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第53話 女将の過去と、心を繋ぐ赤ワイン煮込み (53-3)
しおりを挟む何時間もの、静かな煮込みの時を経て。
完成した牛肉の赤ワイン煮込みは、ベアトリスと、コンラッドの前に、そっと置かれた。
飾り気のない、素朴な深皿。だが、そこから立ち上る香りは、これまでのどの料理よりも、深く、豊潤で、そして、心を温める慈愛に満ちていた。
コンラッドは、まだ、疑いの目を向けていた。だが、その香りに抗うことはできず、おずおずと、スプーンを手に取った。
そして、一口。
その刹那。
コンラッドの、氷のように冷たかった仮面が、音を立てて、崩れ落ちた。
…なんだ、これは。
牛肉が、舌の上で、とろける。筋張っていたはずの繊維が、完全にほどけ、旨味の洪水となって、口の中に広がる。そして、このソース。酸っぱかったはずのワインが、信じられないほどに、深く、まろやかなコクへと変貌を遂げている。野菜クズから生まれたとは思えぬ、複雑で、気高い香り。
彼は、ただの味ではない。その皿の中に、溶け込んでいる「時間」そのものを、味わっていた。効率や格式では、決して辿り着けない、ただ、ひたすらに、優しく、温かい時間の味を。
「……美味い…」
ぽつりと、彼が呟いた。
彼は、顔を上げ、妹であるベアトリスの顔を、真っ直ぐに見た。その瞳には、もう侮蔑の色はない。ただ、深い後悔と、そして、失われた時間への、切ない想いだけが、浮かんでいた。
「…ベアトリス。…すまなかった」
ベアトリスは、何も言わずに、ただ、ふいと顔を背けた。
そして、ぶっきらぼうに、自分の分の煮込みを、一口、口に運ぶ。
「…ふん。まあ、悪くはない味だね」
その横顔は、少しだけ、泣いているように見えた。
その夜、何年もの間、凍てついていた兄妹の間の氷は、一杯の温かい煮込み料理によって、静かに、そして、確かに、溶け始めたのだった。
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