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第三章
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侍は源左衛門の姿を見て驚いたようであった。この辺りの長屋に暮らすのはほとんどが町人だからである。
「朝からすみません」
武士の姿の源左衛門を見て、若い侍は隣の住人に話した時とは明らかに違う口調になって言った。
「何かあったのですか?」
源左衛門が侍に尋ねた。
「昨夜、商家に押し入りがあり、金品が盗まれました。失礼ですが、部屋の中を改めさせていただきたい」
「雪乃」
源左衛門は奥の部屋の雪乃に声をかけた。
はい、という返事をして雪乃がふすまを開けた。
「どうぞ」
源左衛門は侍を室内へ招き入れた。室内といっても、土間に続く一間と、ふすまで仕切られた先に小部屋があるのみである。
「失礼しました」
小さな押入れを覗きこんだ後で、侍はそう言って頭を下げて出ていった。
「何だ何だ、朝っぱらから」
しばらくして隣から大工の政の威勢のいい声が聞こえてきた。
朝食を済ませた後、源左衛門が中川の道場に行くと、稽古場は閑散としていた。
「手の空いている藩士は皆、駆り出されたよ」
道場の師範で、年老いた中川が言った。
「商家に押し入りがあったと聞きましたが」
「城下一の繁栄を誇ると言われてきた三河屋に賊が押し入り、家族全員に住み込みの奉公人合わせて九名が殺された。事件が発覚したのは明け方近くのことで、犯人はまだ一人も捕まっていない」
「それはひどい事を」
「そんな訳で、今日は誰も稽古に来ないであろうから、よかったらここで思う存分稽古をしていきなさい」
「は、ありがとうございます」
源左衛門は中川に頭を下げると、支度をするために立ち上がった。
その日の夕方、源左衛門が『甚八』に行くと、亭主の甚六が床に座り酒を飲んでいた。
「もう客は来まい。今日は店仕舞いにする」
店に入った源左衛門に甚六が言った。
「はい」
「ま、ここに来て座りなされ」
源左衛門が帰ったらいいのかと迷っていると、甚六が声をかけた。
源左衛門は脇差を抜いて床に置き、甚六の向かいに腰を下ろした。
「藩のほうから夜の商いは控えた方がいいとのお達しがあった。どうせしばらくの間、客など来ないだろうが」
「ええ」
「そんな訳で、以前のようにお天道様があるうちに茶と菓子を出すだけにする。源左衛門さんには悪いが、また夜まで店を開けていられるようになるまで、しばらく休んでいてくだされ」
「わかりました。それでは今日はこれで」
源左衛門は立ち上がろうとした。
「ちょっとお待ちなされ。今日の分の酒と料理を仕込んじまったので、少しやっていって下さい」
「しかし」
「何、あっしも飲みますから。少し付き合ってください」
源左衛門は座り直した。時々、賄として出される食事に、主人の配慮で酒を付けてくれるときがあったが、源左衛門は手を付けなかった。一人源左衛門の帰りを待つ雪乃のことを思うと、酒を飲む気にはなれなかった。
しかしその日は日頃世話になっている甚六のために付き合うことにした。
『甚八』に来るようになって数日経つが、源左衛門は一度も仕事らしいことをしていなかった。
酔っ払いのちょっとしたいざこざがなかったわけではない。しかし強面で、その辺り界隈ではちょっとした顔になっている甚六が顔を出すと、威勢の良かった酔っ払いたちもシュンとなり、肩をすぼめて酒を飲み始めるのであった。
それでも源左衛門は店の奥の部屋でじっと時を過ごしているだけで、少しばかりの収入を得ていた。その収入の道がしばらく途絶えてしまうということが残念であった。
辺りはすっかり暗くなっている。源左衛門は甚六としばらく酒を酌み交わし、話をしたあとで『甚八』を後にした。
提灯に火を入れ、町屋の並ぶ道を歩く。
しばらく歩いていると、ふと人の気配を感じた。それは家の中でまだ起きている人たちのものとは違う気配であった。
少し歩きながら、その気配が何かを探った。
よくわからない。しかし自分の後を誰かが付けいているのを感じた。
源左衛門はいつも通う道を歩き、角を曲がったところですっと物陰に身を隠した。
聞こえてくるわずかな物音に神経を集中させて周りの動きを知ろうとする。
少しの間、そうやっていたが、何も起こらなかった。
源左衛門は身を潜めていた物陰から出て、周りを見渡した。
何かわからない者の気配はすでに消えていた。
先ほど感じたのは確かに人間の気配であった。しかしそれがどのような人物で、どこでどのようにして自分を付けているのか、まったく掴めなかった。そんな経験は初めてのことであった。
「朝からすみません」
武士の姿の源左衛門を見て、若い侍は隣の住人に話した時とは明らかに違う口調になって言った。
「何かあったのですか?」
源左衛門が侍に尋ねた。
「昨夜、商家に押し入りがあり、金品が盗まれました。失礼ですが、部屋の中を改めさせていただきたい」
「雪乃」
源左衛門は奥の部屋の雪乃に声をかけた。
はい、という返事をして雪乃がふすまを開けた。
「どうぞ」
源左衛門は侍を室内へ招き入れた。室内といっても、土間に続く一間と、ふすまで仕切られた先に小部屋があるのみである。
「失礼しました」
小さな押入れを覗きこんだ後で、侍はそう言って頭を下げて出ていった。
「何だ何だ、朝っぱらから」
しばらくして隣から大工の政の威勢のいい声が聞こえてきた。
朝食を済ませた後、源左衛門が中川の道場に行くと、稽古場は閑散としていた。
「手の空いている藩士は皆、駆り出されたよ」
道場の師範で、年老いた中川が言った。
「商家に押し入りがあったと聞きましたが」
「城下一の繁栄を誇ると言われてきた三河屋に賊が押し入り、家族全員に住み込みの奉公人合わせて九名が殺された。事件が発覚したのは明け方近くのことで、犯人はまだ一人も捕まっていない」
「それはひどい事を」
「そんな訳で、今日は誰も稽古に来ないであろうから、よかったらここで思う存分稽古をしていきなさい」
「は、ありがとうございます」
源左衛門は中川に頭を下げると、支度をするために立ち上がった。
その日の夕方、源左衛門が『甚八』に行くと、亭主の甚六が床に座り酒を飲んでいた。
「もう客は来まい。今日は店仕舞いにする」
店に入った源左衛門に甚六が言った。
「はい」
「ま、ここに来て座りなされ」
源左衛門が帰ったらいいのかと迷っていると、甚六が声をかけた。
源左衛門は脇差を抜いて床に置き、甚六の向かいに腰を下ろした。
「藩のほうから夜の商いは控えた方がいいとのお達しがあった。どうせしばらくの間、客など来ないだろうが」
「ええ」
「そんな訳で、以前のようにお天道様があるうちに茶と菓子を出すだけにする。源左衛門さんには悪いが、また夜まで店を開けていられるようになるまで、しばらく休んでいてくだされ」
「わかりました。それでは今日はこれで」
源左衛門は立ち上がろうとした。
「ちょっとお待ちなされ。今日の分の酒と料理を仕込んじまったので、少しやっていって下さい」
「しかし」
「何、あっしも飲みますから。少し付き合ってください」
源左衛門は座り直した。時々、賄として出される食事に、主人の配慮で酒を付けてくれるときがあったが、源左衛門は手を付けなかった。一人源左衛門の帰りを待つ雪乃のことを思うと、酒を飲む気にはなれなかった。
しかしその日は日頃世話になっている甚六のために付き合うことにした。
『甚八』に来るようになって数日経つが、源左衛門は一度も仕事らしいことをしていなかった。
酔っ払いのちょっとしたいざこざがなかったわけではない。しかし強面で、その辺り界隈ではちょっとした顔になっている甚六が顔を出すと、威勢の良かった酔っ払いたちもシュンとなり、肩をすぼめて酒を飲み始めるのであった。
それでも源左衛門は店の奥の部屋でじっと時を過ごしているだけで、少しばかりの収入を得ていた。その収入の道がしばらく途絶えてしまうということが残念であった。
辺りはすっかり暗くなっている。源左衛門は甚六としばらく酒を酌み交わし、話をしたあとで『甚八』を後にした。
提灯に火を入れ、町屋の並ぶ道を歩く。
しばらく歩いていると、ふと人の気配を感じた。それは家の中でまだ起きている人たちのものとは違う気配であった。
少し歩きながら、その気配が何かを探った。
よくわからない。しかし自分の後を誰かが付けいているのを感じた。
源左衛門はいつも通う道を歩き、角を曲がったところですっと物陰に身を隠した。
聞こえてくるわずかな物音に神経を集中させて周りの動きを知ろうとする。
少しの間、そうやっていたが、何も起こらなかった。
源左衛門は身を潜めていた物陰から出て、周りを見渡した。
何かわからない者の気配はすでに消えていた。
先ほど感じたのは確かに人間の気配であった。しかしそれがどのような人物で、どこでどのようにして自分を付けているのか、まったく掴めなかった。そんな経験は初めてのことであった。
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