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第18話 記憶をなくした織物師と、千枚の思い出(ミルフィーユ) (18-3)
しおりを挟む焼きあがったパイ生地を、三枚の長方形に切り分ける。
その一枚の上に、追憶の蕾の蜜が入った、特製のカスタードクリームを、たっぷりと絞っていく。
もう一枚のパイを重ね、再びクリームを絞り、最後の一枚を乗せる。
仕上げに、粉砂糖を、冬の日の粉雪のように、そっと振りかけて、完成だ。
サクサクのパイ生地と、なめらかなクリームが織りなす、完璧な層。
それは、エララという一人の職人が、その人生をかけて紡いできた、美しきタペストリーそのものだった。
俺とアーニャは、その一皿を手に、エララさんの屋敷へと向かった。
屋敷の中は、ひっそりと静まり返っていた。
エララさんは、窓辺の椅子に座り、ただ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。その手には、色のついていない、ただの白い糸が、力なく握られている。
「……おばあ様」
アーニャが、優しく声をかける。
エララさんは、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には、かつての輝きはなく、どこか虚ろな色が浮かんでいる。
「……アーニャか。……と、そちらは……?」
「日向さんです。おばあ様のために、美味しいお菓子を作ってきてくれました」
俺は、無言で、テーブルの上に、ミルフィーユの皿を置いた。
エララさんは、最初、何の興味も示さなかった。
だが、皿から立ち上る、あの『追憶の蕾』の、甘く、懐かしい香りが、彼女の鼻腔をくすぐった瞬間。
彼女の虚ろだった瞳が、ほんのわずかに、揺らいだ。
「……お食べください。あなた様が、その素晴らしい手で紡いでこられた、幾千もの美しい日々の物語です」
俺がそう言うと、エララさんは、おずおずと、フォークを手に取った。
そして、ひとかけらを、口に運ぶ。
サクサク、という小気味よいパイの音。
なめらかなクリームの、優しい甘み。
その刹那。
エララさんの、時が止まっていたかのような瞳から、ぽろり、と、大粒の涙がこぼれ落ちた。
(……ああ、そうだ。この温かさは……。この、優しい甘さは……)
彼女の脳裏に、忘れていたはずの光景が、鮮やかに蘇る。
まだ、彼女が、ただの織物好きの、小さな少女だった頃。
母親の隣で、初めて、自分の手で、小さな花の紋様を織り上げた、あの日の夕暮れ。
完成した拙い刺繍を、母親が、涙を浮かべて「お前は、天才だよ」と、頭を撫でてくれた、あの時の、手の温もり。
「……母、様……」
ぽつりと漏れた呟き。
それは、彼女が、物作りの喜びに、人生で初めて触れた、原風景の記憶だった。
エララさんは、もう何も言わなかった。
ただ、子供のように、夢中でミルフィーユを頬張り続ける。
一口、また一口と食べるごとに、彼女の顔に、失われていたはずの「職人」としての、気高い光が、ゆっくりと、しかし、確かに戻ってくるのが分かった。
やがて、皿の上が綺麗になった頃。
エララさんは、フォークを置くと、震える手で、自分の膝の上に置かれていた、あの白い糸を、そっと持ち上げた。
そして、その糸を、まるで愛しい我が子を見つめるかのように、じっと、見つめた。
「……そうだ。わたくしは、織物師だった……。この手に、まだ、あの花の紋様が、残っている……」
彼女は、ゆっくりと立ち上がると、部屋の隅で埃をかぶっていた、愛用の織機の方へと、一歩、また一歩と、歩み寄っていく。
そして、その織機に、そっと、手を触れた。
その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、何十年ぶりかに、旧友と再会したかのような、穏やかで、そして、この上なく幸せそうな笑顔だった。
俺とアーニャは、何も言わずに、その光景を、ただ、涙をこらえながら、見守っていた。
この日、一人の老職人は、失われた記憶ではなく、失いかけていた、自らの魂を、見事に取り戻したのだ。
全ては、千枚の思い出が重なってできた、あの一皿の奇跡だった。
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