃を取る商売が出てきているようです」
「ふん、そうか」
トマスは次にペテロの顔をじっと見て言った。
「ペテロ。ご苦労だった」
トマスはペテロの海焼けした顔を見ながら言った。
「お前が東インドまで行って考えた事を話してみろ」
「東インドは大混乱ですよ。ポルトガルやオランダがあちこちに要塞や港を作って大げんかをしています。まさに群雄割拠の時代です。地元の勢力も反発の力は激しいものです。一番がジャワのマタラム王国です。その王スルタン=アグンとその後継者は希代の英雄と言われています。またスマトラのアチェーはポルトガルと敵対してオランダと付かず離れずの関係を保っています。マラカのポルトガル人はオランダに追われてしまいました。とにかく猫の目がくるくる回るように敵味方が入り乱れ、今日の情報が明日はもう古い、と言うくらいです」
「ふん、そうか。で、お前は東インドで何が売れると思う?」
「武器弾薬、それに人間です。欧州の国々は常に人手不足で本国から人を呼ぼうとしていますが、僻地へ行きたがる者が少なく、周辺からしきりに奴隷を買っているようです。また商館や要塞に住む人々は贅沢を憶え、王侯貴族のような生活をしています。そのため様々な贅沢品をティエラ・フィルメから輸入しています。麝香・大横・真珠・絹糸などです」
「ふん、お前ならどこの国と友好関係を結ぶべきだと思う」
「スペインです。スペインは世界帝国です。スペインと取引していれば間違いはないと思います」
「ふん」
トマスは羽ペンを噛みながら考えていたが、やがて言った。
「ペテロ。長旅ご苦労だった。明日の昼まで休んでいいぞ。あす詳細な報告書を私に提出しろ。それから、今日からお前は商会本会の2階の部屋を使え。ヨハネの部屋の隣だ。秘書に言えばすぐに分かるようにしてある。今後も東インドの情報を集めろ。終わりだ」
「はい! 有難うございます!」
ペテロはそう言うとカピタンの部屋から出て行った。ヨハネもそれに着いて行こうとしたが、「待て」とトマスに止められた。トマスとヨハネは部屋に2人きりになった。ヨハネはトマスのほうに体の向きを変えて尋ねた。
「何でしょうか?」
「ヨハネ。お前はペテロの報告をどう思う?」
ヨハネはしばらく黙っていたが、静かにこう言った。
「ペテロはカピタンの奉公人です。奉公人を評価できるのは契約主であるカピタンだけです」
「ふん。だが隣で聞いていて何か思う事があっただろう?」
「……私とペテロは友人です。友人は友人を評価できません」
「ふん。そうか」
トマスはしばらく黙り込んでいた。
「質問を変える。これからこの商会が商売を続ける上で最も大事な商品は何だと思う」
「布です」
ヨハネは即答した。
「布は人間が生きて行くために必ず必要なものです。しかも世界中どこの国でも、誰が有力者になろうとも、王侯貴族や成金たちは絹を求めます。豊かでない者たちにも必ず布は必要です。これは誰にでもいつでも必ず売れる商品です。贅沢品は一時的に大量に売れる事がありますが、それを買う富裕層は浮き沈みが激しいはずです。それより必需品を売るべきです。それに布は運搬が他の品物に比べて簡単です。高級品の運搬には特別な経験が必要です。誰でも運べるわけではありません」
「……そうか。ふん」
トマスはまた羽ペンを噛みながら何か考えていたが、やがて言った。
「お前も今日は下がっていいぞ。明日の昼まで休め。明日からはどんな仕事をするつもりだ?」
「商会裏の不潔な路地を作り直したいと思います。それから新人の奉公人たちに定常業務を教えます」
「そうか。よし、終わりだ」
そう言うとトマスはまた羊皮紙に何か書き始めた。ヨハネは邪魔にならないようにそっと部屋を出た。
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