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第一章
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「雪乃」
原口源左衛門は家に帰ってくると妻の名前を呼んだ。
たすき掛けをして食事の用意をしていた雪乃が玄関に姿を現した。
源左衛門は腰の刀を抜き取り、妻に渡した。上り框に腰を下ろし、草鞋を脱ぐ。
「話がある。後で私の部屋に来なさい」
そう言って奥へと歩いていく夫の背中を、雪乃は怯えを含んだ目で見送った。
「源左衛門さま」
部屋の外で雪乃の声がした。
「入りなさい」
源左衛門は筆を持つ手を休めずに言う。
部屋に入りふすまを閉めると、雪乃は部屋の隅に正座した。
源左衛門は雪乃のほうに向きなおって座り直した。
「今日の御前試合がどのような意味を持っていたのかは知っているな?」
「はい」
俯いた雪乃は小さな声で返事をした。
「決勝戦で木村様の腕を折ってしまった。藩主様の前で己の未熟さを曝し、木村様には遺恨を残すこととなった。このまま私が道場を継いだとしても、今までのようにやっていけるとは思えない。山本先生はもし何かあったら自分が責任を負うと仰って下さった。しかし私が曝した失態を先生に押し付けるわけにはいかない。米形藩随一の道場でいざこざがあったとなっては、藩主様にも申し訳が立たない」
源左衛門の言葉を、雪乃は黙って聞いている。
年に一度行われる御前試合は、米形藩で行われる大きな行事の一つである。試合は木刀による寸止め形式で、三本勝負の勝ち抜きトーナメント方式で行われる。出場者はそれぞれ家名の威信をかけて試合に臨んだが、ここ数年は山本道場の者たちが上位を独占する状況が続いていた。そして決勝に残るのもこの数年同じ顔ぶれで、山本道場の師範代の源左衛門と、同じ山本道場の師範代、木村勇吾であり、勝者もまた決まって源左衛門であった。
ただ、今回の御前試合がいつもと違うのは、この試合の優勝者が山本道場の後継者になると公にされたからである。元々高齢の山本竜安が引退を考えた時、まだ若いながらも人並み以上の天分、人格、そして剣の腕を持った源左衛門以上にこの道場にふさわしい人物はいなかった。そして源左衛門がこの道場を継ぐという事は半ば公然の事実となっていた。山形藩でずば抜けた技を持つ源左衛門が御前試合で優勝することは当たり前のことであり、藩主に山本道場の主の交代を知らせるための儀式のようなものであった。
ところが、決勝戦で相手の木村は、真剣勝負のように本気で打ちかかってきた。
木村勇吾は源左衛門より十一歳年上で、道場に通い始めたのも十年ほど早かった。誰よりも稽古をすると評判で、足の裏を一寸もすり減らして師範代にまで上り詰めたと言われる苦労人であった。性格も大人しい人格者であったが、この時の木村は鬼のような形相で、寸止めの試合形式を無視して遮二無二に打ち込んできた。
すぐに審判役が試合を止めようとしたが、木村は聞かなかった。なぜ木村がそのような戦い方をするのか、源左衛門には理解できなかった。
源左衛門は冷静に木村の打ち込みをかわしていたが、こちらが打たない限り試合は終わらないと思った。藩主の前で無様な試合をしているという怒りもあった。
相手の切り返しの瞬間を狙って小手を打った。木村は咄嗟にそれを避けようとしたため有らぬ動きが入り、源左衛門の打ち込みは思わず強く入ってしまった。
木村が木刀を取り落とした時、右手の手首はあらぬ方向へと折れ曲がっていた。
原口源左衛門は家に帰ってくると妻の名前を呼んだ。
たすき掛けをして食事の用意をしていた雪乃が玄関に姿を現した。
源左衛門は腰の刀を抜き取り、妻に渡した。上り框に腰を下ろし、草鞋を脱ぐ。
「話がある。後で私の部屋に来なさい」
そう言って奥へと歩いていく夫の背中を、雪乃は怯えを含んだ目で見送った。
「源左衛門さま」
部屋の外で雪乃の声がした。
「入りなさい」
源左衛門は筆を持つ手を休めずに言う。
部屋に入りふすまを閉めると、雪乃は部屋の隅に正座した。
源左衛門は雪乃のほうに向きなおって座り直した。
「今日の御前試合がどのような意味を持っていたのかは知っているな?」
「はい」
俯いた雪乃は小さな声で返事をした。
「決勝戦で木村様の腕を折ってしまった。藩主様の前で己の未熟さを曝し、木村様には遺恨を残すこととなった。このまま私が道場を継いだとしても、今までのようにやっていけるとは思えない。山本先生はもし何かあったら自分が責任を負うと仰って下さった。しかし私が曝した失態を先生に押し付けるわけにはいかない。米形藩随一の道場でいざこざがあったとなっては、藩主様にも申し訳が立たない」
源左衛門の言葉を、雪乃は黙って聞いている。
年に一度行われる御前試合は、米形藩で行われる大きな行事の一つである。試合は木刀による寸止め形式で、三本勝負の勝ち抜きトーナメント方式で行われる。出場者はそれぞれ家名の威信をかけて試合に臨んだが、ここ数年は山本道場の者たちが上位を独占する状況が続いていた。そして決勝に残るのもこの数年同じ顔ぶれで、山本道場の師範代の源左衛門と、同じ山本道場の師範代、木村勇吾であり、勝者もまた決まって源左衛門であった。
ただ、今回の御前試合がいつもと違うのは、この試合の優勝者が山本道場の後継者になると公にされたからである。元々高齢の山本竜安が引退を考えた時、まだ若いながらも人並み以上の天分、人格、そして剣の腕を持った源左衛門以上にこの道場にふさわしい人物はいなかった。そして源左衛門がこの道場を継ぐという事は半ば公然の事実となっていた。山形藩でずば抜けた技を持つ源左衛門が御前試合で優勝することは当たり前のことであり、藩主に山本道場の主の交代を知らせるための儀式のようなものであった。
ところが、決勝戦で相手の木村は、真剣勝負のように本気で打ちかかってきた。
木村勇吾は源左衛門より十一歳年上で、道場に通い始めたのも十年ほど早かった。誰よりも稽古をすると評判で、足の裏を一寸もすり減らして師範代にまで上り詰めたと言われる苦労人であった。性格も大人しい人格者であったが、この時の木村は鬼のような形相で、寸止めの試合形式を無視して遮二無二に打ち込んできた。
すぐに審判役が試合を止めようとしたが、木村は聞かなかった。なぜ木村がそのような戦い方をするのか、源左衛門には理解できなかった。
源左衛門は冷静に木村の打ち込みをかわしていたが、こちらが打たない限り試合は終わらないと思った。藩主の前で無様な試合をしているという怒りもあった。
相手の切り返しの瞬間を狙って小手を打った。木村は咄嗟にそれを避けようとしたため有らぬ動きが入り、源左衛門の打ち込みは思わず強く入ってしまった。
木村が木刀を取り落とした時、右手の手首はあらぬ方向へと折れ曲がっていた。
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