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第58話 幕間・漁師の見る夢
しおりを挟む夜。とっくに日が変わっているというのに、わしの家の台所には、まだ煌々と灯りが灯っている。目の前の大鍋では、あの赤黒い海藻が、甘じょっぱい匂いを立てながら、ことことと煮詰められていた。数日前まで、悪夢の元凶でしかなかったこの香りが、今では、明日への希望の香りになっているのだから、人の世とは分からんもんだ。
「お前さん、もう寝なよ。明日も早いんだろ?」
女房が、呆れたように言う。だが、その声には、ここ何週間もなかった、温かい響きが戻っていた。
「…おう。だが、こいつが気になってな」
わし、ギルは、木べらで鍋の底をゆっくりとかき混ぜながら、独りごちた。
赤潮が、この港町を覆い尽くしたあの日。わしは、本気で、もう終わりだと思った。
海は、わしらにとって、母親そのものだ。時には厳しく、時には優しく、わしらは、その恵みだけを頼りに、何代も、何代も、生きてきた。その母なる海が、赤黒く、死んだような色に変わり果てた。魚は腹を上にして浮き、浜辺には、腐敗した磯の匂いが満ちていた。
船を出せない。網を打てない。それは、わしら漁師にとって、死刑宣告にも等しい。酒場で、仲間たちと、ただ、ため息をつきながら、なけなしの銭でエールを呷る。そんな、色のない日々が、永遠に続くのかと、本気で絶望していた。
だから、あの日向の旦那が「海の呪いを、最高の御馳走に変える」と黒板に書き出した時も、わしは、心のどこかで「馬鹿を言え」と思っていた。気休めだ、と。善意からくる、空虚なパフォーマンスだろう、と。
あの、赤黒い海藻の塊を、どうこうできるはずがない。あれは、わしらの母を殺した、呪いの塊なのだから。
だが、あの男は、違った。
彼は、わしらが「呪い」と呼んで思考を止めていたものを、「海藻の異常発生」という、ただの「現象」として捉えた。そして、わしらが「厄介者」と見なしていたものを、「新しい資源」だと言い放ったのだ。
彼が語ってくれた、『佃煮』という料理の物語。遠い故郷の漁師たちが、売れ残りの小魚を、知恵で、最高の保存食に変えたという話。
その物語は、わしらの、凝り固まっていた頭を、ガツンと殴りつけるような衝撃だった。そうだ。わしらは、いつから、海の変化を嘆くだけで、自分たちの頭で考えることを、やめてしまっていたのだろうか。
そして、あの『潮風のハーブ』。浜辺に、いくらでも生えている、ただの雑草だ。わしらは、それを、見向きもしなかった。だが、日向の旦那は、その雑草が、あの海藻のえぐみを消す、最高の「相棒」になることを見抜いていた。
伝説の食材なんかじゃねえ。宝物は、いつだって、わしらの足元に転がっていたのだ。
あの一口目の、衝撃。
炊き立ての白い飯の上に乗せられた、黒く艶めく、あの佃煮。
おそるおそる口に運んだ瞬間、わしの、全ての絶望が、吹き飛んだ。
美味い!
なんだ、この、凝縮された、海の旨味は! 甘くて、しょっぱくて、そして、あの潮風のハーブの爽やかな香りが、鼻に抜ける。これさえあれば、飯が、何杯でも食える!
あの夜、宿屋は、希望の光で満ちていた。わしら漁師も、その女房たちも、皆、夢中で、新しい「故郷の味」を頬張っていた。
翌日から、わしらの仕事は、変わった。魚を獲るための網ではなく、あの赤い海藻を収穫するための籠を手に、浜辺に出る。それは、敗北ではなかった。変化を受け入れ、新しい道を見つけ出した、わしらの、新しい「漁」だったのだ。
わしは、鍋の火を止めると、味見のために、熱々の佃煮を、少しだけ指でつまんだ。
…うむ。最高の出来だ。
明日、この瓶詰が、また、内陸の街へと出荷されていく。
日向の旦那。あんたは、わしらに、ただ新しい仕事をくれたんじゃねえ。どんな絶望の海にも、必ず、希望の光は差すのだということを、教えてくれたんだ。
わしは、窓の外に広がる、月明かりに照らされた、静かな海を見つめた。
海は、まだ赤い。
だが、もう、怖くはなかった。
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