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第1章:古いカメラと最後のシャッターチャンス
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1. 砂とヒビの痕跡
翌朝、雨は上がり、雲間から差し込む光が『巡星』の古民家の埃を照らしていた。
暦は、二眼レフカメラを預かり所の作業台に置き、虫眼鏡とピンセットを使って細部に集中していた。昨日の夜から、カメラが発する微かな熱と焦燥感が、彼女の指先にまとわりついている。
「このカメラの熱は、持ち主の感情そのものなんだね」
湊が「銀の羅針盤」から淹れたてのコーヒーを持って現れた。湯気と苦みが、昨日までの湿った空気を追い払う。
「感情は論理じゃないけど、痕跡は論理で追える」
暦は言い、コーヒーを一口飲むと、早速分析結果を述べた。
「まず、このレンズのヒビ。これを見て」
暦は虫眼鏡をカメラのレンズに当てて見せた。ヒビは中心から放射状に広がっているが、均等ではない。
「もし単なる落下なら、衝撃の中心から均一に力が加わるはず。でもこのヒビは、ある一点だけが深くて、そこからねじれるように広がっている。これは、硬い地面に落ちたというより、強い力で投げつけられたか、叩きつけられた跡よ」
「投げつけられた?」
湊が目を丸くする。
「大切にしていたはずのカメラを?」
「ええ。その瞬間の感情は、計り知れないほどの焦燥と怒り、そして絶望。――誰かとの約束に間に合わない、あるいは、取り返しのつかない選択をしてしまった後の行動だと仮定できる」
次に暦が注目したのは、カメラのボディとレンズの隙間に入り込んだ、ごく微量の白い粒だった。
「これ。砂よ。ただの埃じゃなくて、海岸の砂」
暦はピンセットで慎重に砂粒を採取し、小さなガラス皿に載せた。
「湊、悪いんだけど、これ、分析してみてくれる?地元の海岸の砂じゃない気がするの」
湊はすぐに頷いた。彼は喫茶店のマスターであると同時に、器用で好奇心旺盛な元理系男子だ。
「わかった。うちの店の裏に簡単な分析キットがある。地質学的な痕跡を追うのは得意だよ」
湊がコーヒーの香りを残して喫茶店へ戻ると、暦は再び一人になる。彼女はカメラのシャッターを操作した。シャッターは正常に切れるが、フィルムは入っていない。
「カメラを投げ捨てるほどの後悔。それは、このカメラで写真を撮ることよりも、もっと大切な何かを失った、たった一つの瞬間よ」
暦は、予備校時代に培った論理と、祖父から継いだ共感力を総動員し、持ち主の人生の分岐点を探り始めた。
2. 落とし物を探す男
正午を過ぎた頃、湊が慌てた様子で預かり所に戻ってきた。
「暦、分析結果が出たよ。この砂は、地元の海岸のものじゃない。石英の含有量が異常に高くて、特定の地域、三浦半島の南端にある小さな入り江の砂と完全に一致した」
「三浦半島の南端……!」
その時、喫茶店の扉が開く音が聞こえた。いつもは静かな「銀の羅針盤」に、不釣り合いなほどの重厚な足音と、背広の擦れる音が響く。
湊が「今、客が」と顔を出すと、すぐに「暦、君に会わせたい人がいる」と戻ってきた。
預かり所に現れたのは、飯島 誠(いいじま まこと)という、50代後半の会社員だった。高価なスーツを着崩し、顔には疲労と諦念の色が濃く浮かんでいる。
「時坂さんから、この店が『落とし物預かり所』だと聞いて……」
飯島は、喫茶店のカウンターで湊に店の話を聞き、半信半疑でこちらへ来たらしい。
「私は天原暦です。どのような品をお探しですか?」
暦が尋ねた。
飯島は、暦の背後にある作業台のカメラに目を留めた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「ああ……それだ。間違いない。あのカメラだ」
飯島は駆け寄り、震える手で二眼レフを抱き上げた。まるで、失われた時間を抱きしめるかのように。
「私のものだ……25年前に、失くしたカメラです」
暦は静かに観察した。カメラに触れた飯島の指先が、微かに青ざめている。カメラからは、昨日と同じ、強い焦燥感が噴き出している。
「飯島さん、差し支えなければ、このカメラを失くした時のことをお聞かせいただけますか?」
飯島は、重い口を開いた。
「あれは25年前の夏のことだ。私は、写真家を目指していた。恋人……今の妻とは別の人と、約束をしていた。大事な、将来を決める話し合いの約束だった」
飯島は視線を落とした。
「だが、私はその約束を破った。急に天候が変わって、どうしても逃したくない光の瞬間が、三浦の海岸にあったんだ。私は彼女に連絡もせず、電車に飛び乗った」
現地に着いた飯島は、夢中で写真を撮った。そして、撮り終わって我に返り、連絡しようとした時には、すでに約束の時間を大幅に過ぎていた。
「携帯なんてない時代だ。公衆電話を探して走り、ようやく受話器を取った瞬間……私は、彼女の声を聞くのが怖くなった。自分の愚かさに、急に耐えられなくなったんだ」
飯島は、電話ボックスの壁に、持っていたカメラを叩きつけるように投げつけた。レンズにヒビが入ったのは、その時だったという。そして、彼は二度と恋人に連絡を取らず、その道を選んだ。
「その時撮った写真が、結果的に私の人生を決めてしまった。大きな賞を取り、写真家としての道が開いた。でも、私は後悔している。あの時、あの場所で、電話をかけていれば、今の人生はなかったかもしれない」
飯島は、自分の人生を肯定できずにいることを吐露した。そして、このカメラが、彼の選ばなかった人生の『落とし物』だと信じて、ここへ探しに来たのだ。
3. 希の助言と核心の推理
暦は話を聞き終えても、すぐにカメラを返すことはしなかった。飯島の話には、論理的な矛盾があった。
「飯島さん。一つだけ確認させてください。あなたがカメラを投げつけたのは、『人生の大きな選択』をした後ですよね?写真を撮り、賞を取るという道を選び、恋人から逃げた後悔の行動ではないでしょうか」
飯島は頷いた。
「そうだ。私はその選択を悔やんでいる」
「違います」暦は断言した。「このカメラから伝わる感情は、『選択を悔やむ諦念』ではない。これは、『選択をする前の、激しい焦燥』の感情です。まるで、時間を戻そうとしてもがいているかのような」
暦が考え込む中、いつの間にか、店の隅に水無月 希(みなづき のぞむ)が立っていた。制服姿の彼は、いつものように曖昧で掴みどころのない微笑みを浮かべている。
「ようこそ、預かり所係さん」
希は暦にだけ聞こえる声で言った。
「その品は、光を追う者が、光を忘れた場所で生まれたね」
暦はハッとした。希は飯島に一瞥もくれず、ただカウンターの窓に差し込む午後の光を見ている。
「光を背にして、一番暗い場所を探してみて。カメラが写すのは、光だけじゃない」
そう言い残すと、希は風のように、あるいは光の粒のように、ふっと姿を消した。
暦は希の言葉を反芻する。
光を追う者(写真家)が、光を忘れた場所で生まれた(カメラを投げた)
そして、カメラの影に隠れた真実。
「湊、飯島さん」
暦は強く言った。
「飯島さんが後悔しているのは、『写真を撮って賞を取ったこと』ではない。あなたが本当に戻りたいと願ったのは、その道を選ばなかった、たった一つの瞬間の行動よ」
暦はカメラのヒビと、飯島の証言を繋ぎ合わせた。
「あなたは約束を破り、海辺の公衆電話にたどり着いた。受話器を握りしめ、あなたは一瞬、『すべてを捨てて謝罪し、恋人を選ぶ』という選択肢を選びかけた。その時、カメラを投げたのです」
飯島は息を飲んだ。
「写真を捨て、後悔の無い人生を選ぶ――あなたは、『その道を選ばなかった自分』に激しく怒り、カメラを叩きつけた。このカメラは、あなたが選んだ人生の記録ではなく、あなたが『選ぼうとした、もう一つの未来』の証拠なんです」
飯島は静かに泣き崩れた。彼の後悔の核心は、成功を収めた写真家の道ではなく、「あの時、電話をかけて謝る勇気がなかったこと」、つまりは、「人間として最も大切な約束を放棄した瞬間」だったのだ。
4. 過去の肯定と未来への一歩
暦は優しく飯島に尋ねた。
「あなたがカメラを投げ捨てた、三浦半島の南端の公衆電話は、まだそこにあるかもしれません。あなたの落とし物は、過去に戻ってやり直す時間ではない。今、その過去を受け入れる勇気です」
暦はカメラを飯島の手に返し、その手の上で、カメラの熱が急激に下がっていくのを感じた。強い焦燥感は消え、代わりに穏やかな温もりが残った。
飯島は深々と頭を下げた。
「ありがとう、天原さん。私は、ずっと成功した人生の裏で、自分を偽ってきた。もう逃げません」
飯島はカメラを抱きしめ、『巡星』を後にした。彼は、帰路、最初に妻(当時の恋人)に電話をかけ、25年間秘めていた真実を全て打ち明けるだろう。
暦は静かに椅子に座り込んだ。湊がそっとブラックコーヒーを差し入れてくれる。
「すごいな、暦。君は本当に、落とし物の持つ感情を論理で解いてしまった」
「まだ、始めたばかりよ」
暦は言った。
「でも、わかった。この仕事は、落とし物を持ち主に戻すだけじゃない。彼らの人生に、『もしも』ではない『今』を生きるための、後押しをする仕事なんだ」
外はすっかり晴れ渡っていた。暦は窓から射し込む光を見つめ、予備校講師時代には感じられなかった、他人の人生の重みと、それを少しでも軽くできた実感を胸に刻んだ。
そして、脳裏に再び、幼い頃に祖父と海辺で交わした、曖昧で懐かしい「ある約束」の記憶がフラッシュバックした。
(私自身の、落とし物は、どこにあるんだろう)
暦は、誰にも言えない疑問を抱きながら、次の落とし物を待つことにした。
翌朝、雨は上がり、雲間から差し込む光が『巡星』の古民家の埃を照らしていた。
暦は、二眼レフカメラを預かり所の作業台に置き、虫眼鏡とピンセットを使って細部に集中していた。昨日の夜から、カメラが発する微かな熱と焦燥感が、彼女の指先にまとわりついている。
「このカメラの熱は、持ち主の感情そのものなんだね」
湊が「銀の羅針盤」から淹れたてのコーヒーを持って現れた。湯気と苦みが、昨日までの湿った空気を追い払う。
「感情は論理じゃないけど、痕跡は論理で追える」
暦は言い、コーヒーを一口飲むと、早速分析結果を述べた。
「まず、このレンズのヒビ。これを見て」
暦は虫眼鏡をカメラのレンズに当てて見せた。ヒビは中心から放射状に広がっているが、均等ではない。
「もし単なる落下なら、衝撃の中心から均一に力が加わるはず。でもこのヒビは、ある一点だけが深くて、そこからねじれるように広がっている。これは、硬い地面に落ちたというより、強い力で投げつけられたか、叩きつけられた跡よ」
「投げつけられた?」
湊が目を丸くする。
「大切にしていたはずのカメラを?」
「ええ。その瞬間の感情は、計り知れないほどの焦燥と怒り、そして絶望。――誰かとの約束に間に合わない、あるいは、取り返しのつかない選択をしてしまった後の行動だと仮定できる」
次に暦が注目したのは、カメラのボディとレンズの隙間に入り込んだ、ごく微量の白い粒だった。
「これ。砂よ。ただの埃じゃなくて、海岸の砂」
暦はピンセットで慎重に砂粒を採取し、小さなガラス皿に載せた。
「湊、悪いんだけど、これ、分析してみてくれる?地元の海岸の砂じゃない気がするの」
湊はすぐに頷いた。彼は喫茶店のマスターであると同時に、器用で好奇心旺盛な元理系男子だ。
「わかった。うちの店の裏に簡単な分析キットがある。地質学的な痕跡を追うのは得意だよ」
湊がコーヒーの香りを残して喫茶店へ戻ると、暦は再び一人になる。彼女はカメラのシャッターを操作した。シャッターは正常に切れるが、フィルムは入っていない。
「カメラを投げ捨てるほどの後悔。それは、このカメラで写真を撮ることよりも、もっと大切な何かを失った、たった一つの瞬間よ」
暦は、予備校時代に培った論理と、祖父から継いだ共感力を総動員し、持ち主の人生の分岐点を探り始めた。
2. 落とし物を探す男
正午を過ぎた頃、湊が慌てた様子で預かり所に戻ってきた。
「暦、分析結果が出たよ。この砂は、地元の海岸のものじゃない。石英の含有量が異常に高くて、特定の地域、三浦半島の南端にある小さな入り江の砂と完全に一致した」
「三浦半島の南端……!」
その時、喫茶店の扉が開く音が聞こえた。いつもは静かな「銀の羅針盤」に、不釣り合いなほどの重厚な足音と、背広の擦れる音が響く。
湊が「今、客が」と顔を出すと、すぐに「暦、君に会わせたい人がいる」と戻ってきた。
預かり所に現れたのは、飯島 誠(いいじま まこと)という、50代後半の会社員だった。高価なスーツを着崩し、顔には疲労と諦念の色が濃く浮かんでいる。
「時坂さんから、この店が『落とし物預かり所』だと聞いて……」
飯島は、喫茶店のカウンターで湊に店の話を聞き、半信半疑でこちらへ来たらしい。
「私は天原暦です。どのような品をお探しですか?」
暦が尋ねた。
飯島は、暦の背後にある作業台のカメラに目を留めた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「ああ……それだ。間違いない。あのカメラだ」
飯島は駆け寄り、震える手で二眼レフを抱き上げた。まるで、失われた時間を抱きしめるかのように。
「私のものだ……25年前に、失くしたカメラです」
暦は静かに観察した。カメラに触れた飯島の指先が、微かに青ざめている。カメラからは、昨日と同じ、強い焦燥感が噴き出している。
「飯島さん、差し支えなければ、このカメラを失くした時のことをお聞かせいただけますか?」
飯島は、重い口を開いた。
「あれは25年前の夏のことだ。私は、写真家を目指していた。恋人……今の妻とは別の人と、約束をしていた。大事な、将来を決める話し合いの約束だった」
飯島は視線を落とした。
「だが、私はその約束を破った。急に天候が変わって、どうしても逃したくない光の瞬間が、三浦の海岸にあったんだ。私は彼女に連絡もせず、電車に飛び乗った」
現地に着いた飯島は、夢中で写真を撮った。そして、撮り終わって我に返り、連絡しようとした時には、すでに約束の時間を大幅に過ぎていた。
「携帯なんてない時代だ。公衆電話を探して走り、ようやく受話器を取った瞬間……私は、彼女の声を聞くのが怖くなった。自分の愚かさに、急に耐えられなくなったんだ」
飯島は、電話ボックスの壁に、持っていたカメラを叩きつけるように投げつけた。レンズにヒビが入ったのは、その時だったという。そして、彼は二度と恋人に連絡を取らず、その道を選んだ。
「その時撮った写真が、結果的に私の人生を決めてしまった。大きな賞を取り、写真家としての道が開いた。でも、私は後悔している。あの時、あの場所で、電話をかけていれば、今の人生はなかったかもしれない」
飯島は、自分の人生を肯定できずにいることを吐露した。そして、このカメラが、彼の選ばなかった人生の『落とし物』だと信じて、ここへ探しに来たのだ。
3. 希の助言と核心の推理
暦は話を聞き終えても、すぐにカメラを返すことはしなかった。飯島の話には、論理的な矛盾があった。
「飯島さん。一つだけ確認させてください。あなたがカメラを投げつけたのは、『人生の大きな選択』をした後ですよね?写真を撮り、賞を取るという道を選び、恋人から逃げた後悔の行動ではないでしょうか」
飯島は頷いた。
「そうだ。私はその選択を悔やんでいる」
「違います」暦は断言した。「このカメラから伝わる感情は、『選択を悔やむ諦念』ではない。これは、『選択をする前の、激しい焦燥』の感情です。まるで、時間を戻そうとしてもがいているかのような」
暦が考え込む中、いつの間にか、店の隅に水無月 希(みなづき のぞむ)が立っていた。制服姿の彼は、いつものように曖昧で掴みどころのない微笑みを浮かべている。
「ようこそ、預かり所係さん」
希は暦にだけ聞こえる声で言った。
「その品は、光を追う者が、光を忘れた場所で生まれたね」
暦はハッとした。希は飯島に一瞥もくれず、ただカウンターの窓に差し込む午後の光を見ている。
「光を背にして、一番暗い場所を探してみて。カメラが写すのは、光だけじゃない」
そう言い残すと、希は風のように、あるいは光の粒のように、ふっと姿を消した。
暦は希の言葉を反芻する。
光を追う者(写真家)が、光を忘れた場所で生まれた(カメラを投げた)
そして、カメラの影に隠れた真実。
「湊、飯島さん」
暦は強く言った。
「飯島さんが後悔しているのは、『写真を撮って賞を取ったこと』ではない。あなたが本当に戻りたいと願ったのは、その道を選ばなかった、たった一つの瞬間の行動よ」
暦はカメラのヒビと、飯島の証言を繋ぎ合わせた。
「あなたは約束を破り、海辺の公衆電話にたどり着いた。受話器を握りしめ、あなたは一瞬、『すべてを捨てて謝罪し、恋人を選ぶ』という選択肢を選びかけた。その時、カメラを投げたのです」
飯島は息を飲んだ。
「写真を捨て、後悔の無い人生を選ぶ――あなたは、『その道を選ばなかった自分』に激しく怒り、カメラを叩きつけた。このカメラは、あなたが選んだ人生の記録ではなく、あなたが『選ぼうとした、もう一つの未来』の証拠なんです」
飯島は静かに泣き崩れた。彼の後悔の核心は、成功を収めた写真家の道ではなく、「あの時、電話をかけて謝る勇気がなかったこと」、つまりは、「人間として最も大切な約束を放棄した瞬間」だったのだ。
4. 過去の肯定と未来への一歩
暦は優しく飯島に尋ねた。
「あなたがカメラを投げ捨てた、三浦半島の南端の公衆電話は、まだそこにあるかもしれません。あなたの落とし物は、過去に戻ってやり直す時間ではない。今、その過去を受け入れる勇気です」
暦はカメラを飯島の手に返し、その手の上で、カメラの熱が急激に下がっていくのを感じた。強い焦燥感は消え、代わりに穏やかな温もりが残った。
飯島は深々と頭を下げた。
「ありがとう、天原さん。私は、ずっと成功した人生の裏で、自分を偽ってきた。もう逃げません」
飯島はカメラを抱きしめ、『巡星』を後にした。彼は、帰路、最初に妻(当時の恋人)に電話をかけ、25年間秘めていた真実を全て打ち明けるだろう。
暦は静かに椅子に座り込んだ。湊がそっとブラックコーヒーを差し入れてくれる。
「すごいな、暦。君は本当に、落とし物の持つ感情を論理で解いてしまった」
「まだ、始めたばかりよ」
暦は言った。
「でも、わかった。この仕事は、落とし物を持ち主に戻すだけじゃない。彼らの人生に、『もしも』ではない『今』を生きるための、後押しをする仕事なんだ」
外はすっかり晴れ渡っていた。暦は窓から射し込む光を見つめ、予備校講師時代には感じられなかった、他人の人生の重みと、それを少しでも軽くできた実感を胸に刻んだ。
そして、脳裏に再び、幼い頃に祖父と海辺で交わした、曖昧で懐かしい「ある約束」の記憶がフラッシュバックした。
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