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第百八十二話:雫の告白、あるいは聖域を揺らす「不協和音」
しおりを挟む石造りの厨房に、ふわりと、あまりに濃厚で慈悲深いバターの香りが膨らんだ。
俺――ルークス・グルトが、手際よくフライパンを煽り、滑り込ませるように皿に差し出した黄金色に輝くラグビーボール。その表面をエレナ様が銀の匙で僅かに割った瞬間、内側から溢れ出したのは、熱を帯びた「大地の記憶」そのものだった。
古代トリュフの黒い破片が、半熟の卵液の中で星屑のように散らばっている。
エレナ様は、震える手でその一切れを口へと運んだ。
「…………っ」
言葉は、出なかった。
ただ、彼女の長い睫毛が細かく震え、若葉色の瞳から、一筋の雫が透明な軌跡を描いて頬を伝い、石造りの床に吸い込まれた。
それは、昨夜までの社交界という名の、目に見えない刃が飛び交う戦場で、彼女が必死に纏い続けてきた「令嬢という名の鉄の鎧」が、ルークスの作るあまりに無防備で優しい熱量に溶かされて流れ出した、魂の雫だった。
「……暖かい。……ルークス、どうして貴方の作るものは、こんなにも私の……私が、自分でも気づかないふりをしてきた場所を、正確に見つけ出してしまうの?」
エレナ様が、力なく、だがどこか憑き物が落ちたような顔で微笑む。
その視線は、皿の上の黄金を見つめながらも、その実、王都に来てから彼女が経験してきた、底冷えのする孤独な夜を彷徨っているようだった。
「夜会で、誰もが私の微笑みの裏にある疲れには気づかない。……みんな、レオナルドの娘という肩書きに、辺境伯領という巨大な利権にしか興味がない。……昨日も、カイル様のあのような、私の心を踏みにじるような傲慢な視線に晒されながら、私は一晩中、氷のような冷たい心で笑っていなければならなかった。……ルークス、私、もう、自分が何を演じているのかさえ、分からなくなりそうなの」
俺は何も言わず、ただ傍らで彼女の言葉の欠片を一つずつ丁寧に拾い上げた。
前世のブラック企業時代、俺もまた、鏡の中で死んだ魚のような目をした自分と毎日対面してきた。
どんなに理不尽な納期を突きつけられても、どんなに自尊心を削り取られても、朝になれば完璧な「有能な社員の顔」を貼り付けて、満員電車という名の戦場へ向かわなければならない。
あの頃の俺にとっての唯一の救いが、スマホの画面の中で積み上がる無機質なポイントだったように、エレナ様にとっての救いが、この狭い厨房で供される、名前のない一皿であってほしいと願わずにはいられない。
「……気が済むまで、話してください。ここは結界の外側とは、時間の流れも、情報の重みも違いますから。……僕の前でだけは、令嬢を休んでいいんです」
俺は「懃懃無礼な少年の仮面」を少しだけ外し、故郷リーフ村の幼馴染としての、飾らない声で囁いた。
エレナ様の独白が、厨房の「濾過された静寂」の中に静かに染み渡っていく。
一歩描写を重ねる。彼女が語るたびに、王都の石畳の冷たさが、この部屋を満たすトリュフの芳香によって中和され、彼女の細い肩から余計な力が抜けていくのが手に取るように分かった。
だが。
そのオアシスのような「聖域」の時間を、世界の理を外れた「不協和音」が、残酷に引き裂こうとしていた。
「…………チリッ、ギチ…………」
俺の「気配察知」が、鼓膜ではなく、脳の深部――意識の階層で不快な音を拾った。
多層結界【静寂の防音結界・極】。
三万ポイント以上という、天文学的なリソースを投じて構築した俺の「絶対防衛圏」。
その鉄壁の防御膜に、今、目に見えないほど細い、だが致命的な「亀裂」が走り始めていた。
物理的な破壊ではない。それはまるで、熟練の侵入者がセキュリティの脆弱性に極細の針を差し込み、内部のデータを、定義を、じわじわと書き換えようとするかのような、執拗で、そしてあまりに洗練された侵食だった。
「……主よ! いかぬ、奴だ! あの銀髪の毒蛇の魔力が、結界の『定義』を塗り潰そうとしておるぞ! 奴は、ここをただの宿屋ではなく、システムの『空白(ラグ)』として認識し、そこを足がかりに俺たちの領域を喰らうつもりだ!」
寝床に伏せていたフェンが、弾かれたように身を起こし、その全身の毛が、魔力の高まりによって青白い静電気を帯びて逆立った。金色の瞳が、結界の外側にある「虚無」――すなわちジルヴァの視線が集中する一点を射抜く。
(……ジルヴァ! 俺がこの『古代種』を芽吹かせ、この宿屋に異常なまでの魔力密度を生じさせたことで、奴の好奇心を臨界点まで引き上げてしまったか!)
俺は視界の端で、エレナ様に悟られぬよう、超高速でポイント操作のウィンドウを叩き出した。
【警告:結界侵食率 4.8%。……外部からの『存在定義の上書き』を検知】
【緊急措置:管理組合(アドミニストレーター)直系・防壁強化パッチ:8,000pt 購入】
【保有ポイント:92,100 pt → 84,100 pt】
残高が一気に削れる不快感。だが、今は一ポイントを惜しむことが死に直結する。
俺は、ポイントを消費して結界の構造を瞬時に再定義(リビルド)しながら、同時に「次なる経営戦略」を脳内の高速道路で組み立てていた。
(ジルヴァは、この『古代トリュフ』の匂いに呼応している。……ならば、これを隠し続けるのは逆効果だ。あえて『不完全な価値』として王都に流通させ、独占させない。……希少価値を餌に、王都のあらゆる権力をこの香りに依存させる。……一人の農民の『生産物』として、この世界に定着させてやるんだ)
「……ルークス? 何か、あったの? 急に顔が、怖くなったみたい……」
エレナ様が、俺の微かな表情の強張りを察し、不安げに顔を上げる。
俺は即座に、いつもの「無垢で人畜無害な農民の少年」の笑顔を、一ミリの狂いもなく貼り直した。
「いいえ、なんでもありません。……少し、オムレツの火の入り方が完璧すぎて、自分でも驚いてしまっただけです。……さあ、冷めないうちに全部食べてくださいね。……足元のバルザック様のように、お皿を舐めたくなるほど美味しいはずですから」
俺は、足元で依存の果てに抜け殻のようになり、主の「お零れ」を待つ忠犬のように大人しくなっているカイルをチラリと見た。
この堕落した貴族も、また俺の防壁の一つ。王都の貴族社会において、俺を害しようとする者たちに対する「身代わり」だ。
結界の外では、ジルヴァの放った不可視の刃が、再びギチギチと音を立てて防壁を削っている。
王都の朝は、いつの間にか、重苦しい予感に満ちた灰色へと染まり始めていた。
だが、俺は確信している。
一度でも俺の「誠実な一皿」に救われ、依存した者は、例え王子であっても、魔獣であっても、そしてこの目の前の可憐な令嬢であっても、俺の平穏を守るための「最強の、そして最狂の盾」へと変わることを。
「……ふう。……さて、フェン。朝飯が終わったら、本格的に『量産体制』の構築だ。……王都の物流(ルール)を、俺たちのポイント源(金脈)に変えてやるよ。ジルヴァに喰われる前に、俺がこの街を喰い尽くしてやる」
俺は、エレナ様の食べ終えた後の真っ白な皿を受け取りながら、心の中で、ジルヴァという名のバグを排除し、家族とのスローライフを死守するための、新たな「巨大な投資計画」を書き進めた。
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【読者へのメッセージ】
第百八十二話をお読みいただき、ありがとうございます!
オムレツ一口で令嬢の仮面が剥がれ落ちる瞬間と、その裏でシステムの防壁を血の滲むようなポイント消費で補強するルークスのギャップ。これこそが、本作の真骨頂です。
次回、ルークスが王都の市場を「経営的」にハック!
古代トリュフの香りを武器に、王都の物流を牛耳る商業ギルドとの、静かなる「価格競争」が始まる!?
「エレナ様の涙に、こっちまで胸が熱くなった!」「ジルヴァの執念、本気で怖すぎる……」という方は、ぜひ評価やブックマークで応援をよろしくお願いいたします!皆様のブクマが、ルークスの次なる「防御結界」のバージョンを引き上げます!
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