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第30話 幕間・弟子の土と、皇帝の菓子
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夜。
『木漏れ日の食卓亭』の、弟子たちに与えられた小さな部屋で、俺、レオは一人、自分の手のひらを、じっと見つめていた。
爪の間には、まだ、あの森の土が、黒く残っている。
王都の厨房にいた頃の、白くて、傷一つなかった手とは、まるで違う。
数日前までの俺なら、この手を、屈辱に震えながら、何度も何度も洗っていただろう。
だが、今の俺は。
この、土の匂いが染みついた手のひらを、なぜか、誇らしく感じていた。
(……何が、違ったんだ……)
日向さんに「森へ行くぞ」と言われた時、俺は、心の底から、馬鹿にしていた。
料理人が、なぜ、土をいじる必要がある?
俺たちの仕事場は、厨房だ。最高の食材は、金で買えばいい。
森の生態系がどうなろうと、蜂が元気をなくそうと、それは、俺たちの知ったことではない、と。
だが、あの光景を目の当たりにして、俺は、言葉を失った。
枯れ果てた、花畑。
力なく、巣の周りをうごめくだけの、虹色蜂たち。
それは、ただの風景ではなかった。
俺たちが、毎日、当たり前のように使っている食材の、声なき「悲鳴」だったのだ。
泥にまみれ、汗を流し、あの『影の蔓』を引き抜いていく。
最初は、ただの苦役だった。
だが、作業を進めるうちに、気づいたのだ。
俺たちの手で、蔓を一本引き抜くたびに、森が、少しずつ、息を吹き返していくのを。
風の色が変わり、光の匂いが変わり、そして、蜂たちの羽音が、力強くなっていくのを。
(……ああ、そうか。俺たちは、今まで、命の『結果』だけを、調理していたのか)
日向さんは、俺たちに、その『過程』を、体で教えようとしていたのだ。
食材が、どれほどの物語を経て、俺たちの前に現れるのかを。
そして、あの『バクラヴァ』。
厨房に戻り、彼があの菓子を作り始めた時、俺は、ようやく、全ての意味を理解した。
『皇帝(スルタン)たちが、その権力の象徴として作らせた、究極の菓子』
『職人技の結晶』
彼が語る、その華やかな物語。
だが、俺が、あの一切れを口にした時に感じたのは、そんな高尚なものではなかった。
サクサクとした、幾重にも重なるパイ生地。
ナッツの香ばしさ。
そして、舌の上でとろける、あの『虹色の蜂蜜』の、深く、優しい甘み。
その味は。
ただ、甘いだけじゃなかった。
あの森の、湿った土の匂いがした。
必死で蔓を抜いた時に流した、汗のしょっぱさがした。
そして何より、森の主や、モグモグや、共に戦った仲間たちとの、温かい『絆』の味がした。
(……これが、日向さんの……いや、師の、料理の世界か……)
俺は、そっと、窓の外に目をやった。
月明かりの下、森が、静かに呼吸をしているのが分かる。
あの森は、もう、ただの食材の宝庫ではない。
俺たちが、共に汗を流し、守り抜いた、かけがえのない「仲間」なのだ。
俺は、もう一度、自分の手のひらを見つめた。
この、土の匂いがする手。
これこそが、今の俺の、新しい誇りだ。
明日、一番に厨房へ行こう。
そして、師に、こう言うのだ。
「――日向さん。どうか、俺に、あの蜂蜜を使った、新しい料理を、考えさせてはいただけませんか」と。
王都の技術だけを振りかざしていた、昨日の俺は、もういない。
俺の、本当の料理人としての物語は、この、土の匂いと共に、静かに始まろうとしていた。
◼️◼️◼️◼️◼️
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
『木漏れ日の食卓亭』の、弟子たちに与えられた小さな部屋で、俺、レオは一人、自分の手のひらを、じっと見つめていた。
爪の間には、まだ、あの森の土が、黒く残っている。
王都の厨房にいた頃の、白くて、傷一つなかった手とは、まるで違う。
数日前までの俺なら、この手を、屈辱に震えながら、何度も何度も洗っていただろう。
だが、今の俺は。
この、土の匂いが染みついた手のひらを、なぜか、誇らしく感じていた。
(……何が、違ったんだ……)
日向さんに「森へ行くぞ」と言われた時、俺は、心の底から、馬鹿にしていた。
料理人が、なぜ、土をいじる必要がある?
俺たちの仕事場は、厨房だ。最高の食材は、金で買えばいい。
森の生態系がどうなろうと、蜂が元気をなくそうと、それは、俺たちの知ったことではない、と。
だが、あの光景を目の当たりにして、俺は、言葉を失った。
枯れ果てた、花畑。
力なく、巣の周りをうごめくだけの、虹色蜂たち。
それは、ただの風景ではなかった。
俺たちが、毎日、当たり前のように使っている食材の、声なき「悲鳴」だったのだ。
泥にまみれ、汗を流し、あの『影の蔓』を引き抜いていく。
最初は、ただの苦役だった。
だが、作業を進めるうちに、気づいたのだ。
俺たちの手で、蔓を一本引き抜くたびに、森が、少しずつ、息を吹き返していくのを。
風の色が変わり、光の匂いが変わり、そして、蜂たちの羽音が、力強くなっていくのを。
(……ああ、そうか。俺たちは、今まで、命の『結果』だけを、調理していたのか)
日向さんは、俺たちに、その『過程』を、体で教えようとしていたのだ。
食材が、どれほどの物語を経て、俺たちの前に現れるのかを。
そして、あの『バクラヴァ』。
厨房に戻り、彼があの菓子を作り始めた時、俺は、ようやく、全ての意味を理解した。
『皇帝(スルタン)たちが、その権力の象徴として作らせた、究極の菓子』
『職人技の結晶』
彼が語る、その華やかな物語。
だが、俺が、あの一切れを口にした時に感じたのは、そんな高尚なものではなかった。
サクサクとした、幾重にも重なるパイ生地。
ナッツの香ばしさ。
そして、舌の上でとろける、あの『虹色の蜂蜜』の、深く、優しい甘み。
その味は。
ただ、甘いだけじゃなかった。
あの森の、湿った土の匂いがした。
必死で蔓を抜いた時に流した、汗のしょっぱさがした。
そして何より、森の主や、モグモグや、共に戦った仲間たちとの、温かい『絆』の味がした。
(……これが、日向さんの……いや、師の、料理の世界か……)
俺は、そっと、窓の外に目をやった。
月明かりの下、森が、静かに呼吸をしているのが分かる。
あの森は、もう、ただの食材の宝庫ではない。
俺たちが、共に汗を流し、守り抜いた、かけがえのない「仲間」なのだ。
俺は、もう一度、自分の手のひらを見つめた。
この、土の匂いがする手。
これこそが、今の俺の、新しい誇りだ。
明日、一番に厨房へ行こう。
そして、師に、こう言うのだ。
「――日向さん。どうか、俺に、あの蜂蜜を使った、新しい料理を、考えさせてはいただけませんか」と。
王都の技術だけを振りかざしていた、昨日の俺は、もういない。
俺の、本当の料理人としての物語は、この、土の匂いと共に、静かに始まろうとしていた。
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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