異世界堕落生活

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第二章 パジャリブ動乱

第二十話:逆転への火種

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 日がな一日ぼーっとしていたクーミャは、いつの間にか暗くなっていることに気づき、この日初めて心を動かした。

(そっか、一日が終わったのか)

 それだけの小さな動きでも、ここ最近の彼女にとっては精一杯の動きだった。
 右手を失ったことのショックは、あれから何日経ってもまったく癒えない。
 傷口はまだ痛いし、ないはずの右手がうずくように感じる。
 痛みやうずきが襲ってくるたびに、爆発の忌まわしい記憶がフラッシュバックして気が狂いそうになる。
 狂わないために、心の動きを最小限に収め、記憶が蘇ってこないようにしている。
 それでもふとした瞬間に、厳重な封印をかいくぐって記憶は蘇り、彼女を苦しめる。
 このときもそうだった。
 突然、記憶が襲ってきた。
 あの日――彼女の主が一人で酒を飲みに行き、彼女だけがホテルで待っていたあの日――いきなりロスタビリたちが部屋に押し入ってきて、部屋を荒らし回った。
 クーミャは必死で主の財産を守ろうとした。
 だが、クーミャは女で、まだ子供。相手は大人の男で、しかも三人。
 彼女はなにもできずに、部屋から放り出された。

「できるだけお前にはなにもしたくない。お前はオレたちと同じ虐げられた民だ。生まれてきたことから間違っている哀れな仲間だ」

 それは、ロスタビリの優しさだった。
 しかし、クーミャには、それは理解できなかった。
 クーミャは勝てないと知りながらも懸命に戦おうとした。
 細い腕でロスタビリを殴り、全力で抵抗した。
 ロスタビリはそれに苛立ちながらも、殴る以上のことはしなかった。
 ろくでもない連中が部屋に押し入り、財産を奪っていった。自分はできるだけの抵抗をしたのだけど、でもダメだった。そう言えば、許してもらえるかもしれない。

 ――あとで言い訳をするために、この奴隷はがんばっている。

 そのことを察したから、ロスタビリはクーミャを殺さずに済ませた。
 彼は、クーミャが部屋を物色している仲間に任せ、自分はクーミャの首根っこを掴み廊下に出た。
 部屋から声が聞こえてきた。

「これはなんだ? 金属の玉みたいな……」  
「このピン外れるぞ。あと、この取っ手みたいな奴も動くぞ……」

 その数秒後、部屋の中で爆発が起こった。
 爆風とものすごい勢いで飛んできた破片によって、クーミャは右手を失い、気絶した。


 あとほんの少し体の位置が違えば、右手だけでは済まなかった。
 そう思って自分を慰めようとしたこともあったが、すぐにやめた。
 取り返しがつかないことになったという事実は変わらない。
 今や彼女は、突如としてやってくる恐怖に対し、抗うことをしなくなった。
 ぎゅっと体をこわばらせ、通り過ぎるのを待つだけだ。
 記憶は実際の時間の何倍ものスピードで再生される。
 そして、何度も繰り返す。
 通り過ぎては戻ってきて、クーミャの心を切り刻む。
 何秒か、それとも何分か、何十分か……ようやく記憶が心の奥底へ戻っていった。
 ようやく落ち着いたとき、クーミャの体は小刻みに震え、冷たい汗が全身を流れていた。
 汗を拭いて水でも飲もう。
 そう思い、テーブルの上のタオルを取ろうと右手を伸ばし……幸い、さっき思い出したばかりなので、記憶が襲ってくることはなかった。
 息を吐きながら、左手でタオルを取り、全身を拭く。
 コップをちょうどいい場所に置き、不器用に水差しを持ちそろそろと傾けた。
 だが、水は出ない。

「空っぽ……あれ、わたし、いつ入れたっけ?」

 水差しに水を入れた記憶がない。
 今日だけでなく、昨日も、一昨日も、入れていない気がする。
 暑いパジャリブでは、水の有無は命に直結する。
 決して切らしてはいけない。
 なのに、切らしてしまうなんて……。

「もうしわけありません、旦那様。すぐに補充して……」

 そして、クーミャは気づいた。 

「いない?」

 主の姿がないことに。
 どこかに行ったのだろうか?

「わたしを置いて……そりゃそうか」

 今の自分は、役立たずだ。
 それはもとからだが、今までとは次元の違う役立たずだ。
 役に立たないどころか、迷惑をかけることしかできないマイナスの存在だ。
 右手がなければ、なにもできない。
 どこかに働きに行くこともできないし、掃除も、少し重い荷物を持つこともできない。
 そのくせ、食べる量だけは変わらないのだから、いるだけムダと思われてもしかたない。

「どこかへ売られちゃうのかな?」

 彼女は、自分の主が裕福でないことを知っている。
 本来なら、奴隷を持つような身分の人間ではない。
 そして、奴隷を持っていても、なにをさせたらいいのかわからないでいるくらい、奴隷と縁のないところで育った人だということも知っている。
 彼が、自分のことをまったく必要としていないことも、理解している。
 それでもなぜか、これまでは置いてくれていた。
 だけど、それも終わりだろう。
 さすがに、もう面倒を見てくれないはずだ。
 わずかにあった財産もなくし、生活は今まで以上に苦しくなる。
 こんな役立たずの奴隷を養う余裕はないはずだ。
 きっと、もっと金持ちの人に、わたしを売るのだろう。
 ガルラオン族が好きなマニアがいる、という話は聞いたことがある。
 純血のガルラオン族は珍しいから、右手がなくてもそれなりの値段になるのだろう。
 そのうち奴隷商人がやってきて、書類一枚で自分を引き取っていく。
 そして、誰ともわからない人のところへ連れていかれる。

 ――しかたない。奴隷なんてそういうものだから。

 生まれた時から奴隷で、ずっとひどい扱いを受けてきた。
 奴隷の中でも最下層として生きてきた。
 元気で育つことができたのは、きっと幸運だっただけだ。
 右手がなくなって、いよいよその運も尽きた。
 これから先、どんな悲惨な運命が待っていても、いちいち気にしてなど……。

「できれば、優しい旦那様のところがいいなぁ」

 奴隷は主を選ぶことはできない。主が奴隷を選ぶ。
 でも、こういうのがいいな、という希望くらいはある。
 気分一つで殴ったりしなくて、ガルラオン族だからといって差別しなくて、ご飯をたくさんくれて、わたしのことを大切にしてくれて……。
 それはつまり、今の主のことだった。

「旦那様のところにずっといたいなぁ」

 なんだってあの人は、あんなにも優しいのだろう。
 そりゃたしかに、見ず知らずの人にはかなり厳しいところがある。
 詐欺まがいのことをして、金を巻き上げたりもする。
 でも、自分には、決して理不尽なことをしない。

「なんでだろう?」

 必要のない奴隷を買うにしても、なんでわたしだったのだろう?
 他の人じゃダメだったんだろうか。
 なんで元気な頃のわたしを外に働きに出さないで、自分で働き、その手伝いぐらいしかさせなかったのだろう。
 なんで、ごはんをたくさん食べさせてくれるのだろう?
 奴隷の親を持ち、奴隷として生まれ育ったクーミャには、物事を深く考える習慣がなかった。
 決定は、すべて上から降ってくるものだった。
 だが、このとき、生まれて初めて、クーミャは考えた。
 自分を取り巻く環境について、考えた。
 その結果、彼女が導き出した結論は、

「旦那様はわたしに恋をしている?」

 というものだった。
 クーミャは、まだ恋をしたことがなかった。
 だが、それがどんなものか聞いたことぐらいはある。
 そのおおざっぱな知識と、彼女の主の行動が合致した。
 主は、自分に一目ぼれして、それほどの金もないのに思わず買ってしまったのだ。
 金さえ払えば奴隷は体の隅々まで主人の物になる。
 だけど、心はそうはいかない。
 身も心も自分の物にしたいから、だから優しくしてくれる。
 それはクーミャの勘違いだったのだが、そんなことは彼女にはわからない。
 とにかく、彼女の中で辻褄があってしまった。
 今までろくに使ってこなかったクーミャの脳細胞は、これまで仕事がなかった鬱憤を晴らすかのように動き始めた。

「きっとわたしを売ってしまうのは、右手がなくなったからでも、お金のせいでもない。わたしが、いつまでたっても旦那様の思うままにならないからだ」

 そうだとするなら、

「媚を売ればいいんだ。ひたすら甘えて、旦那様大好きって態度を露骨にしてみせれば、考えなおしてくれるかも」

 思い込みが激しく、猪突猛進に物事を考えるという点において、この主従はよく似ているらしい。
 そして、考えたことをすぐ行動に移してしまう点もそっくりだった。

「旦那様をさがさないと。デレまくって、わたしのことを手放したくさせないと」

 走って外に出た。

「おっといけない」

 忘れ物をしたことを思い出し、一旦戻ってくる。
 それは、彼女の主が、「常に持っていろ、絶対になくすな」と言って、クーミャに預けてある袋だった。
 苦労しながら袋に紐を通し、上着を脱いで腹に巻きつけた。
 これで忘れないし、なくさない。
 それから改めて外に出た。


 外に出たはいいけれど、どこに行けばいいのだろう。
 手がかりはまったくない。
 ホテルで待っているのが会うための一番の近道のようにも思えた。
 しかし、今からあの部屋に戻る気はなかった。
 旦那様だって、わざわざ探しにきたと知ったら、きっと喜んでくれるはずだ。
 手がかりなしに見つけることができたら、運命を感じてくれるかもしれない。
 旦那様はお酒が好きだから、酒場の多いところに行けばいるかもしれない。そう思い、飲み屋街へ向かう。
 いくつかの店をのぞいているうちに、違和感を感じた。
 いつもより人が少ないような気がする。
 気のせいだろうか?
 吹き矢の商売をやっていた頃世話になった店の主人に聞いてみると、どうやらラシャール教団の神殿でなにか事件があったらしい。
 それはずいぶん大きな事件らしく、みんな見物に行っているそうだ。

「旦那様もそこに行ったのかも。どうやって行けばいいんですか?」
「歩いて行くにはちょっと遠いなぁ。馬車に乗るのがいいよ」

 馬車を探すと、すぐに見つかった。
 だが先客がいた。
 太ったおばさんが、値段交渉をしているところだった。
 少し待って、決裂するようなら声をかけてみよう。立ち聞きしていれば、相場もわかるはずだ。

「神殿まで三リンは高いわよ、二リンにしなさいな」
「二じゃムリだよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「困ったわね。……ねぇ、そこの奴隷の子。あんた、もしかして馬車に乗ろうとしてる?」

 おばさんは、クーミャに話しかけてきた。

「え、あ、はい……」
「神殿に行くの?」
「そのつもりです」
「じゃあ、一緒の乗らない? 料金を半分ずつ出し合うの」
「いいんですか」
「ええ。馬車屋さん、あんたもそれでいいでしょ?」

 馬車屋はなにも言わなかったが、乗りな、と目で言ってきた。


 馬車に乗っている間、おばさんはひっきりなしに喋った。
 クーミャに質問をしておいて、答えるより前に次の話をする。
 賑やかなおばさんだ。

「あら、よく見たらあんた、右手ないのね」
「あ、はい……ちょっと……」
「大変ねぇ。ひどい主のところにいるの? おばちゃんところにくる?」
「いえ、旦那様は、とても優しい方です。このケガは旦那様とは関係ないことで……」
「そうなの? それならいいんだけど……ほら、お菓子あげるから、これ食べて少しは元気出しなさい」
「はい」

 もしかしたら……クーミャは思った。
 世の中は、自分が思っているほど自分に過酷ではないのかもしれない。
 優しい人も、たまにはいるのかもしれない。
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