おとどけもの

原口源太郎

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 高級マンションに住む若くて美しい女とは一度も直に話をしたことがなかった。唯一の会話らしいものといえば、初めて訪れた時にマンションの入り口のドアを開けてもらうためにインターフォンで話したくらいだ。二度目の時に暗証番号を教えてもらい、それ以来インターフォンでも話しをしていない。おとどけもののやり取りはいつも無言だった。愛想笑いもしない女から何かを聞き出せる可能性は極めて少なさそうだった。
 僕は渋る女に何度も頭を下げて、今までの経緯を聞いてもらった。女はまるで興味無さそうにしているだけだった。
「だから知っていることがあれば教えてほしい」
 僕が話している間、あちこちを彷徨っていた大きな瞳がやっと僕に向いた。
「困ったな」
 女はたいして困ってもいない様子で言った。
「品物が届けられないと、こちらも困るのじゃないですか?」
「別に。話すこともないし。じゃあね」
 女はいつもの仏頂面のまま、部屋の中に戻ろうとした。
「待って」
 僕は慌ててドアノブを掴んだ。
「何よ! あんたみたいな人間、大嫌い。二度と会わなくて清々するよ!」
 そして力任せにドアは閉じられ、僕と女の関係は完全に断たれた。

 無数の波が藍色に蠢いている。白い軌跡を残して進む小型船が、夕日を受けて赤く染まっている。
 僕はぼんやりと海を眺めていた。考えが次から次へと泉のように湧いてきて、頭の中に渦巻いている。
 僕は今まで何をしてきたのだろう。大切なおとどけものを確実に届けてきた。何があっても決められた日に届けられるよう、それなりの準備もしてきた。おとどけものを受け取る人たちも僕の事を信頼していてくれると思っていた。
 しかし、皆、僕の事はそこら辺の石ころくらいにしか思っていなかった。僕がいくら困っていようが協力するつもりなんてないとわかった。
 自分は結局それっぽっちの人間だったのだ。考えてみれば、品物を持ってくるだけの配達屋でしかない。
 波に何か漂っている。黄昏の中でよくわからないが、毛皮のように見えた。犬か猫の死骸だろうか。自分もあの動物のように惨めな死を迎えて、水面を彷徨うのかもしれない。
 そんな考えがふっと浮かび、慌てて打ち消した。
 その時、何か獣の声がした。
 すぐ近くで猫が毛を逆立てて海を見ている。
 そしてまた牙を剥いて威嚇するような声を上げた。
 僕は猫の視線を追った。
 闇の色に塗り替えられつつある波に、二つの光る眼があった。
 ポチャン。
 それは水の中に吸い込まれるように消えた。
 僕は今見たものが何か確かめようと水面に目を凝らしたけど、再びそれが現れることはなかった。

 僕は無償に綾と話がしたくなった。このまま別れてしまうのは切なすぎる。
 ポケットからスマホを取り出した。
 綾のところへ電話をしようとしたけれど、画面に触れた指を動かせなくなった。
 綾は僕のことをどう思っているのだろう。バンドを辞めてからも、綾は僕に時々会いに来てくれた。ろくに話もしたことのない僕の誘いを、綾は喜んでくれた。おとどけものの配達の仕事を始めて、コンビニのバイトを辞めて曲作りもせずに遊んでばかりいた僕を、ずっと遠くから見ていてくれた。
 綾はこんな冴えない僕を、多分、慕っていてくれた。きっと綾は今、傷付いているのだろう。僕は綾に何て話をすればいい?
 綾の電話番号を表示したままのスマホを、僕はポケットに入れた。
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