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第7話 最強の厄日と、彼女という名の守護霊
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同棲生活も数ヶ月が過ぎ、鈴木花の日常は、橘雅人がもたらす「非日常」に完全に浸食されていた。雅人が洗濯物を「清浄な気の風」で乾かそうとして生乾きの臭いを発生させたり、ルンバを「自動式神」と呼んで護符を貼り付けたりする光景にも、今や動じることはない。
しかし、その日は違った。
いつもなら花の些細な不運に「それは小人の霊の悪戯だ」と大騒ぎし、仰々しく塩をまく彼が、三日前から「お祓い」という言葉を一度も口にしていない。それどころか、窓の外をじっと見つめ、何かを待つように鋭く、冷たい気を放っているのだ。
「雅人、夕飯できたよ。今日は普通の、気の鎮まってない唐揚げ」
花が声をかけると、雅人はゆっくりと振り返った。その瞳には、今まで見たことのない深い憂いと、悲壮なまでの決意が宿っていた。
「花……。明日から数日間、実家の手伝いに行ってくる。山に籠もるので連絡は取れないが、心配しないでくれ」
「実家? 急だね。……雅人、隠し事してるでしょ」
雅人は一瞬だけ視線を逸らし、それから優しく花の頭を撫でた。その指先が、微かに震えているのを花は見逃さなかった。
「……君の『陽の気』を、少しだけ分けてもらえるか」
そう言って、彼は花を壊れ物を扱うように抱きしめた。その抱擁は、まるでお別れの挨拶のように冷たく、切なかった。
翌朝、目が覚めると隣に雅人の姿はなかった。
キッチンに行くと、テーブルの上に一枚の和紙が置かれていた。筆ペンで力強く書かれていたのは、一言。
『結界の外に出るな』
「……バカね。あんな震える手で頭を撫でておいて、はいそうですかって言うわけないじゃない」
花は雅人の「お祓い用ポシェット」から予備の清め塩——雅人が丹精込めて浄化した、彼にとっての最高傑作——を鷲掴みにすると、部屋に残る彼のかすかな気の残滓を頼りに、彼が向かったであろう橘家の禁足地へと走り出した。
山奥にある橘家の私有地。そこは、現代の日本とは思えないほど禍々しい空気に包まれていた。
空は日中だというのにどす黒い紫色に染まり、稲光のような気が地を這っている。雅人は一人、無数の黒い影——数百年に一度訪れるという、橘家が封印し続けてきた災厄の霊群——と対峙していた。
「急々如律令! 破ーーっ!」
雅人が放つ青白い光の一閃が黒い影を散らすが、敵は尽きることなく湧き出してくる。彼の羽織はボロボロに裂け、額からは血が流れていた。
「雅人!」
「花!? なぜここに! 来るなと言ったはずだ、ここは君のような常人が足を踏み入れていい場所ではない!」
雅人が叫ぶ。その動揺を突くように、巨大な影が鎌のような爪を振り上げ、雅人の背後に迫った。
「雅人のバカ! 余計な心配させないでよ!」
花は叫びながら、雅人から(無理やり)叩き込まれていた通りに、清め塩を思い切りぶちまけた。
「えいっ! お祓いお祓いお祓い!!」
花の投げた塩は、ただの物質ではなかった。
雅人と過ごした騒がしい日々、変な結界のせいでWi-Fiが切れた時の怒り、不器用な彼に作った料理の温かさ。それら全ての「日常の念」が、雅人の浄化した塩と反応し、爆発的な輝きを放った。
塩が触れた瞬間、巨大な影は「ギシャアア!」と断末魔を上げて霧散した。
「……花、君の塩は……いや、君の『気』は一体……」
「雅人! 私を置いて一人で格好つけるなんて、一万年早いんだから! 私がいないと、雅人は賞味期限切れの牛乳すら見分けられないでしょ! 私がいなきゃ、雅人は生きていけないんだから、勝手に死なないでよ!」
雅人は呆然とした後、ふっと、いつもの天然で美しい笑みを浮かべた。その瞳からは、先ほどまでの絶望が消えていた。
「……そうだな。私の日常は、君がいなければ成立しない。私の守るべきものは、この土地ではなく、君との時間だ」
雅人は花を引き寄せ、自らの背後に庇った。彼の全身から、これまでとは比較にならないほど力強く、黄金色の光が溢れ出す。
「橘家百代の先祖よ、見よ! これが私の、現代における最強の守護霊……愛する彼女だ!」
雅人が印を結ぶ。花の肩に置かれた彼の手から、熱いほどの力が流れ込んでくる。
「全ての穢れを、愛とともに祓う! 破っ!!」
一閃。
黄金の衝撃波が山全体を駆け抜け、紫色の雲を切り裂いた。黒い影たちは光に溶けるように消え去り、森には清浄な朝の光が差し込んだ。
「……終わったの?」
花が恐る恐る顔を出すと、雅人はそのまま崩れるように膝を突き、花の腰にしがみついた。
「花……怖かった。本当は、ものすごく怖かったんだ……。もう君に会えないかと思った……」
「……雅人。よく頑張ったね」
花は、いつもとは逆に、震える最強の陰陽師の背中を、子供をあやすように優しく叩いた。雅人の髪からは、まだうっすらと清め塩の匂いがしていた。
「でも、約束だよ。お祓いは当分禁止。明日からは普通のデート。いい?」
雅人は花の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「うむ。……だが、花。あの山の頂上に、『温泉を欲しがる猿の霊』が群れをなしている。放置すれば、里に降りてきて君の入浴を覗きに……」
「お・さ・る・は・い・い・の! 雅人のエッチ!」
二人は手を繋ぎ、朝日の中をゆっくりと下山していった。
雅人の背後では、透き通った姿の橘家の先祖霊たちが、「最近の嫁は気が強いのう」「だが、あのアホンダラを救うには丁度いい」と苦笑しながら消えていくのを、花だけが(なぜか少しだけ)感じ取っていた。
結局、雅人の「今日もお祓い」は止まらないだろう。
けれど、それを隣でツッコミながら笑い飛ばすのが、花の新しい、そして一番大切な「日常」だった。
しかし、その日は違った。
いつもなら花の些細な不運に「それは小人の霊の悪戯だ」と大騒ぎし、仰々しく塩をまく彼が、三日前から「お祓い」という言葉を一度も口にしていない。それどころか、窓の外をじっと見つめ、何かを待つように鋭く、冷たい気を放っているのだ。
「雅人、夕飯できたよ。今日は普通の、気の鎮まってない唐揚げ」
花が声をかけると、雅人はゆっくりと振り返った。その瞳には、今まで見たことのない深い憂いと、悲壮なまでの決意が宿っていた。
「花……。明日から数日間、実家の手伝いに行ってくる。山に籠もるので連絡は取れないが、心配しないでくれ」
「実家? 急だね。……雅人、隠し事してるでしょ」
雅人は一瞬だけ視線を逸らし、それから優しく花の頭を撫でた。その指先が、微かに震えているのを花は見逃さなかった。
「……君の『陽の気』を、少しだけ分けてもらえるか」
そう言って、彼は花を壊れ物を扱うように抱きしめた。その抱擁は、まるでお別れの挨拶のように冷たく、切なかった。
翌朝、目が覚めると隣に雅人の姿はなかった。
キッチンに行くと、テーブルの上に一枚の和紙が置かれていた。筆ペンで力強く書かれていたのは、一言。
『結界の外に出るな』
「……バカね。あんな震える手で頭を撫でておいて、はいそうですかって言うわけないじゃない」
花は雅人の「お祓い用ポシェット」から予備の清め塩——雅人が丹精込めて浄化した、彼にとっての最高傑作——を鷲掴みにすると、部屋に残る彼のかすかな気の残滓を頼りに、彼が向かったであろう橘家の禁足地へと走り出した。
山奥にある橘家の私有地。そこは、現代の日本とは思えないほど禍々しい空気に包まれていた。
空は日中だというのにどす黒い紫色に染まり、稲光のような気が地を這っている。雅人は一人、無数の黒い影——数百年に一度訪れるという、橘家が封印し続けてきた災厄の霊群——と対峙していた。
「急々如律令! 破ーーっ!」
雅人が放つ青白い光の一閃が黒い影を散らすが、敵は尽きることなく湧き出してくる。彼の羽織はボロボロに裂け、額からは血が流れていた。
「雅人!」
「花!? なぜここに! 来るなと言ったはずだ、ここは君のような常人が足を踏み入れていい場所ではない!」
雅人が叫ぶ。その動揺を突くように、巨大な影が鎌のような爪を振り上げ、雅人の背後に迫った。
「雅人のバカ! 余計な心配させないでよ!」
花は叫びながら、雅人から(無理やり)叩き込まれていた通りに、清め塩を思い切りぶちまけた。
「えいっ! お祓いお祓いお祓い!!」
花の投げた塩は、ただの物質ではなかった。
雅人と過ごした騒がしい日々、変な結界のせいでWi-Fiが切れた時の怒り、不器用な彼に作った料理の温かさ。それら全ての「日常の念」が、雅人の浄化した塩と反応し、爆発的な輝きを放った。
塩が触れた瞬間、巨大な影は「ギシャアア!」と断末魔を上げて霧散した。
「……花、君の塩は……いや、君の『気』は一体……」
「雅人! 私を置いて一人で格好つけるなんて、一万年早いんだから! 私がいないと、雅人は賞味期限切れの牛乳すら見分けられないでしょ! 私がいなきゃ、雅人は生きていけないんだから、勝手に死なないでよ!」
雅人は呆然とした後、ふっと、いつもの天然で美しい笑みを浮かべた。その瞳からは、先ほどまでの絶望が消えていた。
「……そうだな。私の日常は、君がいなければ成立しない。私の守るべきものは、この土地ではなく、君との時間だ」
雅人は花を引き寄せ、自らの背後に庇った。彼の全身から、これまでとは比較にならないほど力強く、黄金色の光が溢れ出す。
「橘家百代の先祖よ、見よ! これが私の、現代における最強の守護霊……愛する彼女だ!」
雅人が印を結ぶ。花の肩に置かれた彼の手から、熱いほどの力が流れ込んでくる。
「全ての穢れを、愛とともに祓う! 破っ!!」
一閃。
黄金の衝撃波が山全体を駆け抜け、紫色の雲を切り裂いた。黒い影たちは光に溶けるように消え去り、森には清浄な朝の光が差し込んだ。
「……終わったの?」
花が恐る恐る顔を出すと、雅人はそのまま崩れるように膝を突き、花の腰にしがみついた。
「花……怖かった。本当は、ものすごく怖かったんだ……。もう君に会えないかと思った……」
「……雅人。よく頑張ったね」
花は、いつもとは逆に、震える最強の陰陽師の背中を、子供をあやすように優しく叩いた。雅人の髪からは、まだうっすらと清め塩の匂いがしていた。
「でも、約束だよ。お祓いは当分禁止。明日からは普通のデート。いい?」
雅人は花の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「うむ。……だが、花。あの山の頂上に、『温泉を欲しがる猿の霊』が群れをなしている。放置すれば、里に降りてきて君の入浴を覗きに……」
「お・さ・る・は・い・い・の! 雅人のエッチ!」
二人は手を繋ぎ、朝日の中をゆっくりと下山していった。
雅人の背後では、透き通った姿の橘家の先祖霊たちが、「最近の嫁は気が強いのう」「だが、あのアホンダラを救うには丁度いい」と苦笑しながら消えていくのを、花だけが(なぜか少しだけ)感じ取っていた。
結局、雅人の「今日もお祓い」は止まらないだろう。
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