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第52話 幕間・天才の夜明け
しおりを挟む夜。自分の厨房は、しんと静まり返っていた。磨き上げられた調理台は鏡のように天井の灯りを反射し、ナイフの一本一本は、まるで王の儀仗のように、あるべき場所に収まっている。完璧な厨房。完璧な静寂。そして、完璧な、孤独。
わたくし、アントワーヌは、その厨房の中心に一人、立ち尽くしていた。
舌の上にはまだ、あの、信じがたいほどに純粋な味の記憶が、幻のように残っている。
日向耕介が作った、『お吸い物』。
この港町に来てから、わたくしは、ずっと答えを探していた。
技術では、わたくしが上だ。使う食材も、王都から取り寄せた、最高級のもの。それなのに、なぜ、わたくしの料理は、彼が作る、あの素朴で、不格好でさえある料理が持つ「温かさ」に、届かないのか。
あの「温かさ」の正体は、何か特別なスパイスか、誰も知らない調理法か。その秘密を暴き、自分のものにするために、わたくしは、この雪辱の勝負を挑んだのだ。
わたくしのコンソメは、完璧だった。彼も、そう言った。「飲む宝石だ」と。その言葉に、わたくしの心は、一瞬、確かに満たされた。そうだ、これこそが、わたくしが人生をかけて築き上げてきた、料理という名の芸術なのだ、と。
だが。
あの、黒塗りの椀を前にした瞬間から、わたくしの世界は、静かに崩れ始めた。
蓋を開けた時に立ち上ったのは、香りと呼ぶには、あまりにもささやかな、ただ、清らかな水の気配だった。
一口、すする。
…味が、ない?
いや、違う。味が「ない」のではない。「邪魔な味」が、一切ないのだ。
昆布のえぐみも、鰹節の酸味も、水の硬ささえも、全てが完璧に削ぎ落とされ、その先にある、純粋な「うま味」という名の魂だけが、そこにあった。
そして、魚。
汁と共に味わった、あの白身魚。
信じられないことだが、あの魚は、わたくしが今まで食べた、どんな魚よりも、深く、甘く、香り高い、「魚そのものの味」がした。
あの汁は、魚の味を支配しない。それどころか、魚自身が、その最高の輝きを放つための、完璧な舞台になっていたのだ。
その瞬間、わたくしは、雷に打たれたように、理解してしまった。
わたくしが、ずっと探し求めていた、「温かさ」の正体を。
わたくしの料理の主役は、常に「わたくし自身」だった。このアントワーヌという天才の、完璧な技術を、客にひれ伏させるための、足し算の芸術だった。
だが、彼の料理の主役は、違った。
彼の料理の主役は、常に「食材」であり、そして、それを食べる「相手」だったのだ。
彼は、自分を「無」にしていた。シェフとしてのエゴや、技術を誇示したいという欲求、その全てを、客の「美味しい」という一言のために、引き算していたのだ。
温かさとは、食材や技術に宿るものではなかった。
それは、料理人の、揺るぎない「祈り」そのものだったのだ。
わたくしは、静かに、涙を流していた。
それは、敗北の涙ではなかった。
長かった、暗いトンネルの先に、ようやく、一条の光を見出すことができた、安堵と、感謝の涙だった。
わたくしは、自分の厨房を見渡す。この、完璧で、冷たい厨房。
明日、ここを、初めて客のために、開放してみようか。
そして、わたくしが最初に作るべきは、複雑な芸術品ではない。
ただ、一杯の、温かいスープなのかもしれない。
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