異世界ほのぼのクッキングロード ~元フードコーディネーター、不思議な食材で今日も一皿~

はぶさん

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第64話 幕間・事務員のほろ苦い朝

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夜。冒険者ギルドの窓から、月明かりが差し込んでいる。わたくし、フィリップは、一人、自分の机に向かっていた。数日前まで、絶望的な高さの塔を築いていた書類の山は、今、ようやく、その半分ほどの高さになっている。街が寝静まったこのギルドの中で、インクの香りと、羊皮紙が擦れる音だけが、わたくしの、新しい相棒だった。

とん、と、わたくしは、最後の一枚に、承認の印を押した。インクが、ほんの少しだけ、滲んだ。
数日前のわたくしであったなら、きっと、絶叫して、その書類を破り捨てていただろう。そして、完璧な一枚を求めて、また、終わりのない作業に、心をすり減らしていたに違いない。
だが、今のわたくしは、その、小さなインクの滲みを、ただ、静かに見つめていた。まるで、愛おしい傷跡を眺めるかのように。

王都の書記官養成学校で、わたくしは、常に、首席だった。一点のシミも、一文字の間違いも許さない。完璧であること。それだけが、価値であり、正義だと、信じて疑わなかった。
だが、この港町に赴任してきて、わたくしは、初めて、本当の「絶望」を知った。書類は、生き物だ。冒険者たちの汗と、血と、人生が、そこには詰まっている。それを処理するということは、完璧な判子を押すことではない。彼らの人生を、未来へと繋ぐことなのだと。その、あまりにも重い責任の前に、わたくしの、薄っぺらな完璧主義は、完全に、機能を停止した。失敗が、怖かった。わたくしの、たった一つのミスが、誰かの人生を狂わせてしまうかもしれない。そう思うと、指が、震えて、動かなくなった。

あの日、あの料理人…日向耕介殿に、半ば強引に、あの宿屋へと連れて行かれた時も、わたくしは、心のどこかで、彼を軽蔑していた。料理人風情が、わたくしの苦悩の、何が分かると。

だが、彼が語ってくれた、『タルト・タタン』の物語。
失敗から生まれた、傑作の物語。
そして、目の前に差し出された、あの、美しくも、どこか不完全な、一皿の菓子。
わたくしは、今でも、あの味を、忘れることができない。

一口、食べた。
まず、舌を包み込んだのは、リンゴの、とろけるような甘みと、バターの、豊潤な香り。パイ生地の、サクサクとした、軽やかな食感。完璧な、幸福の味。
だが、その甘さの、すぐ後から。追いかけるように、舌の奥を、心地よく刺激する、**深く、そして、気品のある『ほろ苦さ』**が、やってきたのだ。
わたくしが、人生で、最も避け、最も恐れていたはずの、「失敗」の味。
しかし、それは、決して不快ではなかった。それどころか、そのほろ苦さこそが、リンゴの甘さを、ただの甘ったるいだけの味から、忘れられない、複雑で、奥行きのある「物語」へと、昇華させていることに、わたくしは、気づいてしまったのだ。

あの料理人は、知っていたのだ。
本当の人生の味わいは、甘さだけでできているのではない、と。
時には、ほろ苦い失敗の味が混じり合うからこそ、人生は、より深く、より愛おしいものになるのだ、と。

わたくしは、インクが少しだけ滲んだ、その書類を、そっと、「承認済み」の箱へと入れた。
完璧ではないかもしれない。だが、これで、一人の冒険者が、明日、新しい冒険へと、旅立つことができる。
それで、いいのだ。それでこそ、わたくしの仕事の、本当の価値なのだ。

わたくしは、窓を開け、港町の、涼やかな夜気を取り込んだ。
潮の香りに混じって、どこかの家の厨房から漂ってくる、温かいスープの匂いがした。
この街は、なんて、不完全で、そして、なんて、美しいのだろう。

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