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第18話:温かい食卓と、世界を癒やす設計図
しおりを挟むアークが目を覚ましたのは、自分の部屋の、慣れ親しんだベッドの上だった。
身体を苛んでいた魔力枯渇の疲労感は消え、代わりに心地よい倦怠感が全身を包んでいる。枕元では、小さな毛玉――ウルが、すぅすぅと安らかな寝息を立てて丸くなっていた。
「……おはよう、アーク」
部屋の扉がそっと開き、そこに立っていたのは、紛れもなくアークの母だった。
病の床にいた頃の青白い顔色や、か細い佇まいではない。頬は健康的な血色を取り戻し、その声は凛として、澄み渡っている。
食堂へ向かうと、そこには、父と兄のアルフォンスが、食卓について朝食を待っていた。いつも誰かが欠けていたり、心配の影が落ちていたりしたこの場所に、家族全員が、何の憂いもなく揃っている。
食卓に並んだのは、湯気の立つアークイモのシチューと、ふかふかのパン。ウルも、アークの隣にちょこんと座り、自分のために用意された小さな皿の上で、森の木の実を嬉しそうに頬張っている。
父の低い声、兄の他愛ない冗談。そして、母の明るい笑い声。
長年、咳を堪えるために、どこか遠慮がちだった母の笑い声が、今は鈴を転がすように、何の憂いもなく食堂に響き渡っている。アークは、その音色を、まるで初めて聴く音楽のように、心の底から味わっていた。
その全てが、月雫草の雫にも勝る、最高の妙薬だった。
穏やかな日々が、ゆっくりと流れていった。
季節は秋から冬へと移り変わり、辺境の地は、厳しい寒さと深い雪に閉ざされた。
だが、今年の冬は、例年とは全く違っていた。
アークイモが全ての家の食糧庫を満たし、フロストウルフの毛皮が作った防寒着が、子供たちの体を温めている。アークが持ち帰った、たった三つの奇跡が、村の冬の姿を、根本から変えてしまったのだ。
アーク自身も、この穏やかな時間の中で、静かに、しかし着実に成長していた。
彼の魔力は以前よりも遥かに大きく、そして強靭になった。ローランからは世界の地理と歴史を、父からは領主としての心構えを学ぶ。そして何より、最高の相棒であるウルが、片時もそばを離れなかった。二つの魂は、日に日に深く、固く結びついていった。
雪が溶け、大地が再び生命の息吹を取り戻し始めた、春の日。
アークは、ウルと共に、屋敷の裏にある小高い丘の上に座っていた。
眼下には、活気づく村と、希望に満ちた顔で働く村人たちの姿が見える。
「……見て、ウル。僕らの村だよ」
「きゅぅ!」
アークは、膝の上で丸くなるウルの、もふもふの毛並みを優しく撫でる。
そして、ウルの漆黒の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「ウル。約束するよ」
その声は、子供のそれではなく、一つの世界の運命を背負う者の、静かで、しかし、どこまでも重い誓いの響きを持っていた。
「僕のお母さんは、助かった。だから、今度は、僕が君の母様を助ける。必ず、あの世界樹を、元の元気な姿に戻してみせる」
その言葉に、ウルの体が、ぴくりと震えた。
ウルの漆黒の瞳から、ぽろり、と一粒、水晶のような雫がこぼれ落ちる。それは、何万年という孤独と絶望の末に、ようやく見つけた、たった一つの希望に対する、魂からの涙だった。
そして、アークの誓いを受けたウルの頭の上で、今まで固く閉ざされていた小さな花の蕾が、ゆっくりと、しかし、確かに綻び始めた。
約束は、交わされた。
だが、どうやって? 瀕死の世界樹を、どうやって救う?
その夜、アークは一人、自室で机に向かっていた。
手には、剣や魔法の杖ではない。前世の彼が、最も信頼した武器――羊皮紙と、木炭のペン。
彼の思考は、常に『設計士』としてのそれだった。
(瘴気という『死』の流れを押し返すには、それよりも強い『生』の流れをぶつければいい)
アークは、羊皮紙の上に、震える手で一本の線を引いた。
そこに描かれていくのは、家でも、道具でもない。
大陸の地形そのものを書き換える、神の御業。
無数の木々を編み込み、絡み合わせ、それ自体が一つの生命体として機能する、全長数十キロにも及ぶ巨大な**『緑の防壁』**。それは、瘴気の流れを堰き止め、気候すらも変えうる、壮大な『テラフォーミング計画』の、第一段階の設計図だった。
アークは、描き上げたばかりの、あまりにも壮大な設計図を見つめた。
それは、何十年、あるいは百年かかるかもしれない、途方もない計画だった。
だが、彼の瞳には、一点の曇りもなかった。
愛するたった一人を救うための、小さな冒険は終わった。
そして今、名も知らぬ無数の命を救うための、あまりにも壮大な『設計』が、始まる。
***
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