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第三章:古寺の残響
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1
帝都の喧騒が遠のき、杉の巨木が立ち並ぶ山道に入ると、空気は一変して肌を刺すような冷気を帯びた。
晴臣は、白夜の肩に掴まりながら、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。その顔色は、雪のように蒼白だ。
「……すまない、白夜。せっかくの休みなのに」
「黙れ。貴様のその弱り切った霊力のせいで、我の毛並みまで艶を失っているのだ。……まったく、救いようのない馬鹿だ」
白夜は毒づきながらも、晴臣が転ばぬよう、その腰をがっしりと支えている。
強引な浄化術の反動は、想像以上に深刻だった。晴臣の霊脈は、無理やり高電圧を通した回路のように焼き切れ、自浄作用を失っていた。このまま帝都の淀んだ空気の中にいれば、霊的な「毒」に侵され、命を落としかねない。
二人が目指しているのは、帝都北方の山中にひっそりと佇む『無縁寺(むえんじ)』。
そこは、かつて晴臣と厳刻が共に修行に励んだ師、安倍清頼(あべの きよより)が晩年を過ごした場所であった。
「……あそこだ。まだ、あったんだね」
木々の切れ間に、苔むした茅葺き屋根が見えた。
かつては名門・安倍家の隠居所として機能していたが、清頼が亡くなってからは管理する者もなく、今ではすっかり森に飲み込まれようとしている。
二人が境内に入ると、どこからか「カラン、コロン」と乾いた音が聞こえてきた。
風に揺れる古い風鈴の音。
だが、その音色に混じって、晴臣の耳には別の「声」が届いた。
(……助けて……熱い……消えちゃうよ……)
晴臣は立ち止まり、胸を押さえた。
「白夜、聞こえる? 誰かが……呼んでる」
「……ふん。これだから霊感の強い雑魚は困る。我には風の音にしか聞こえぬ。……だが、妙な霊気の揺らぎはあるな。どうやらここは、ただの空き家ではないらしい」
2
寺の本堂は、埃っぽくもどこか厳かな空気に満ちていた。
晴臣は奥の小部屋に布団を敷き、ようやく横になった。白夜は勝手知ったる様子で、どこからか拾ってきた枯れ枝で小さな焚き火を作り、晴臣の冷え切った体を温める。
「少し休め。貴様が死ねば、我の契約も無に帰す。それは寝覚めが悪い」
「ありがとう、白夜……」
晴臣が微睡(まどろ)みの中に落ちていった頃。
白夜は静かに立ち上がり、本堂の裏手へと向かった。
彼の銀色の瞳は、闇を透かし、壁に刻まれた微かな「違和感」を捉えていた。
「……隠し戸か。安倍の老いぼれめ、死してなお、我ら妖を退屈させぬ工夫をしているらしい」
白夜が壁に手をかざすと、古い木材が意思を持ったように動き、地下へと続く石段が現れた。
そこから漏れ出していたのは、清浄でありながら、どこか「痛み」を孕んだ強力な霊気だった。
石段を下りた先には、石造りの広大な空間が広がっていた。
そこには、かつて陰陽寮が「危険すぎて封印した」とされる古の文献や、不気味な形をした法具が整然と並べられていた。いわば、安倍家の『闇の書庫』である。
白夜はその中央に置かれた、一つの石棺に目を留めた。
石棺の蓋には、晴臣の師・清頼の筆跡で、こう刻まれていた。
『力に溺れる者は、鏡を見て絶望する。心に添う者は、鏡の中に明日を見る』
「鏡……?」
白夜が手を伸ばそうとしたその時、背後の闇から鋭い殺気が放たれた。
「——そこまでだ、妖狐。安倍の聖域を、その汚れた足で踏み荒らすな」
現れたのは、本来ここにいるはずのない男——九条厳刻だった。
3
厳刻の瞳には、深い隈ができていた。
彼は独断で陰陽寮の内部調査を進める中で、この古寺に行き着いたのだ。
「九条の小僧。……貴様、なぜここへ? 晴臣を捕らえに来たわけではあるまい」
「……寮の記録から、越後屋を襲った式神の『核』が、かつてここで保管されていた霊物の一部であることが判明した。……師匠が残した『負の遺産』が、何者かに盗み出されている」
厳刻は、白夜を無視するように石棺に近づいた。
「……晴臣はどうした。あやつもここにいるのか」
「奥で寝ている。貴様の術でボロボロになった身体を、必死に癒やしているところだ。……殺したいなら今のうちだぞ」
白夜の挑発に、厳刻は苦く唇を噛んだ。
「……あやつを殺す理由など、今の私にはない。……それよりも白夜。貴様はこの石棺の中に何が入っているか知っているか」
「知らぬ。だが、ここから漏れる霊気……これは晴臣の術式に似ている。ただ、遥かに純度が高く、そして——残酷だ」
厳刻は、石棺に手をかけた。
「……これは『浄界の鏡』。触れた者の霊力を増幅し、周囲の不浄を一気に消し飛ばす法具だ。だが、代償がある。……使用者の『感情』を燃料とし、心を空っぽにするまで吸い尽くす。……師匠が、晴臣にだけは決して教えなかった禁忌だ」
その時、地下室に甲高い笑い声が響いた。
「ヒヒ、ヒ……。さすがは九条家の若き天才。よくお調べで」
闇の奥から、複数の影が這い出してきた。
それは陰陽寮の官衣を着た者たちだったが、その顔はすでに人間のものではなかった。皮膚は土気色に変色し、瞳は濁った赤に染まっている。
「裏切り者か……。寮の長老、柳生斎(りゅうせいさい)の手の者だな」
厳刻が鋼の鎖を引き抜く。
「鏡を……鏡を返してもらおう。帝都を真に清浄な地とするためには、その力が不可欠なのだ……!」
妖と化した陰陽師たちが、一斉に襲いかかる。
4
地下での激闘の振動は、地上で眠る晴臣にも届いていた。
「……う、ん……。白夜……?」
目を開けると、焚き火は消えかかり、辺りには不穏な霊気が渦巻いていた。
晴臣はふらつく足取りで本堂を抜け、裏手の地下への入り口を見つける。
(戦ってる……白夜と、九条くんが……!)
晴臣は地下へ駆け下りた。
そこでは、白夜の銀華と厳刻の鋼の鎖が、無数の「半妖」たちと激しくぶつかり合っていた。
「……はぁ、はぁ……九条くん! 危ない!」
晴臣は、背後から迫る半妖に気づき、残された僅かな霊力を振り絞った。
「『萌黄符:息吹』!」
石の床から強靭な蔦が伸び、半妖の動きを止める。
だが、その代償に晴臣は激しく吐血し、膝をついた。
「晴臣! 来るなと言っただろう!」
白夜が叫ぶ。その隙を突き、リーダー格の半妖が石棺を破壊した。
爆辞と共に、石棺の中から一つの「鏡」が浮かび上がった。
それは太陽のように眩く、同時にブラックホールのようにすべてを吸い込む、美しくも恐ろしい法具だった。
「鏡が……目覚めた……!」
半妖たちが鏡を奪おうと手を伸ばすが、鏡が放つ「絶対的な浄化の波」に触れた瞬間、彼らは叫び声を上げながら霧散していった。
悪意を持つ者、歪んだ者にとって、その光は毒でしかない。
だが、光の波動は止まらない。
このままでは、妖である白夜はもちろん、霊力が枯渇し防壁を張れない晴臣も、光に焼かれて消滅してしまう。
「……白夜、逃げて……!」
「馬鹿を言え! 貴様を置いてどこへ行く!」
白夜が晴臣を庇うように抱きしめる。
銀の髪が光に焼かれ、白夜の身体が透明に透け始める。
「……っ……九条くん、鏡を止めて! あれは……悲鳴を上げてる! 誰かに使われるのが、嫌だって言ってるんだ!」
「……止め方は一つしかない」
厳刻が、光の奔流に立ち向かいながら歩を進める。
「誰かがこの鏡を『所有』し、その暴走を自分の心で抑え込むしかない。……だが、それは心を差し出すということだ。……私が、やる」
「ダメだよ、九条くん! 君は帝都を守る人だ、心を失っちゃいけない!」
晴臣は、白夜の腕を振り解き、光の渦の真っ只中へと這い進んだ。
5
「晴臣、やめろ!」
白夜の叫びが響くが、晴臣は止まらなかった。
彼は鏡に触れた。
指先が焼けるような痛みに襲われる。脳内に、鏡が数百年かけて蓄積してきた「浄化されなかった怨念」と「浄化するために失われた心」の断片が流れ込む。
(……痛いよね。……ずっと、一人で戦ってきたんだね……)
晴臣は鏡を抱きしめた。
それは術の行使ではなく、ただの抱擁だった。
彼自身の霊力は空っぽだったが、その代わりに、彼がこれまでの人生で培ってきた「共感」という名の暖かな情熱が、鏡の冷徹な光を包み込んでいった。
鏡の光が、鋭い「白」から、晴臣の符のような「淡い色彩」へと変わっていく。
暴走していた霊波が凪ぎ、鏡は静かに晴臣の手の中に収まった。
地下室に、静寂が戻った。
「……はぁ、はぁ……。……九条、くん……止まったよ……」
晴臣は微笑み、そのまま意識を失った。
6
数時間後。
地上の本堂では、焚き火が再び勢いよく燃えていた。
晴臣は白夜の膝枕で眠っている。
その隣で、厳刻は鏡の破片を布で拭いながら、複雑な表情で晴臣を見ていた。
「……鏡に心を喰われなかった人間など、初めて見た」
「……当たり前だ。こいつの心は、喰らおうとしても底がない。空っぽではなく、無限に広いだけだ」
白夜は晴臣の髪を愛おしそうになでる。
「……白夜。一つ聞きたい」
厳刻が、焚き火を見つめたまま呟いた。
「三年前、なぜ師匠はこの男に鏡を託さず、私にだけその存在を教えたのだと思うか」
「……清頼のジジイは、晴臣を愛していたからだ。……鏡を使えば、晴臣は間違いなく英雄になれた。だが、同時に人を救うたびに、こいつの『優しさ』は削り取られ、ただの機械になっていただろう」
白夜の瞳に、寂しげな色がよぎる。
「ジジイは、この男に……ただの『安倍晴臣』として生きてほしかったのだ。……例え、落ちこぼれと呼ばれようともな」
厳刻は黙って立ち上がり、鏡を晴臣の枕元に置いた。
「……今回の件、寮には報告しない。鏡は、この寺と共に消えたことにする。……安倍晴臣、お前には負けた。……だが、法を捨てるつもりはない」
厳刻は、夜の闇へと消えていった。
一人残された白夜は、眠る晴臣の耳元で囁いた。
「……晴臣。貴様が選んだこの道は、修羅の道だ。……だが、貴様が果てるその時まで、この我が隣で退屈を凌いでやろう」
山中の古寺に、再び静かな夜が訪れた。
だが、彼らの手元にある『浄界の鏡』は、微かに、新たな脅威の訪れを告げるように、鈍く光っていた。
帝都の喧騒が遠のき、杉の巨木が立ち並ぶ山道に入ると、空気は一変して肌を刺すような冷気を帯びた。
晴臣は、白夜の肩に掴まりながら、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。その顔色は、雪のように蒼白だ。
「……すまない、白夜。せっかくの休みなのに」
「黙れ。貴様のその弱り切った霊力のせいで、我の毛並みまで艶を失っているのだ。……まったく、救いようのない馬鹿だ」
白夜は毒づきながらも、晴臣が転ばぬよう、その腰をがっしりと支えている。
強引な浄化術の反動は、想像以上に深刻だった。晴臣の霊脈は、無理やり高電圧を通した回路のように焼き切れ、自浄作用を失っていた。このまま帝都の淀んだ空気の中にいれば、霊的な「毒」に侵され、命を落としかねない。
二人が目指しているのは、帝都北方の山中にひっそりと佇む『無縁寺(むえんじ)』。
そこは、かつて晴臣と厳刻が共に修行に励んだ師、安倍清頼(あべの きよより)が晩年を過ごした場所であった。
「……あそこだ。まだ、あったんだね」
木々の切れ間に、苔むした茅葺き屋根が見えた。
かつては名門・安倍家の隠居所として機能していたが、清頼が亡くなってからは管理する者もなく、今ではすっかり森に飲み込まれようとしている。
二人が境内に入ると、どこからか「カラン、コロン」と乾いた音が聞こえてきた。
風に揺れる古い風鈴の音。
だが、その音色に混じって、晴臣の耳には別の「声」が届いた。
(……助けて……熱い……消えちゃうよ……)
晴臣は立ち止まり、胸を押さえた。
「白夜、聞こえる? 誰かが……呼んでる」
「……ふん。これだから霊感の強い雑魚は困る。我には風の音にしか聞こえぬ。……だが、妙な霊気の揺らぎはあるな。どうやらここは、ただの空き家ではないらしい」
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寺の本堂は、埃っぽくもどこか厳かな空気に満ちていた。
晴臣は奥の小部屋に布団を敷き、ようやく横になった。白夜は勝手知ったる様子で、どこからか拾ってきた枯れ枝で小さな焚き火を作り、晴臣の冷え切った体を温める。
「少し休め。貴様が死ねば、我の契約も無に帰す。それは寝覚めが悪い」
「ありがとう、白夜……」
晴臣が微睡(まどろ)みの中に落ちていった頃。
白夜は静かに立ち上がり、本堂の裏手へと向かった。
彼の銀色の瞳は、闇を透かし、壁に刻まれた微かな「違和感」を捉えていた。
「……隠し戸か。安倍の老いぼれめ、死してなお、我ら妖を退屈させぬ工夫をしているらしい」
白夜が壁に手をかざすと、古い木材が意思を持ったように動き、地下へと続く石段が現れた。
そこから漏れ出していたのは、清浄でありながら、どこか「痛み」を孕んだ強力な霊気だった。
石段を下りた先には、石造りの広大な空間が広がっていた。
そこには、かつて陰陽寮が「危険すぎて封印した」とされる古の文献や、不気味な形をした法具が整然と並べられていた。いわば、安倍家の『闇の書庫』である。
白夜はその中央に置かれた、一つの石棺に目を留めた。
石棺の蓋には、晴臣の師・清頼の筆跡で、こう刻まれていた。
『力に溺れる者は、鏡を見て絶望する。心に添う者は、鏡の中に明日を見る』
「鏡……?」
白夜が手を伸ばそうとしたその時、背後の闇から鋭い殺気が放たれた。
「——そこまでだ、妖狐。安倍の聖域を、その汚れた足で踏み荒らすな」
現れたのは、本来ここにいるはずのない男——九条厳刻だった。
3
厳刻の瞳には、深い隈ができていた。
彼は独断で陰陽寮の内部調査を進める中で、この古寺に行き着いたのだ。
「九条の小僧。……貴様、なぜここへ? 晴臣を捕らえに来たわけではあるまい」
「……寮の記録から、越後屋を襲った式神の『核』が、かつてここで保管されていた霊物の一部であることが判明した。……師匠が残した『負の遺産』が、何者かに盗み出されている」
厳刻は、白夜を無視するように石棺に近づいた。
「……晴臣はどうした。あやつもここにいるのか」
「奥で寝ている。貴様の術でボロボロになった身体を、必死に癒やしているところだ。……殺したいなら今のうちだぞ」
白夜の挑発に、厳刻は苦く唇を噛んだ。
「……あやつを殺す理由など、今の私にはない。……それよりも白夜。貴様はこの石棺の中に何が入っているか知っているか」
「知らぬ。だが、ここから漏れる霊気……これは晴臣の術式に似ている。ただ、遥かに純度が高く、そして——残酷だ」
厳刻は、石棺に手をかけた。
「……これは『浄界の鏡』。触れた者の霊力を増幅し、周囲の不浄を一気に消し飛ばす法具だ。だが、代償がある。……使用者の『感情』を燃料とし、心を空っぽにするまで吸い尽くす。……師匠が、晴臣にだけは決して教えなかった禁忌だ」
その時、地下室に甲高い笑い声が響いた。
「ヒヒ、ヒ……。さすがは九条家の若き天才。よくお調べで」
闇の奥から、複数の影が這い出してきた。
それは陰陽寮の官衣を着た者たちだったが、その顔はすでに人間のものではなかった。皮膚は土気色に変色し、瞳は濁った赤に染まっている。
「裏切り者か……。寮の長老、柳生斎(りゅうせいさい)の手の者だな」
厳刻が鋼の鎖を引き抜く。
「鏡を……鏡を返してもらおう。帝都を真に清浄な地とするためには、その力が不可欠なのだ……!」
妖と化した陰陽師たちが、一斉に襲いかかる。
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地下での激闘の振動は、地上で眠る晴臣にも届いていた。
「……う、ん……。白夜……?」
目を開けると、焚き火は消えかかり、辺りには不穏な霊気が渦巻いていた。
晴臣はふらつく足取りで本堂を抜け、裏手の地下への入り口を見つける。
(戦ってる……白夜と、九条くんが……!)
晴臣は地下へ駆け下りた。
そこでは、白夜の銀華と厳刻の鋼の鎖が、無数の「半妖」たちと激しくぶつかり合っていた。
「……はぁ、はぁ……九条くん! 危ない!」
晴臣は、背後から迫る半妖に気づき、残された僅かな霊力を振り絞った。
「『萌黄符:息吹』!」
石の床から強靭な蔦が伸び、半妖の動きを止める。
だが、その代償に晴臣は激しく吐血し、膝をついた。
「晴臣! 来るなと言っただろう!」
白夜が叫ぶ。その隙を突き、リーダー格の半妖が石棺を破壊した。
爆辞と共に、石棺の中から一つの「鏡」が浮かび上がった。
それは太陽のように眩く、同時にブラックホールのようにすべてを吸い込む、美しくも恐ろしい法具だった。
「鏡が……目覚めた……!」
半妖たちが鏡を奪おうと手を伸ばすが、鏡が放つ「絶対的な浄化の波」に触れた瞬間、彼らは叫び声を上げながら霧散していった。
悪意を持つ者、歪んだ者にとって、その光は毒でしかない。
だが、光の波動は止まらない。
このままでは、妖である白夜はもちろん、霊力が枯渇し防壁を張れない晴臣も、光に焼かれて消滅してしまう。
「……白夜、逃げて……!」
「馬鹿を言え! 貴様を置いてどこへ行く!」
白夜が晴臣を庇うように抱きしめる。
銀の髪が光に焼かれ、白夜の身体が透明に透け始める。
「……っ……九条くん、鏡を止めて! あれは……悲鳴を上げてる! 誰かに使われるのが、嫌だって言ってるんだ!」
「……止め方は一つしかない」
厳刻が、光の奔流に立ち向かいながら歩を進める。
「誰かがこの鏡を『所有』し、その暴走を自分の心で抑え込むしかない。……だが、それは心を差し出すということだ。……私が、やる」
「ダメだよ、九条くん! 君は帝都を守る人だ、心を失っちゃいけない!」
晴臣は、白夜の腕を振り解き、光の渦の真っ只中へと這い進んだ。
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「晴臣、やめろ!」
白夜の叫びが響くが、晴臣は止まらなかった。
彼は鏡に触れた。
指先が焼けるような痛みに襲われる。脳内に、鏡が数百年かけて蓄積してきた「浄化されなかった怨念」と「浄化するために失われた心」の断片が流れ込む。
(……痛いよね。……ずっと、一人で戦ってきたんだね……)
晴臣は鏡を抱きしめた。
それは術の行使ではなく、ただの抱擁だった。
彼自身の霊力は空っぽだったが、その代わりに、彼がこれまでの人生で培ってきた「共感」という名の暖かな情熱が、鏡の冷徹な光を包み込んでいった。
鏡の光が、鋭い「白」から、晴臣の符のような「淡い色彩」へと変わっていく。
暴走していた霊波が凪ぎ、鏡は静かに晴臣の手の中に収まった。
地下室に、静寂が戻った。
「……はぁ、はぁ……。……九条、くん……止まったよ……」
晴臣は微笑み、そのまま意識を失った。
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数時間後。
地上の本堂では、焚き火が再び勢いよく燃えていた。
晴臣は白夜の膝枕で眠っている。
その隣で、厳刻は鏡の破片を布で拭いながら、複雑な表情で晴臣を見ていた。
「……鏡に心を喰われなかった人間など、初めて見た」
「……当たり前だ。こいつの心は、喰らおうとしても底がない。空っぽではなく、無限に広いだけだ」
白夜は晴臣の髪を愛おしそうになでる。
「……白夜。一つ聞きたい」
厳刻が、焚き火を見つめたまま呟いた。
「三年前、なぜ師匠はこの男に鏡を託さず、私にだけその存在を教えたのだと思うか」
「……清頼のジジイは、晴臣を愛していたからだ。……鏡を使えば、晴臣は間違いなく英雄になれた。だが、同時に人を救うたびに、こいつの『優しさ』は削り取られ、ただの機械になっていただろう」
白夜の瞳に、寂しげな色がよぎる。
「ジジイは、この男に……ただの『安倍晴臣』として生きてほしかったのだ。……例え、落ちこぼれと呼ばれようともな」
厳刻は黙って立ち上がり、鏡を晴臣の枕元に置いた。
「……今回の件、寮には報告しない。鏡は、この寺と共に消えたことにする。……安倍晴臣、お前には負けた。……だが、法を捨てるつもりはない」
厳刻は、夜の闇へと消えていった。
一人残された白夜は、眠る晴臣の耳元で囁いた。
「……晴臣。貴様が選んだこの道は、修羅の道だ。……だが、貴様が果てるその時まで、この我が隣で退屈を凌いでやろう」
山中の古寺に、再び静かな夜が訪れた。
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