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二章

魔獣

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 のそりと姿を現した魔獣は、まるで巨大な黒い熊のようだった。
 わたしを襲った魔獣は狼のような姿をしていた。
 どうやら、やつらの体は様々な姿を持っているらしい。

 魔獣は濁ったマナから生まれるとメレルは言っていた。
 持ちうる魔力量に応じて姿形も変わるのだろうか。
 だとすると、あの巨大な魔獣はわたしを襲ったものとは比較にならない魔力を持っていることになる。

 想像するだけで悪夢だ。

 わたしは隣に立つ銀髪の少女を見つめる。

「メレル……、これ……」
「おそらく、術の完成が近づいたせいで、浄化魔術の使用を察知された。魔獣は頭がいい」

 普段から無表情なメレルの表情に、珍しく焦りの色が混じっている。

「浄化の花の力は効いてないわけじゃない。でも、あれほどの個体には効果が薄いかもしれない」

 メレルは、「霊樹が復活すれば、マナも全部正常に戻るのに……」と小さく歯噛みする。

 あと一つ。
 あと一つだったのに。
 メレルの悲壮な表情が、そんなふうに語っていた。

 不運。想定外。そんな言葉が頭をよぎるが、メレルは決して悪くない。
 彼女は彼女にできる精一杯をやってきたのだ。

 誰が悪いというわけではない。
 

 メレルは少しだけ躊躇うような素振りを見せた。
 だが、すぐにわたしたちに向き直る。
 いつもは無感情な彼女の口の端が、悔しそうに歪んでいた。

「………逃げた方がいい。残念だけど、作戦は失敗」
「でも……、花はどうするの?霊樹は……」
「………。」

 ぎりり、と銀髪の少女は歯噛みする。
 そして、一瞬の間ののち──、彼女の口の端から、ふぅ、と小さなため息が漏れた。


「……諦める。今はあなたたちの命の方が大事」


 彼女は、そう言って懐から小さな杖を取り出した。
 攻撃用の魔道具だろうか。
 先端についた赤い宝玉が、内部で光を反射してきらりと輝く。


 だが、わたしは彼女の言葉の端の方が気になっていた。

『あなたたちの命』とメレルは言った。
 わたしたち、ではなく、あなたたち、と。

 無意識下の言葉だろう。
 だが、おそらく彼女は既に──。

 ──自分の命を、勘定にいれていない。


「わたしが、あいつを足止めする。二人はその間に逃げて」

 彼女の唇が、足が、震えている。
 当然だ。
 目の前の魔獣は話の通じるようなやつではないし、まさに自然災害のような存在だ。
 いくら普段澄まし顔の彼女でも、怖くないわけがない。
 
 それでも、彼女は決死の覚悟でわたしたちを逃がすつもりでいる。
 自身の命と引き換えに。


 逃げるならメレルも一緒に──。
 そう口に出そうとした言葉が、喉の奥で引っかかる。


 ……無理だ。

 あの魔獣を一目見ればわかる。
 やつはわたしたちが背を向けた瞬間、ひといきでここまで飛びかかれるだろう。

 狙いは逃げ遅れた者。

 どちらにせよ、誰か一人は絶対に助からない。
 今のこの状況は、そういう理不尽な運命の中にあるのだから。


 メレルはわたしたちに背を向け、杖を魔獣へと向けた。

「こんなつもりじゃなかった。……危険なことに巻き込んで、ごめん」

 彼女の息があがる。
 吐息が震えている。

 ごめんって、なんだ。
 わたしだって、彼女のそんな言葉を聞くために、彼女を手伝ったんじゃない。

「……行って。早く。わたしも長くは持たせられないから───」

 彼女はそう言って、魔獣を睨みつけ──、


 



 そして。

 ゴスッ、と後頭部をはたかれた。


「───あ痛っ?!?」

 
 まさかの背後からの攻撃!?
 目を白黒させながら、メレルは頭を押さえて振り返る。

「り、リーシャ……?」
「バカにはチョップが効くそうですよ。ロマさんに教わりました。まあ、自己犠牲などという青臭いこと考えるバカには、たしかにいい薬でしょう」
「むぅ……。わたしはバカじゃない……」
「バカですよ。……バカな友人です」
「………え?」

 リーシャはぼそりと呟く。
 そして、メレルの体を押しのけ、彼女の前に出た。

「待って、リーシャ、ダメ!あいつは並の魔獣とは違う!普通の人間が敵う相手じゃ──」
「一人で戦おうとしていたやつのセリフとは思えませんね」

 それに、とリーシャは口の端を歪める。


「──あいにくとわたしは、普通の『人間』ではないもので」


********************


 ちりちりと、空気が震える。
 灼けるような彼女の魔力の形が剥き出しになり、目の前の敵を真正面から威嚇する。

 彼女の隠れていた牙が、爪が、敵を目の前にして解き放たれる。
 
 彼女の魔力が美味しくないと、メレルは言った。

 えぐみ。雑味。苦味。
 多々あれど、それは決して味が薄いというわけではない。

 彼女の魔力は、舐めれば下に突き刺さるほどに、濃厚で、刺激的で、──攻撃的なのだ。
 

「───っ!!」


 唸るような、叫ぶような声と共に──。

 彼女の姿が、目の前から消えた。
 否。見えなかったのだ。

 音と風を置き去りにし、リーシャは魔獣に踊りかかった。

 魔獣は反応すらできずに、胸元を大きく切り裂かれ、悲鳴を上げる。
 


 ──それからの展開は、まさに一方的だった。


 彼女の爪が、牙が、魔獣の身体を次々と引き裂いていく。
 
 まるで泥人形を相手にしているようだ。
 マナから生まれた存在だからだろうか。
 血も出ず、痛みも感じない体で魔獣は反撃する。


 彼女のまるで鬼神のごとき戦いぶりに、メレルはあっけにとられたように呟く。

「リーシャ、すごい……。あの強さ、もしかして、魔族?」
「そっか、メレル気づいてなかったんだ。獣人種って種族らしいよ。……というか、なんかもうわたしたち出番なさそうだよね……」

 完全に蚊帳の外である。

 というか、意外と猫耳メイドのカモフラージュは仕事してたんだな。


 それにしても……。
 隷属契約から解き放たれた彼女は、こんなに物凄かったのか。
 猫どころか、まさに首輪を外された獅子だ。
 彼女が本気を出せば、わたしなんて容易に粉微塵にできるだろう。
 からかったあげくのツッコミで爆散とか洒落にならん。
 リーシャが良識ある子でほんと良かった。

 なんかもう、さっきまでの絶望感が嘘のような展開である。
 呆気に取られるとはこのことか。
 なかば安心感すらでてきて、わたしはストンと霊樹の根っこに腰を下ろした。


「──終わりです」


 彼女の声と共に、ぱん、と小気味良い音が響く。

 一閃。
 目にも止まらぬ蹴り上げだ。
 魔獣の頭はすっきり胴と泣き別れし、壊れた人形のように地面に転がった。

 いくら血が出ないとはいえ、さすがにちょっとグロい……。


 ぷらぷらと両手を振りつつこちらに戻ってくる猫耳少女。
 その鬼神の如き迫力に、わたしも思わずごくりと唾を飲み込む。
 なんかもう、歴戦のグラップラーを前にしてる感じの威圧感だ。
 こう、雰囲気だけでぷちっと潰されそうなほどの、生物としての格の差を感じるわけで……。

「と、とりあえずお疲れ様!い、いやぁ、リーシャさんって強いんですね、へへへ……!」
「その気持ち悪い敬語やめてくれます?……まあ、とりあえず終わったんで、いったん帰りましょうか。もう大物も出てこないでしょうし──」 

 そう言って、黒猫少女がくるりと背を向けた瞬間──、


「──リーシャ、油断しないで!」


 メレルの咄嗟の叫びに、振り返るリーシャ。
 その首元目掛け──。

 地面に転がっていた魔獣の首が跳ね、飛びかかった。

 一瞬判断が遅れるリーシャの瞳に、魔獣の最後のあがきが映り込む。
 鋭い牙が彼女の柔肌に食い込む直前、


「──構築。シールド」


 魔獣とリーシャの間。
 まさに間一髪のその瞬間。
 その目と鼻の隙間に、メレルの涼やかな声が割って入った。

 ──ぱきり、と空間の軋む音。

 目を見開くリーシャの目前で、魔獣の首は見えない魔力の壁にはねかえされ──、

 そのまま宙で溶けるように、灰となって消えていった。
 

 リーシャは目を丸くした後、やがて、ふぅ、と息を吐く。

「すいません、油断しました……。まさか首だけで食らいついてくるとは……。やはり普通の獣と魔獣は全然違うんですね」

 次からは頭を潰さないといけませんね、とリーシャは頷いた。

「防御魔術ですか。助かりました。ありがとうございます、メレル」

 だが──、リーシャの言葉にメレルは反応を返さない。
 杖を握りしめたままの棒立ちだ。
 その顔はずっと地面に視線を落とし、微動だにせず俯いている。

「……メレル?」

 リーシャが彼女の肩に手をかけたそのとき。


 ──まるで、人形の糸が切れたようだった。


 彼女の体はがくりと膝をつき──、そのまま上半身ごとうつぶせに、

 地面へと、崩れ落ちた。

 鼻口から漏れた微量の血液が、滲み出るように地面を濡らす。


「………メレル?──メレル!!」

 色白い肌から、さらに色素が抜けていく。
 
 名前を呼ぶ声にも、肩を揺する動きにも、もはや反応することもなく。

 彼女は小さくなる呼吸音とともに、その意識を失っていた。
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