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12章 ムーブメント

207 天才の選択

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 ボーカルの声質というのは、これだけは本当に、圧倒的な才能とでも呼べる個性が存在する。
 音階も狭いし肺活量もないが、声だけは心地いいというボーカルというのはいるのだ。
 だが花音の声というのは、本当に淡いものだ。
 空気の中に泡のように溶けていって、聴いている人々の体の中に染みとおっていく。
(これは……機械に記録出来るのか?)
 俊が感じるのは、そういう人間の可能性だ。

 ピッチをあえてわずかにずらしたりするあたり、演歌に近い要素さえあったりする。
 もっとも古いブルースであると、自然とそういうものもあったのだ。
 調整が完全ではないアコースティックギターを、鳴らしながら歌う。
 南部の黒人から生まれた、原始のブルース。
 CDではなくLPで録音されたものは、そこからまたCDに作り直されると、確かに感触が変わる。

 かつて世界を席巻した天才は、ほんのわずかな期間しか、自分の声で歌うことが出来なかった。 
 彼女の声の音源は、本当に限られた部分しかない。
 だがそれは、あのCDが売れなくなりつつある時代に、世界で2000万枚ほど売れたとも聞く。
 海賊版が全盛になり始めた時代であったため、それがなければどれだけ売れたことだろう。

 変なオーバーアクションもなく、ただマイクの前で歌っている。
 ケイトリー・コートナーはむしろ、彼女の引き立て役になっている。
(こんな化物と戦おうとしてたのか……)
 いや、音楽には上下など、売上以外にはない。
 ……違う。やはり明確な上下はあるのだ。

 それぞれのカラーというのは確かに存在するし、ジャンルによってそれぞれの頂点がいる。
 だが音楽というものを一まとめにしてしまえば、彼女の歌が一番強い。
(なるほど、ALEXレコード……)
 このために、資金を準備していたということなのか。
 超大型新人に向けた、予算の確保。
 確かにケイティは日本向けには、ALEXレコードを通じている。
 しかし彼女は、自分の役割に満足しているようにも見える。



『日本の皆さん、こんばんわ』
 何曲か終わったところで、日常的に日本語を使える、ケイティがそう挨拶をした。
『今日は私のコンサートに来てくれてありがとう。彼女を紹介します。私がもっとも愛した友人の娘、カノン。パッヘルベルのカノンと同じ名前なんて不思議ね』
 いやいや、あれは音楽史上最大の一発屋ではないのか。
『15年以上前、私の愛する友人のイリヤは、不幸な銃弾に倒れました。けれど彼女の曲は、たくさん未発表のままに残されていました』
 その噂は知っている。

 ビートルズはその名義では、213曲の曲を作ったという。
 あの天才は短い生涯で、2000曲以上を他者に提供した。
 だが次から次で出てきた楽曲に、同時代の他の音楽家は、相当の危機感を抱いたという。
 嫉妬か、あるいはビジネスのために、彼女は殺されたという説がある。
 もっとも一番有力なのは、異常者のファンの暴発だというものだが。
『私は彼女の遺言に従い、それを少しずつ発表していきましたが、今後は彼女の娘が、その遺産を管理することでしょう』
 ざわめきが起こった。
 ケイティの示すのが誰か、音楽が分からせているからだ。
「天才の娘が天才になるとは限らない……けど……」
 俊は思わず呟いていた。
 音楽の本質をある程度理解した時、彼が認めたくない事実を認めるしかなかったからだ。
 父はムーブメントを作ったが、天才ではなかった。
 だから自分に才能が遺伝していなくても仕方がない。

 これはひどい売り方だ。
 未だに存在する日本人の、欧米へのコンプレックス。
 ビルボードなどを隔離してしまったし、またアニソンやシティポップなどによって、邦楽はかなり浸透している。
 だが肝心の日本人全体が、傾向として欧米を崇めてしまっている。
 そこにケイトリー・コートナーを持ってきて、あの怪物の娘を披露する。
 事前に情報を全く洩らしていないが、ALEXレコードが超大型新人を売り出していくという噂はあったのだ。

 世界の歌姫に導かれて、東京ドームでデビュー。
 こんなやり方が出来るのは、日本人では誰もいない。
 レコード会社と欧米の大物と、そして何よりも背景設定。
 まさか本当は他の誰かの子供だなどと、そういうことはないだろう。ばれた時のリスクが大きすぎる。

 今後の活動がどうなっていくのかは分からない。
 だが一気に話題を持っていくのは確かだ。
 それに彼女の実力は、確かなものである。
(このために、こんな売り方をするために、ずっと顔も隠して公開してたのか)
 楽器の演奏は一通り自分でやっていたが、もう一人演奏しながら、彼女が歌っているという映像はあったはずだ。



 ざわめきがようやく鎮まってから、コンサートが再開する。
 ケイティがピアノを弾き語りしながら、花音が歌っていた。
 ほんのわずかに残っていた、彼女の母親であるシンガーソングライターの記録。
 片肺の機能がほぼなくなったために、歌うことは難しくなってしまった。
 しかしそこから作曲の才能を開花させ、多くの楽曲を提供した。

 27歳で死んでしまった天才。
 これだけの伝説がついていれば、いくらでも宣伝していけるだろう。
 彩を必要としなかったのも、頷ける話だ。
「俊さん、あの子、いくつぐらいかな?」
「……月子よりは若そうだな」
 身長はケイティと比べると、やや小さ目か。

 ここまでずっと、タイミングを待っていたのだ。
 ネットの中では有名人であり、天才だとは多くの人間が言っていた。
「ここまではケイティのカバーばかりだな」
 しかしネットでは、自作曲らしきものもやっていたのだ。

 それにしても完全に、この存在は秘匿されてきた。
 つまりこれが、ステージ初挑戦ではないのか。
 ネットの映像はもう、全てを合わせれば一億ぐらいは超えているか。
 ただ失敗しても録画し直せばいいネットとは、ライブは違うものになるのだ。
「日本人だよね?」
「そうと思うが、ちょっと白人が混じってるんじゃないか?」
 少なくとも母親は、日本人の血が入っているがヨーロッパ出身であったのだ。

 女声ボーカルが二人。
 これは俊の、いやノイズのやっていることではないか。
 もちろんこの先、ケイティが同じステージに立つとは限らない。
 単純にビジネスの問題で、彼女のギャランティと釣り合うことが、新人では不可能であるからだ。
「あ……」
 思わず俊は、声を洩らす。
「どうしたの?」
「未発表曲だ」
 それだけでは、月子には分からなかっただろう。
「ケイティは死後にも、彼女の楽曲提供を受けていた。だけどおそらくあの子が一定の年齢になったことで、全ての未発表曲が管理下になったんじゃないかな」
「そんな……10年以上も前に作った曲が、いまだに通用したりするの?」
「アレンジ次第だけど、俺たちもやってることだろ」
 色々と考えすぎたが、そういう路線ならアメリカの歌姫にも利益があるのか。



 ケイトリー・コートナーの声はかなり特殊なものであり、それを上手く活かせる曲を作るのは難しい。
 おそらく天才だからこそ、彼女に合わせた曲も作っていたのだろう。
 ただこのあたり俊は、さすがに打算的に考えすぎていた。
 確かに音楽は巨大産業だ。
 しかしミュージシャンは同時に、巨大なアーティストでもある。
 ビジネスマンの側面を多分に持つ俊は、相手にも似たようなことを感じてしまう。
 ケイティはそういうタイプの人間ではない。

 自分の音楽のためなら死ねる、という人間はいるのだ。
 プライドがあれば自分の仕事にも、責任を持って命を賭けられる。
 それは音楽だけではなく、あるいは学問であったり、スポーツであったりする。
 また宗教的狂信で、死ぬ人間は大量にいる。
 日本人である俊と違って、宗教的に死ねる人間は多い。

 ケイティはただひたすら、音楽のことだけを考えているのだ。
 彼女のプロデュースは、周辺が色々とやってくれた。
 俊のようにまず、生き残らないといけないという状況ではなかった。
 ただ俊にしても、音楽で成功しなくても、生きていける環境では育った。

 世界にはミュージシャンにでもならなければ、ギャングになるしか金持ちになる手段はない、などといった場所がたくさんある。
 もしくはスポーツ選手などであろうか。
 だがそれをやっていくうちに、己の心のブルースに、命を賭けてしまう人間はいるのだ。
 ただそれを掴むために、ドラッグに溺れて自分の命を、平気で縮めてしまう人間もいる。
 そういった人間のために、適正な量のドラッグを処方したりする。
 禁止してもやってしまうなら、管理された状態でやってくれた方がいい、というとんでもない考えだ。

 ケイティはそういったものには頼らない。
 音楽というものがそもそも、合法ドラッグのようなものだと思っている。
 ドラッグに逃げてしまうならば、それは音楽の敗北。
 彼女の歌声は、むしろドラッグよりも官能的である。



 ステージが終わった。
 俊は座席から立てない。
「俊さん、行こう。ちーちゃんとも合流しないと」
「……」
 無言のまま、俊は立ち上がる。
 スマートフォンを確認すると、千歳からのメッセージが入っていた。
 それに対して返信すると、あちらもすぐに反応してくる。
「月子、行こう。KCと花音に会えそうだ」
 俊の言葉に月子は息を飲むが、必死の顔で頷いた。

 セキュリティが万全のバックヤードに、名前を言って通してもらう。 
 本当にあの花音に会えるのか。
 歌声はおそらく、数万回も聴いているだろう。
 だが話し声すらなく、ただ歌ばかりを流す。 
 時折でも日本語で返信していたので、日本人だと思っていた。
 そもそも日本でお披露目するのだから、日本人ではないのか。

 そのために無茶苦茶なギャランティの外タレを呼んだ。
 知名度もあれば実力もある、今が完全に全盛期のシンガーを。
 ここからさらに売り出していくのだから、予算も必要になるだろう。
(完全に針巣社長には手玉に取られたと言ったところか)
 ALEXレコードは確かに、シェアなども日本一だ。
 だが昨今はGDレコードのアーティストのムーブメントが、躍進を遂げている。

 売り出し方が昔とは違う、ということが言えるであろう。
 しかしそんな時代に、まさに昔のようなどでかい売り方をしようとしている。
「効果的な売り方だな?」
「え? 何が?」
「今の時代、ネットで人気が出ないと周知されないだろ? だけどこのコンサートは撮影もOKだし、数万人が一気に発信する」
 日本のアーティストの多くは、撮影禁止となっている。
 だが欧米では例外もあるが、コンサートの映像を流すのはむしろ推進されている。
 無料で広告をしてくれているようなものだからだ。

 東京ドームを使って、KCを呼んで、これで普通に赤字にはならないのだろう。
 それに加えてというか、こちらがメインであるのだろうが、新人の宣伝になった。
 メインがKCで、その名前で集めたとはいえ、デビューが東京ドーム。
 しかもそれに萎縮することはなく、あの淡い声がしっかりと出ていた。
 耳からではなく、肌から吸収するような、特別な声。
「すごいライバル登場だね」
「……初手の売り方としては、これ以上はないものだな」
 日本人というのは、なんだかんだ言いながら、他の人も好きなものを好きになる傾向があるのだ。

 コンテンツが過多の時代の、二つの売れ方。
 一つはニッチなところに、しっかりと合わせて需要に応える。
 ノイズが今でもカバーを色々とするのは、そういったところに応えるためである。
 最初はノイズのカバーが目当てでも、そこからノイズ自体のファンになってくれればいい。
 高校野球のスーパースターを追いかけてチームを見るうちに、他の選手も含めてチーム自体のファンになるのに似ている。

 もう一つの売れ方は、とにかく売れること自体が宣伝になるのだ。
 他の誰もが見ているから、ある程度の品質は保証される。
 ハンバーガーは決して特別に美味い食事ではなくても、無難なものではある。
 結果的にハンバーガーは、世界で一番食べられているものとなった。
 もちろんこの場合は、さらに品質までもが高いものだ。



 質か量かという問題ではない。
 質も量も優れているのが、いいに決まっている。
 ただ質はどこまで求められるのか、量はどれほどが必要なのか。
 あの天才はとにかく、短い期間に曲を提供しまくったおかげで、固定ファンをしっかり握っているミュージシャンと、アイドル以外を駆逐した。
 俊としてはさすがに、その時代を自分のものとして体感しているわけではない。
 だが今から当時のヒットチャートを見ても、ベスト10の全曲が彼女のものだという時期があったり、本当に頭のおかしな時代であったとは分かる。
 アメリカではそこまでのものではないが、それでもシェアとしては圧倒的。
 犯人がその場で殺されてしまったこともあって、いまだに他のレコード会社などによる暗殺という話が、都市伝説として残るのも分かる。

 あれと戦っていくのか、と思うと憂鬱になる。
 だが逆の考えかたも出来る。
 あれを上回る楽曲を作るとしたら、それには今までよりもさらに、強力なケミストリーが必要になる。
 ノイズは俊だけの存在ではない。
 ビートルズはそれぞれが才能の集まりであったが、バンドを組むことによってさらにその楽曲を高めていった。
 自分が負けても、バンドとしては負けない。

 二人が案内された楽屋は、普段ならVIPルームとしてでも使われているのだろうか。
 そこに俊は、何人かの知っている顔を見つける。
 まずは千歳に、そのボイストレーニングをしてくれている佐藤先生。
 やっぱりいた針巣社長に、歌姫ケイトリー。
 他にもスタッフはいるのだが、俊が注目したのは一人の少女だ。
 まさにヴェールを脱いだその素顔。
 可愛らしい顔をしているが、特別なオーラなどは感じない。

 声をかけてきたのは針巣であった。
「確か君も、ケイティには会ったことがあるんだったか?」
「子供の頃なので、憶えていないかもしれませんが」
 両親と一緒に、カリフォルニアのどこかの屋敷でのホームパーティーで会ったことがある。ホテルではない。
 その後も何度かは、会っているはずだが。

『こんばんわ、ケイティ。タカシ・トージョーの息子のシュンだけど、憶えていてくれてるかな?』
『タカシの!? ええ、憶えているけれど、でもあの子は……』
 手を水平に動かすのは、当時の俊の身長を思い出したものなのだろうか。
 俊が会ったのは、小学校に入る前であった。
 あの頃の俊は、まだ怖いもの知らずであったのだ。

 偉大な歌姫との再会であるが、俊が注目するのは花音だ。
「初めまして。サリエリという名前でボカロPしてて、何度かメッセージは送らせてもらってたんだけど」
「ノイズのサリエリ。知ってる」
 普通に日本語が通じている。
「って言うか俊さん、花音が先生の教え子だって聞いてなかったの?」
「え?」
 千歳としてもここで、初めて色々と説明されたわけだが。
「……どういうことですか?」
 俊としては説明を求めたわけだが、誰が一番事情を知っているのか。

 とりあえず千歳は、知らなかった。
「あたしが知ってたのは、花音が楽器をやってることだけで、てっきり先生の娘だと思ってた」
「え? え?」
 花音とkanonが結びついていなかったわけだ。
「私がニューヨークに住んでいた頃は、彼女の保護者から音楽のレッスンを頼まれていたのよ。それで日本に帰ってくる時に、一緒に住まわせることにしたの」
「あの、花音さんはあの、イリヤの娘なんですよね?」
「そうよ。何かがあった時の為の養育は、私の他に二人ほど指名されていたのだけど」
 これを言ったのはケイティで、俊にはどうにも分からない。
「だけど私はあまり家にいないような人間だから、エミリーとも親しい二人に養育権を任せたの。それでエミリーが日本に帰る時に話し合って、エミリーに養育してもらうことにした」
「つまり、養親は誰なんです?」
「それは秘密」
 この言葉は花音が言ったものである。
 秘密にされようと、どうせ音楽業界の大物であるのは間違いないのだろうが。



 ともかくこれで、俊が最大の才能と思っていた、花音が表舞台に出てきたわけだ。
「若く見えるけど、何歳か聞いていいかな?」
「今度高校に入学するの」
「ああ、そのタイミングで音楽活動を」
 確かにそれなら分かりやすい。
 義務教育でない高校ならば、芸能活動などの専門高校があったりする。
「そう、バンドメンバー募集中だから」
「あ? へ?」
「ノイズのアッシュさん、ヘルプで貸してほしいな」
「……どういうことよ?」
 俊の理解を超えている話である。

 花音はシンガーとしてデビューするのではないのか?
 そもそもネットで公開されているものにしても、打ち込みを使っているものは多いはずだ。
 バンドを組む? 悪い冗談である。
 視線を針巣や恵美理に移してみると、苦い顔をしている。
「バンド?」
「うちの娘の影響で……」
 困ったような顔をしているが、恵美理の口元は笑っていた。
「ひょっとして、あのバンドメンバー募集って?」
「あら、そちらにも話が届いてたの」
 本当に、悪い冗談である。

 シンガーである花音を、バンドで売り出すという意味が分からない。
 それに千歳から又聞きで聞いていたのは、女の子限定で、だいたい同じ年代、といったものだ。
 彼女のボーカルに匹敵する演奏者が、世界に何人いるというのか。
 女性で同年代など、一人か二人、どこかに埋もれているぐらいではないのか。

 俊の視線の先では、針巣が頭を抱えていた。もっともやはり苦笑していたが。
 これは本当に、色々な人々にとって、悪い冗談なのだろう。
「仲良しバンドでも作るつもりなのかな?」
 巨大な才能と実力を持っている人間が、わざわざ遠回りをしているように思える。
 だがそれを言うならば、阿部なども俊が、同じことをしていると指摘したかもしれない。
 もっとも実際にはデビューから二年で武道館という、相当に早い出世を果たしているのだが。

 花音がバンドでデビューする?
「とりあえずうちの娘を貸してあげる話はOKね?」
「ケイティのお墨付きがあるならOK」
 ケイトリー・コートナーの娘?
「あの子も父親の国に行ってみたいとは言ってたし、それはいいのよ」
 え、KCの娘さんが日本の音楽シーンに来るんですか?
 なんだかまた、とんでもないことになってしまいませんか?

 そのあたりを実感として、俊は理解出来てしまう。
 この日、日本の音楽業界は、一つのターニングポイントとなったのかもしれない。
 だが動いていくのは、まだまだこれからということなのか。
 呆然としながらも、俊は花音と見つめ合う。
 本当に、何を考えているのか分からない、深淵を秘めたような瞳であった。



   12章 了 13章「VS」へ続く
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