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第百六十話:【幕間】停滞の森を溶かす、一滴の温もり
しおりを挟む聖樹連合国の夜は、深淵のような静寂と、凍てつくような冷気に支配されている。
人族の街のように、夜通し明かりが灯る喧騒はない。ただ、巨木が折り重なる天蓋の隙間から、宝石を散りばめたような星々が顔を覗かせ、聖域に満ちる魔力が淡い燐光となって、木々の肌を優しく撫でているだけだ。
この数百年、何一つ変わることのなかった、停滞という名の安寧。
だが、その静寂は今、一人の少年の手によって、静かに、しかし決定的に破られようとしていた。
聖女であり、この里の守護を司る高位エルフ、セレナ・リーフワルデは、自室のテラスに立ち、夜の森を見つめていた。彼女の細く白い指先は、今もなお、先ほど触れた「奇跡」の余韻を記憶している。
蛇口を捻るだけで溢れ出した、温かなお湯。
それは、厳しい修行を積み、自然の精霊と契約した高位の魔導師でさえも、膨大な魔力と引き換えにようやく生み出せるはずの代物だった。
「……道具は、心を守るための盾、ですか」
セレナは、昼間にルークスが見せた姿を思い返していた。
彼は決して、魔法のように一瞬で全てを解決したわけではなかった。
エルフの古い水路に潜り込み、泥にまみれ、小さな手で配管を調整していた。ポイントで交換した「熱交換触媒」――彼がそう呼ぶ不思議な石を、古い石造りの水路の要所に、一つ一つ丁寧に組み込んでいく。
その姿は、全能の魔法使いなどではなく、ひたむきに土を耕す「農民」そのものだった。
『セレナさん、これ、僕のわがままなんです』
説得する彼の声は、決して上から目線のものではなかった。どこか不器用で、切実な響き。
『前世で……僕がいた場所では、みんな心を削って働いていました。僕も、大切な後輩が倒れるまで、何もできなかった。でも、たった一つの便利な道具があるだけで、救われる時間があるんです。その時間で、誰かを温めたり、少しだけ長く眠れたりする。僕は、この里の人たちに、そんな「余白」を贈りたいんです』
ブラック企業という地獄を知る彼だからこそ紡げる、重みのある言葉。
セレナは、その言葉を思い出すたびに、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
ふと、階下の広場から微かな声が聞こえてきた。
テラスから身を乗り出し、影の濃い森の底を覗き込む。そこには、ルークスが設置した簡易浴場から出てきたばかりの、老婆マーサと、足の悪い少年ティムの姿があった。
「ああ、ティム。見てごらん、婆ちゃんの指が動くよ。冬になるといつも凍えて、鍬も握れなかったのに……」
老婆は、お湯で赤らんだ自分の手を、何度も握ったり開いたりして、涙を流していた。
その隣で、ティムもまた、ルークスから貰ったというふわふわのタオルに顔を埋め、幸せそうに笑っている。
利便性がもたらしたのは、贅沢ではない。
老いた身体を労わる温もりであり、凍える夜に怯えなくて済むという、ささやかな、しかし絶対的な「幸福」のプロセスだった。
「……長老会は、これを認めないでしょうね」
セレナが呟いた言葉は、重く夜の空気に溶けた。
里を牛耳る長老たちは、数百年、数千年の伝統を背負う者たちだ。彼らにとって、人族からもたらされた「便利」は、エルフの誇りを汚す毒でしかない。
現に、ルークスが設置した「浄水触媒」についても、彼らは『聖域の理を乱す無作法』だと激しく非難し始めている。
その時、森の奥深くから、地響きのような唸り声が響いた。
ルークスの相棒、伝説の魔獣「ブラックフェンリル」のフェンの声だ。
広場にいたエルフたちが一瞬身構える。伝説の魔獣への畏怖は、彼らの本能に刻まれている。
しかし、茂みから姿を現したフェンは、ルークスが差し出した特製の「干し肉」に鼻を鳴らし、しっぽを激しく振って甘えていた。
「フェン、待て。まだ熱いからな」
「クゥーン!」
伝説の魔獣が、ただの大型犬のように少年にじゃれつく姿。
そのあまりのギャップに、恐る恐る見ていたエルフたちの間に、ふっと小さな笑いが漏れた。
ルークスの周りには、いつもこうして、緊張を溶かすような温かな空気が流れる。
彼はポイントという「力」を使いながらも、それ以上に、手間を惜しまぬ「真心」で、頑固なエルフたちの心に土を盛っているようだった。
「……私も、少しだけ贅沢をしてみようかしら」
セレナは、テラスを後にした。
伝統という名の冷たい水に、自分たちを縛り付ける必要はない。
ルークスが命がけで調整した、あの温かな一滴。
それを拒むことは、彼が守ろうとした「人の心」そのものを否定することになる気がしたからだ。
だが、変化は波紋を呼ぶ。
里の奥深く、聖樹の根元にある長老たちの広間では、ルークスを「異端」として排除しようとする暗い火が、静かに燃え上がろうとしていた。
一方、ルークスはフェンのふかふかの腹を枕にしながら、深夜の調整作業に没頭していた。
視界に浮かぶシステムウィンドウには、膨大なpt消費のログが流れている。
『熱交換触媒設置費用:33,000 pt(リーフ村年間予算相当)』
『警告:長老層の不満度が上昇中。メンテナンスコストの増加を予測』
「……三万三千ポイント。前世の年収分くらいの重みはあるな。でも、あの老婆の笑顔を見たら、安い投資だよ」
ルークスは、渇いた笑いを漏らしながらも、その瞳には強い光を宿していた。
彼は知っている。一度便利さを知った人間――いや、エルフは、もう凍える夜には戻れない。
これが、ブラック企業で培った「生活基盤の独占」ならぬ「幸せの定着」という名の、彼なりの戦い方だった。
「フェン、明日からも忙しくなるぞ。設備の点検に、次は堆肥の改良だ。エルフの里を、最高の農村にしてやるんだからな」
少年の誓いに、夜の森がざわりと揺れた。
停滞していた悠久の時が、今、泥にまみれた少年の歩みに合わせて、ゆっくりと動き出そうとしていた。
【読者へのメッセージ】
第百六十話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は幕間として、ルークスがもたらした「温もり」が、エルフの里にどのような小さな変化と大きな波紋を広げているのかを、じっくりと描写いたしました。
三万三千ポイントという、ルークスにとっての「一世一代の投資」。それは彼が前世で失った「ゆとり」を、この世界の人々に取り戻してほしいという切実な願いの形です。
しかし、急激な変化は保守的な長老たちとの衝突を招く予感……。
「お湯」の温もりが里を救うのか、それとも伝統の壁に阻まれるのか。
続きが気になる!と思ってくださったら、ぜひ【評価】【感想】【ブックマーク】で応援をお願いします。皆様の応援が、ルークスの次なる改良へのポイントになります!
次話、ついに長老会との直接対決が幕を開けます。お楽しみに!
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