ガレオン船と茶色い奴隷

芝原岳彦

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第二章 拡がりゆく世界

第58話 月の上に立つ娘

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ヨハネはある日の夕方、市参事会しさんじかいの仕事を終えて街を1人歩いていた。

 夕日に赤く照らされた大通りでは、長い影を引いた人々が家路を急いでいた。やがて日が沈むと、町並みは太陽の光を失い、黒い壁となってヨハネを圧迫した。それでも窓の隙間からは蝋燭ろうそくの小さな灯が漏れ始めていた。

 彼はその光に人の営みを感じて安心した。

 蝋燭の光、井戸のつるべの音、料理の臭い。

 ヨハネは人々の生活の雰囲気を何よりも好んだ。

 街の大通りでは松明を持った市参事会しさんじかいの警備員たちが2人1組で見回りを始めた。彼らに声を掛けられると面倒だ、そうと思ったヨハネは横道に入った。その路地の両側は煉瓦れんがの壁ではなくカラタチの生垣いけがきだった。



 白い花が生垣いけがきを覆うように咲いていた。

 やがて街の色は黒から青に少しずつ変わり始めた。満月の光が、太陽の代わりに街を照らし始めた。白い花は青い光を浴びてぼんやりと光り始め、その香りはヨハネの鼻孔びこうを満たした。



 この先の丘に神殿跡がある、とヨハネは思い出した。何年か前に解体されたワクワクの神殿跡からは街が見下ろせたはずだった。

 彼は青く照らされたこの街を遠くから眺めたいと思い、カラタチの花に挟まれた通路を疲れた体を引きずるように歩いた。幾つもの曲がり角と橋を越えて、神殿跡の石段の下まで彼はたどり着いた。青く大きな月が力強くあたりを照らし、何もかもを等しく青い色に染めた。



 その時、ヨハネは自分の頭上を1羽の白い鳩が空を飛んでいるのに気付いた。青い月光つきあかりの中を、円を描いて飛ぶその白い鳩は、彼を導くように階段の上に消えて行った。



 ヨハネはゆっくりと石段を昇った。青い月は少しずつ大きくなった。彼は石段を昇り切ると広場に出た。広場の奥に小さな丘があり、その上に葉のない1本の木が痩せた幹を月明かりに晒していた。その木の下に、1人の女がヨハネに背を向けて、青い月を眺めていた。



 ヨハネが息を飲んで後ろに1歩下がると、彼の踏んだ小石が敷石しきいしと擦すれて音を立てた。



「だれ?」

 その女は振り返ってヨハネを見た。



 その女は若い娘だった。
 黒銀色の髪を肩まで伸ばしたその娘は、丸くて大きな目をさらに大きく見開いてジッと彼を見つめた。



 ヨハネの心臓は早鐘のように拍動りつどうし始めた。その娘は青い月を後ろにして少し首をかしげると、両手を後ろに組んだ。春の柔らかな夜の空気の中で見せるその様子は、まるで1人の女が月の上に立つように見えた。



 それはヨハネに以前に教会で見た絵画を連想させた。その絵の中では、聖母が両手を合わせ月の上に立っていた。



「街を……」

 ヨハネは言いかけて言葉を呑み込んだ。

「街を? どうしたの」

 その娘は口を開いた。厚ぼったい唇が緩やかに動いた。

「この高台から、街を眺めに来たんだ」

 ヨハネは服の胸元を右手で握りながら言った。



「うふふふふ」

 その娘は低めの柔らかい声で笑った。

「あなたもそうなの。わたしもよ。満月の夜の眺めは本当に綺麗だものね。街中が青く光った湖に沈んだみたい。あなたも上がっていらっしゃいよ」



 ヨハネは、青い月光の中、丘に登った。そしてその娘とは少し距離を置いた場所に立ち、彼女の横に並んで月を眺めた。ヨハネは顔を横に向け、その娘に目をやった。



 彼女は貫頭衣を着て、J字型の赤い石が付いた首飾りをしていた。肌は浅黒く、肉感的な身体つきをしていた。短い裾から伸びた両足と大きく張り詰めた胸がヨハネの目に入ってきた。

 彼はごまかすように両手を組み合わせて正面の月を見た。彼は体が熱くなるのを感じると同時に、強い既視感を憶えた。みぞおちに痛いほどのうずきを覚えた。



「君は、どこの人? どこから来たの?」

 ヨハネは月を見つめながら訪ねた。

「街の北に盆地があるの。馬車がたくさん停まる所。そこの村からよ」

 その娘も月を見ながら答えた。



「あなた、メグのお友達でしょ?」

 にっこり笑いながら聞いた。

「なぜ? なぜそう思うの? なぜメグを知っているの?」

 ヨハネは息が止まるほど驚いて目を大きく見開いた。

「その赤い石の首飾り。メグからもらったんでしょ。わたしも持ってるもの。メグはね、お友達にはみなその石をあげるのよ。わたしの村の崖から出る石。磨いて飾りに使うのよ」

 その娘は自分の喉の下にある赤い石を指さして言った。

「君の名は?」

「マリア。マリアよ。あなたのお名前は?」

「ヨハネ。ヨハネだ」

 ヨハネは声を上ずらせて言った。まだ彼の心臓は大きく速く拍動したままだった。

「アギラという商会で働いてる」

「そこ、明日からわたしが働く所よ」

 マリアは目を丸くして言った。

「偶然ね」

「ああ、すごい偶然だね」

 ヨハネの心臓は高鳴りを止めなかった。

「あなたは商会でどんなお仕事をしているの」

 マリアは笑顔で聞いた。

「織物工房の準備をしたのは私だよ。空いた建物を借りてきれいにしたんだ」



 ヨハネは服の両側を両手で強く掴んだ。奴隷売買の仕事については告げなかった。彼女の嫌われるのではないかと思ったのだ。

「いや、奴隷売買の手伝いもしてる」

 彼はそう付け加えると少し下を向いた。マリアは唇を少し開けて、ヨハネから顔を少し背けると、彼の顔を横目で見た。

「隠そうとしたのね。なぜ?」

「……分からない。いや、君に嫌われると思ったんだ」

「うふふふふ。でも隠さなかった。正直ね」



 マリアは笑顔で言った。その笑顔を見て、ティーに似ている、とヨハネは思った。

 彼の記憶の中ではティーの顔は薄れつつあった。

 だが確かに似ていたのだ。

「昔、君とよく似た人に遇ったんだ」

「そうなの。それはどんな人?」

 マリアは無邪気に尋ねた。

「その娘は……」



 ヨハネは声を少し震わせて、声を詰まらせた。心の中でティーの声や姿、そして臭いを思い出そうとした。記憶の中のティーと目の前のいる初対面の娘はまったく似ていないはずだった。だが、ヨハネの心の中で2人の存在は混ざり合い、喪失そうしつの悲しみと邂逅かいこうの喜びが彼の心臓を不規則に拍動させた。その矛盾した感情が彼の体にもたらす不思議な痛みは心臓から始まり、みぞおちから下腹に伝わると、さらに視覚にまで広がり、彼の視界をぼやけさせた。それは彼が今までに体験した事のない不思議な興奮だった。



「別に無理に答えなくていいのよ」

 マリアは何か察したように言った。

「もう帰るわ。夜も更けるもの」

「送って行くよ」

 ヨハネは間髪入れずに言った。

「女の子が夜1人で歩くのは危ないよ。この街は治安がいいほうだけど、何があるかわからないし、この間も商会の近くの家に空き巣が入ったんだ。それに酒屋に入れない酔っ払いが道端で酒を飲んで騒いでいる事もある。もちろん市参事会しさんじかいの警備員が見回っているけど何が起こるかわからないから」



 ヨハネは早口でまくし立てた。自分でもこんなに口が速く回るとは思わないほど口が動いた。

 マリアはそれを聞いてしばらく無表情だったが、にっこりと笑うと言った。

「それじゃあ、送ってもらおうかしら。自己紹介もしあったし、同じ所で働く身元の確かな人だしね。うふふ」



 ヨハネは頬を紅潮させて歩き出した。その少し後ろをマリアがパタパタと音を立てて歩いた。マリアはサンダルを履いていた。

「ねえ、どうして短衣にサンダルなの? 女中服と革靴をもらったはずだよね」

「わたし、あれ苦手なのよ。女中服は首回りがきついし、革靴は足が痛くなっちゃう。この短衣は寝間着ねまきなのよ」

寝間着ねまきで外を出歩いちゃだめだよ」

「どうして?」

「どうしてって……」



 ヨハネはどぎまぎしながらつぶやいた。そのまま2人は無言のまま歩き続けた。やがてカラタチの生垣の路地までやって来た。ここまでくると商会はすぐだった。ヨハネは少し歩みの速度を落とした。

「このお花、いい香りがするわね」

 マリアは深呼吸をしながら言った。ヨハネが振り向くと道の両側に咲くカラタチの花は青い月に照らされて光りながら、マリアを守るように咲き誇っていた。

「気を付けて。その木には長い棘が付いているから」

「そうなの?」

 花に手を伸ばそうとしていたマリアは手を引っ込めた。

「昔、カラタチの生垣をくぐって傷だらけになった事があるんだ」

「なんで、そんなことしたのよ。あ、わかった。脱走でしょ。うふふ」

「違うよ」

「隠さなくてもいいのよ。奉公がつらくて逃げようとしたのね。わかるわ」

「いや、違うって」

「うふふ、男の人って自分の弱い所を隠そうとするのよね。いいわ。秘密にしてあげる」

「ほんとに違うんだよ」



 そんな会話を続けながら、ヨハネはこのカラタチの道がずっと続けばよいのに、と思った。しかし、二人の視界の遠くには、商会と織物工房が小さく現れた。ヨハネはさらにゆっくりと歩こうとしたが、マリアに不自然に思われるのを恐れて反対に速足で歩いた。そのおかしな歩き方は蟹が無理やり前に歩こうとしているのに似ていた。マリアはそれを見て、あなた、何をやってるのよ、と言うと、また、うふふ、と柔らかな声で笑った。



 2人は商会の裏までたどり着いた。

「ここまで来ればもう大丈夫よ。ありがとう。ヨハネ」

 そう言うとマリアはサンダルをパタパタ鳴らしながら走り去ってしまった。ヨハネは急に周りの空気が冷たくなったように感じて身震いすると、商会の奉公人用入り口に向かって肩を落として歩き始めた。
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