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十章 サマー

162 ゲートオープン

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 日本国内でもトップクラスのアーティストが集結していると言っていいだろう。
 あちらにはトップアイドル、こちらではシンガーソングライター。
 月子がかつては目指したアイドルのグループなどは、昼からのトップバッターとしてステージに立ったりする。
 違う道をたどって、目指した場所に到着した。
 けれどもまだ、この先があるのだ。

 ナーバスになっている自分を、月子はしっかりと感じている。
 武道館に行きたいね、とメイプルカラーでは話し合っていた。
 あの会話は、どれぐらい本気であっただろうか。
 武道館の客席は14471人が最高だそうだが、実際にセットなどを組み立てれば、入れる人数はもっと少なくなるだろう。
 そう考えると今日のステージで相対する客の数は、武道館以上なのではないか。

 武道館でのワンマンライブ。
 ファンの数的には、かなり現実的になってきているのだろう。
 俊は以前、二年で月子を彩と同じステージに持っていくと言っていた。
 あちらは年に数回、数万規模のアリーナでの公演を行うシンガーだ。
 こういったフェスにはあまり出ないタイプであるが、出るとしたら1stステージのヘッドライナーレベルであろう。
 あと一年で、そこまで追いつけるのか。

 遠くから聞こえてくるのは、サブスクなどでも人気の、チャート上位を占めるミュージシャンの楽曲。
 まだ力は足りないが、同じところまではやってきた。
「ツキちゃん、緊張してる?」
 一人残っていた暁が、そう声をかけてくる。
「……してる」
 ここで変に強気にならないのが、月子の美点であろうか。

 自信がないのだ。
 50人のハコを埋められなくて、それでも歌い続けて、踊り続けていた。
 あの頃の経験が、月子の根底にはある。
 それを上書きしてくれたのが、俊と暁の三人でやったあの初ライブ。
 自分の体の中から、あんな声が出てくるとは思っていなかった。
 そしてあれから、メイプルカラーの中でも歌うパートが増えて、少しずつ人気も出てきた。
 解散してから、もう一年近くが経っている。

 ノイズでやっていた時間の方が、もうずっと長くなっているのだ。
 しかし最初に声をかけられ、ステージに立ったのはあの地下アイドルの場所。
 民謡で地域のホールで演奏したこともあるが、月子の魂の故郷はアイドルの舞台にある。
「開幕からアイドルのステージあるし、やっぱ見に行かない? 充分に時間までには間に合うしさ」
「でもアキちゃん、アイドルなんて興味ないでしょ?」
「まあほとんどはそうだけど、メイドマフィアだけはちょっと興味あるかな」
 結成三年目の五人組アイドルグループで、今年あたりから人気は急上昇。
 アイドルというイメージからは遠い衣装や、激しい歌詞などで異色のグループとして名は知られている。

「でもツキちゃんはやっぱり、オトメゴトみたいな正統派グループが好みだよね」
 そちらも結成して四年目の、八人組グループだ。
 こちらは大手プロダクションに属していて、応募者を本当に厳選したメンバーで構成されている。
 比較的少人数のアイドルグループはそれぐらいで、あとは多数のアイドルグループが二つほどある。
 一応はロックフェスとは言いながらも、20年以上の時間の中では、その公演内容も変わってきているのだ。
 それに暁に言わせれば、アイドルの裏事情というのは、まさにロックである。



 見たいと思うなら、その気持ちに従うべきだ。
 月子はライブパフォーマンスはともかく、いまだに日常の中では、どこかおどおどとして見える。
 だいたい俊がそれをフォローしているが、ステージ上の彼女との違いに、驚く対バンの人間も多い。
 そもそも阿部すらが、そのことを驚いているのだ。
 相貌失認と読解障害からくるコンプレックス。
 これをそう簡単に拭い去ることは出来ない。

 ただこのハンデがあったからこそ、月子は今の月子になったとは言える。
 本人が求めたわけではないが、不幸が天才を作るというのはあるのだ。
「じゃあ俊さんたちが帰ってきたら、ちょっと相談してみる」
 あちらはあちらで、この時間にも色々と考えているのだ。
 ノイズというバンドを、もっと大きくしていく。
 単純な話、宣伝をしっかりとすれば、もう売れるという段階にまでは来ているのだ。
 しかし俊は、石橋を叩いて渡るように、入念に土台を作ろうとしている。

 初期からのファンというのは、その心理からなかなかファンを離れないことが多い。
 もっとも音楽性が変わってしまうと、途端に離れてしまう人間もいる。
 このあたりの方向性を決めるのが、本来ならプロデューサーである。
 しかしノイズにはマネージャーはいても、プロデュースをしているのは俊のようなものだ。
 言うなれば俊の、理想の音楽を追及するためにノイズは存在する。

 伝手をつなぐのと、あとは純粋な好奇心で、外に出ていた四人が帰ってきた。
「阿部さんに許可をもらう必要はあるけど、前座に出してもらえそうな話があった」
 俊の言葉に、信吾と千歳が少し興奮した様子を見せている。
「口約束だけど、ブラックマンタが年末にやるライブの前座で、二曲ほどやってみないかって言われた」
「ブラックマンタって、今の日本のバンドグループじゃトップ5に入るよね」
 ボーカルに女性を持ってきて、あとの楽器を男性が担当するという、それなりに多いタイプのバンドだ。
 ノイズも少し近いが、あちらはボーカルだけが女性なのだ。

 音楽チャートで新曲を出したら、ほぼトップ5には入るというグループだ。
「でもあそこって大手事務所だし、マネージャーとかが許さないんじゃない?」
 暁の指摘に俊は頷く。
「事務所の移籍か解散か、そういう気配があるんだよな」
 バンドというのは洋の東西を問わず、脱退、解散、休止、事務所移籍が普通にあるのだ。
「さすがに移籍騒動とかに巻き込まれたら困るから、阿部さんに確認してからだけどな」
 だが三万人が集まるアリーナで、前座をするというのはチャンスではある。
 完全に無視されるとへこむだろうが。

 最近はそういう前座などなく、普通にワンマンでやるライブという方が主流のはずだ。
 バンドのメンバーのわがままが、どれだけ通るのかの確認に使われているのかもしれない。
 だが俊の見立てでは、今のブラックマンタの演奏は、もう全盛期を過ぎている。
 前座が主役を食うことは可能だ。ただし食ってしまった結果、大手レーベルに睨まれたら後が怖い。
 金を使わずに宣伝をする、という点ではおいしい話なのだが。



 そろそろ時間も近づいてくる。
 メインゲートが開いて、聴衆も入ってくる頃だ。
 阿部もテントにやってきて、準備の確認をしてくる。
 そこでブラックマンタの話を聞いて、ちょっと難しい顔をするのは、俊の予想通りであった。
 メンバーが揃っているので、月子は要望を出してみる。
「あの、2ndステージのオトメゴト、見てきたらダメかな?」
 アイドルグループのステージを見たいというのは、月子の経歴を考えれば、それなりに自然のことだ。
 また月子は顔を知られていないため、騒ぎになることもない。
 そもそもノイズレベルでは、まだメンバーの顔もさほど認知されていない。

 ずっと待っていても、特に何もすることはない。
 前のミュージシャンが終わるまでは、充分に時間があるのだ。
「じゃあ、一緒に行くか。一人だと心配だし」
 このあたり、過保護な俊であるのだ。
 しかし気持ちとしては分からないでもない。

 だいたいバンドの解散原因というのは、一に金で二に女、と言われている。
 これが逆転することも、マイナーバンドでは多い。
 俊としては女性陣には、男に惑わされることなどなく、音楽に邁進してほしい。
 男は女を二の次にして音楽をやる人間は多いが、女の場合は男の都合で振り回されるのが多いというのが、俊の感想である。

 周囲を見回してきたことによって、ある程度の緊張はほぐれてきている。
「あたしもどっか見てこようかな。永劫回帰とか一番に出てるし」
 堂々の1stステージのスタートを飾るバンドである。
 ただ暁の好みとしては、ポップスに近いような気もする。
「一人じゃなく、誰かと一緒に行けよ」
「それと先に、食事はしていきなさい。色々と買っておいたから」
 阿部はスタッフに言って、フードブースから昼食を準備させたらしい。

 フェスに限ったことではないが、ライブにおいて重要なことは体調管理。
 食事と飲料に関しては、かなり注意しておかなければいけない。
 ステージの途中でトイレ休憩というのはないのだから。
 ちゃんと火を通したもので、作られてすぐのものを食べる。
 当たり前だが重要なことである。

 40分のステージではあるが、真夏の炎天下なのだ。
 ペットボトルの飲み物は持っていって、ボーカルは特に水分補給に気をつける。
 喉を痛めたら大変なことになるのだ。

 月子には俊がついていって、暁には千歳と信吾がついていく。
 栄二はもう若くないから、という理由でここで待機するそうだ。
 アラサーではあるが、まだ20代の年齢であるのに。
「奥さんとかは見にこないの?」
 他のメンバーが去ってから、阿部は栄二にそう声をかける。
「まさに今、この敷地内をカメラマンと一緒にうろついてますよ」
 なるほど、と頷く阿部であった。共働きは大変なものなのだ。
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