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プロローグ:後悔の残滓
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雨音は、遠い過去から流れ着いた時間の残り香のようだった。
東京の、名の知れない商店街の裏路地。錆びた看板が並ぶ寂れた一角に、その店はひっそりと佇んでいる。表札には『落とし物預かり所・巡星(めぐりぼし)』と、古めかしい毛筆体で記されていた。その隣には、煉瓦造りの素朴な外観を持つ喫茶店が併設されている。
天原 暦(あまはら こよみ)は、レインコートのフードを深く被り、預かり所の引き戸の前に立ち尽くした。
つい二週間前まで、暦は大手予備校で生徒たちを叱咤激励する、現代文の論理派講師だった。生徒たちの「あの時、もっと頑張っていれば」という後悔の言葉を聞くたび、心の中で反論していた。――後悔なんて、意味のない感情だ。過去の選択を悔やむより、未来の行動を導け。
しかし、祖父である先代の店主、善治が急逝したことで、すべてが変わった。
「暦。この『巡星』は、お前の感性こそが必要だ」
遺言にそうあった。暦は、安定した生活と、自分を強く支えていた「論理」という杖を置き、この場所を継ぐことになったのだ。
軋む引き戸を開けて中に入る。土間を上がり、廊下を進むと、古民家特有の、木と土壁の落ち着いた匂いがした。突き当りの部屋が、祖父が使っていた預かり所兼書斎だ。
机の上には、一冊の古い手帳と、分厚い冊子が残されていた。
「これね、おじいちゃんの秘密のしおりだよ。開けてみなよ」
突然、背後から声をかけられ、暦はビクリと肩を震わせた。振り返ると、そこには幼馴染の時坂 湊(ときさか みなと)が立っていた。隣の喫茶店「銀の羅針盤」のマスターだ。
「湊……驚かせないでよ。いつからそこに?」
「ちょうど今。君が来るのを待ってたんだ。マスターとして、新人オーナーの初出勤をチェックしないとね」
湊は穏やかな笑みを浮かべ、手に持ったマグカップを差し出した。中には、苦みが少なく、深煎りの香りが立つブラックコーヒーが入っている。暦の好みをよく知っている。
「ありがとう。……このしおりって?」
暦が手帳を開くと、祖父の几帳面な字で『巡星のしおり』と書かれていた。
一、ここには、この世の誰かが「もう一度戻りたいと強く願った時と場所」に関連する品が届く。
一、その品は、持ち主の「後悔の念」を帯びて、時空を超えてこの預かり所に流れ着く。
一、預かり所係の役目は、品に残された痕跡と感情から、持ち主が抱える後悔の核心を推理し、品を返すこと。
一、落とし物は、過去を変える手段ではない。過去を受け入れ、未来を照らすための星になるための道標である。
暦は思わず息を飲んだ。
「……何これ、ファンタジー小説?」
「おじいちゃんはいつも言ってたよ。ここは、誰かの人生の『もしも』を預かる場所だって。そして、君にはその『もしも』を感じ取る力がある、ってね」
湊は、暦が予備校を辞めたことを一切責めなかった。
ただ、優しく見つめている。
「私に、そんな力なんて」
暦は自嘲気味に笑った。彼女は、他人の感情を論理的に分析することはできても、それに呑み込まれまいと常に一線を引いて生きてきたのだ。
その時だった。
『チリン、チリン』
店の奥の扉に設置された古びたベルが、一度だけ、乾いた音を立てた。外からではなく、扉の内側から、微かに鳴り響いた音。
暦と湊は顔を見合わせた。
「ああ、届いたみたいだ」
湊が静かに言った。
扉の足元には、誰が置いたのか、配達伝票も差出人もない、使い古された木製の箱が置いてある。外観は古いが、表面は丁寧に磨かれていた。
暦は緊張しながら箱を開けた。
中に納まっていたのは、古い二眼レフカメラだった。レンズには薄くヒビが入っている。外側は真鍮と革で覆われ、製造から何十年も経っていることがわかる。
暦はカメラに手を触れた。その瞬間、彼女の脳裏に、強烈な感覚が流れ込んできた。
塩の香り。潮風。湿った砂。そして、――焦燥。
まるで、25年前の真夏の海岸に、今、立たされているかのようだった。手のひらを通してカメラから伝わる熱は、まるで持ち主の燃えるような後悔の念が、今も閉じ込められているかのようだ。
暦は思わず手を引っ込めた。
「これが、落とし物……」
湊は心配そうに暦を覗き込んだ。
「大丈夫か、暦?顔色が悪い」
「……このカメラ、すごく熱いの。誰かの、すごく強い思いが、ここにある。私、本当にこの感情を読み解いて、持ち主を見つけられるのかな」
暦は不安に駆られながらも、再びカメラを手に取った。冷たい論理ではなく、温かい共感を信じて、一歩を踏み出す。
「このカメラに残された感情が、持ち主が『やり直したい』と願った時の、最後のシャッターチャンスだとしたら。私はその時と場所を、必ず突き止めなくちゃいけない」
暦はそう決意し、ヒビの入ったカメラのレンズを、真剣に見つめ直した。
東京の、名の知れない商店街の裏路地。錆びた看板が並ぶ寂れた一角に、その店はひっそりと佇んでいる。表札には『落とし物預かり所・巡星(めぐりぼし)』と、古めかしい毛筆体で記されていた。その隣には、煉瓦造りの素朴な外観を持つ喫茶店が併設されている。
天原 暦(あまはら こよみ)は、レインコートのフードを深く被り、預かり所の引き戸の前に立ち尽くした。
つい二週間前まで、暦は大手予備校で生徒たちを叱咤激励する、現代文の論理派講師だった。生徒たちの「あの時、もっと頑張っていれば」という後悔の言葉を聞くたび、心の中で反論していた。――後悔なんて、意味のない感情だ。過去の選択を悔やむより、未来の行動を導け。
しかし、祖父である先代の店主、善治が急逝したことで、すべてが変わった。
「暦。この『巡星』は、お前の感性こそが必要だ」
遺言にそうあった。暦は、安定した生活と、自分を強く支えていた「論理」という杖を置き、この場所を継ぐことになったのだ。
軋む引き戸を開けて中に入る。土間を上がり、廊下を進むと、古民家特有の、木と土壁の落ち着いた匂いがした。突き当りの部屋が、祖父が使っていた預かり所兼書斎だ。
机の上には、一冊の古い手帳と、分厚い冊子が残されていた。
「これね、おじいちゃんの秘密のしおりだよ。開けてみなよ」
突然、背後から声をかけられ、暦はビクリと肩を震わせた。振り返ると、そこには幼馴染の時坂 湊(ときさか みなと)が立っていた。隣の喫茶店「銀の羅針盤」のマスターだ。
「湊……驚かせないでよ。いつからそこに?」
「ちょうど今。君が来るのを待ってたんだ。マスターとして、新人オーナーの初出勤をチェックしないとね」
湊は穏やかな笑みを浮かべ、手に持ったマグカップを差し出した。中には、苦みが少なく、深煎りの香りが立つブラックコーヒーが入っている。暦の好みをよく知っている。
「ありがとう。……このしおりって?」
暦が手帳を開くと、祖父の几帳面な字で『巡星のしおり』と書かれていた。
一、ここには、この世の誰かが「もう一度戻りたいと強く願った時と場所」に関連する品が届く。
一、その品は、持ち主の「後悔の念」を帯びて、時空を超えてこの預かり所に流れ着く。
一、預かり所係の役目は、品に残された痕跡と感情から、持ち主が抱える後悔の核心を推理し、品を返すこと。
一、落とし物は、過去を変える手段ではない。過去を受け入れ、未来を照らすための星になるための道標である。
暦は思わず息を飲んだ。
「……何これ、ファンタジー小説?」
「おじいちゃんはいつも言ってたよ。ここは、誰かの人生の『もしも』を預かる場所だって。そして、君にはその『もしも』を感じ取る力がある、ってね」
湊は、暦が予備校を辞めたことを一切責めなかった。
ただ、優しく見つめている。
「私に、そんな力なんて」
暦は自嘲気味に笑った。彼女は、他人の感情を論理的に分析することはできても、それに呑み込まれまいと常に一線を引いて生きてきたのだ。
その時だった。
『チリン、チリン』
店の奥の扉に設置された古びたベルが、一度だけ、乾いた音を立てた。外からではなく、扉の内側から、微かに鳴り響いた音。
暦と湊は顔を見合わせた。
「ああ、届いたみたいだ」
湊が静かに言った。
扉の足元には、誰が置いたのか、配達伝票も差出人もない、使い古された木製の箱が置いてある。外観は古いが、表面は丁寧に磨かれていた。
暦は緊張しながら箱を開けた。
中に納まっていたのは、古い二眼レフカメラだった。レンズには薄くヒビが入っている。外側は真鍮と革で覆われ、製造から何十年も経っていることがわかる。
暦はカメラに手を触れた。その瞬間、彼女の脳裏に、強烈な感覚が流れ込んできた。
塩の香り。潮風。湿った砂。そして、――焦燥。
まるで、25年前の真夏の海岸に、今、立たされているかのようだった。手のひらを通してカメラから伝わる熱は、まるで持ち主の燃えるような後悔の念が、今も閉じ込められているかのようだ。
暦は思わず手を引っ込めた。
「これが、落とし物……」
湊は心配そうに暦を覗き込んだ。
「大丈夫か、暦?顔色が悪い」
「……このカメラ、すごく熱いの。誰かの、すごく強い思いが、ここにある。私、本当にこの感情を読み解いて、持ち主を見つけられるのかな」
暦は不安に駆られながらも、再びカメラを手に取った。冷たい論理ではなく、温かい共感を信じて、一歩を踏み出す。
「このカメラに残された感情が、持ち主が『やり直したい』と願った時の、最後のシャッターチャンスだとしたら。私はその時と場所を、必ず突き止めなくちゃいけない」
暦はそう決意し、ヒビの入ったカメラのレンズを、真剣に見つめ直した。
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