異世界ほのぼのクッキングロード ~元フードコーディネーター、不思議な食材で今日も一皿~

はぶさん

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第62話 幕間・長老の見た、新しい神

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夜。広場から聞こえてくる、若い衆の陽気な歌声と、子供たちのはしゃぐ声を、わしは、長老の家の窓辺から、ただ静かに聞いていた。手の中には、生まれて初めて口にした、あの『オイルサーディン』とかいう料理の、最後の一切れが乗った木の皿がある。鼻腔の奥には、あの爽やかな『潮風の葉』の香りが、まだ、幻のように残っていた。

わしは、間違っていた。
その、あまりにも単純な事実を認めるのに、これほどの時間と、心の葛藤が必要だったとは。
わしら長老たちは、この島で起こる全ての理不尽を、「海の神の怒り」として、受け入れてきた。それは、我らの祖先が、この厳しい自然と共に生きていくために編み出した、一つの知恵であり、祈りの形だった。抗えぬものには、頭を垂れる。それが、我らの流儀だったのだ。
あの赤黒いカビが現れた時も、わしは、疑いもしなかった。我らの何かが、神の怒りに触れたのだ、と。だから、最も高価な真珠を捧げ、ただ、許しを乞うことしか、考えられなかった。

そこへ、あの異邦人…日向耕介が現れた。
彼が、あのカビを「目に見えない小さな生き物だ」と断言した時も、わしは、心のどこかで、彼を侮っていた。若者の、根拠のない思い上がりだと。神の御業を、人間の物差しで測ろうなど、あまりにも傲慢だと。
彼が、あのガラス瓶に、小魚と油を詰め込み始めた時も、それは、滑稽な儀式にしか見えなかった。

だが。
三日後、あの地獄のような貯蔵庫の中で、ただ一点、星のように輝いていた、あの瓶詰めの姿。
そして、わしの舌の上でとろけた、あの一切れの魚。
あれは、ただの料理ではなかった。わしが、生涯をかけて築き上げてきた、全ての常識と、信仰を、根底から覆す、あまりにも雄弁な、一つの**『真理』**だった。

海の神は、我らを呪ってなどいなかった。ただ、自然の理に従って、新しい生命(カビ)が生まれただけ。
そして、その脅威から我らを救ったのは、神への祈りではなかった。あの男が持つ、**『知識』**という名の、全く新しい神の姿だったのだ。
熱で、見えぬ敵を滅し、真空で、その侵入を拒む。
それは、我らが知るどんな魔法よりも、確実で、そして、力強い奇跡だった。

宴の輪の中で、あの男は、神のように振る舞うでもなく、ただ、穏やかな笑顔で、島の女たちに、瓶詰めの作り方を教えている。惜しげもなく、その、神の知恵を、我ら未開の民に、分け与えている。
彼は、我らに、ただ魚を与えるのではない。**魚を獲るための、新しい「網」の作り方**を、教えてくれているのだ。
日持ちのしなかった雑魚が、長期保存できる交易品へと変わる。それは、この島が、これまでの何百年よりも、豊かになれる可能性を、秘めているということ。
災いは、呪いではなかった。我らが、新しい時代へと漕ぎ出すための、神が与えた、荒波の試練だったのかもしれぬ。

わしは、手の中の、最後の一切れを、そっと口に運んだ。
滋味あふれる油が、乾いた喉を、優しく潤していく。
…美味い。
わしは、静かに立ち上がると、家の隅に置いてあった、儀式用の、古びた真珠の箱を、戸棚の奥深くへと仕舞い込んだ。
そして、代わりに、一枚の、新しい羊皮紙を取り出す。
明日、あの若き賢者に、教えを乞わねばならぬ。
この島が、新しい神…「知恵」という名の神と共に、未来へと歩んでいくための、その、最初の航海図を、描いてもらうために。

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