月光と向日葵の距離

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第2章:交錯する視線と小さな事件

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 1. 認識の始まりと物理的な距離の縮小

 最初のチャンスを逃した佐伯景は、激しい自己嫌悪に陥った後、ある種の開き直りの境地に達していた。

(どうせ、僕は行動できない。)

 そう諦める一方で、彼は藤咲陽菜への観察を止められなかった。一度自覚した恋心は、もう彼の世界から切り離すことができなかった。しかし、運命は、彼らの物理的な距離を勝手に縮めていった。

 新学期が始まり、景のクラス(B組)と陽菜のクラス(A組)の合同で、図書委員会が発足した。

 景は「目立たないように」という理由で、図書室の整理担当という裏方に徹していたが、陽菜は「みんなと協力したいから」という理由で、貸出・返却カウンターの担当になった。必然的に、景と陽菜は週に一度、放課後の図書室で顔を合わせることになった。

 初日、景は自分が心臓の音を周囲に聞かれていないか不安になるほど緊張していた。

 陽菜は景の存在に気づいたのか、他のクラスメイトたちと楽しそうに話しながらも、時折、図書室の書架の間を整理している景の方へ、一瞬だけ視線を向けるようになった。

 景は、その視線が向けられるたびに、全身が硬直するのを感じた。それは「好奇」でも「興味」でもなく、単なる「そこに誰かいる」という認識、あるいは、「一人で黙々と作業をしている珍しいクラスメイト」を捉える視線だったかもしれない。

 だが、景にとっては、それだけで十分だった。これまで陽菜の視界に入ることすらなかった「月影」が、今、彼女の「認識」という光の中にわずかに捉えられたのだ。

(見られている。)

 その事実は、景の観察者としての立場を揺るがした。

 彼はもう、彼女の世界の外側から安全に眺めることはできない。彼は、彼女の視線が届く場所にいる。


 2. 陽菜の仮面と景の葛藤

 景の観察は、図書委員会での接触を通じて、より詳細で、より個人的なものになっていった。

 図書委員会の休憩時間、陽菜は必ず友人たちに囲まれ、屈託のない笑顔で冗談を飛ばし、周囲を明るく照らしていた。

 しかし、景が書架整理のため奥のコーナーで一人になっている時、彼女が給水のために近くを通る瞬間があった。その時、彼女は一瞬だけ、景に気づかないまま、目を閉じて深く息を吐く。その表情は、普段の「太陽」の笑顔とはかけ離れた、疲労と諦めの色を帯びていた。

 景は、陽菜が「完璧な人気者」の仮面を被っていることを確信する。そして、彼女がその仮面を被り続けることに、どれほどのエネルギーを費やしているのかを理解した。

 陽菜がクラスの中心で明るく振る舞えば振る舞うほど、景の心は痛んだ。

(本当は、辛いんじゃないか? 一人でいたい瞬間もあるんじゃないか?)

 景は、自分なら彼女のその「疲労の色」を理解できると思った。なぜなら、自分もまた、「孤独を愛する静かな生徒」という仮面を被っているからだ。

 声をかけたい。助けたい。

 しかし、彼の内なる壁は厚い。


 • 壁1: 「人気者の君が、影のような僕に話しかけられて、喜ぶわけがない」

 • 壁2: 「僕の存在が、君の『完璧な人気者』というイメージを壊してしまう」

 • 壁3: 「もし、僕が理解しているつもりで、的外れなことを言ったら、彼女は二度と僕を見てくれない」


 景はいつも、その一歩を踏み出す直前で、自分の言葉が持つであろう破壊力を恐れて、後退してしまうのだった。


 3. 小さな事件の発生

 ある日、図書委員会とは関係のない、体育館裏での出来事だった。

 景は放課後、文芸部の活動のために部室へ向かっていた。校舎の裏手、体育館の陰になっている薄暗い通路を通り過ぎようとしたとき、いくつかの押し殺した声が聞こえてきた。

「…藤咲さんってさ、どこまでも完璧だよね。なんか、見てるだけで疲れるっていうか」

「わかるー。いつも笑顔で、努力してますアピールしなくて、でも結果出すじゃん? ズルいっていうか」

「あれ、裏で相当頑張ってるってアピールしてるんでしょ。本当は根暗なのに、無理して明るくしてるんじゃない?」

 それは、陽菜のクラスメイトらしい女子生徒たちの、陰口だった。

 景は立ち止まった。彼は、そこで繰り広げられているのが、陽菜の「太陽」としての輝きに対する、嫉妬と偏見であることに気づいた。そして、通路の角を挟んだ先に、バレー部の練習着姿の陽菜が、偶然、その陰口を聞いて立ち尽くしているのが見えた。

 陽菜の顔は、いつもの笑顔が完全に消え、まるで照明を消された舞台のように、暗く、無表情だった。彼女は唇をきつく噛みしめ、その瞳には、一瞬、涙の膜が張った。しかし、すぐに彼女はそれを拭い、何事もなかったかのように歩き出そうとする。

 景の心臓が、警告音を鳴らして叫んだ。

 今だ。声をかけろ。

「藤咲さん…」

 景は小さく、彼女の名前を呼ぼうとした。彼の口から出たのは、空気の漏れるような、か細い音だけだった。

 陽菜は、景の存在に気づかないまま、顔を上げ、再び「いつもの笑顔」を貼り付けようとするかのように、深呼吸をした。そして、彼女は立ち去った。陰口を言っていた生徒たちに悟られないように、完璧に「平静」を装って。

 景は、またも行動できなかった。彼は、陽菜の痛みを目の当たりにしながら、それを無視する傍観者で終わってしまった。


 4. 勇気の「半歩」

 その夜、景は自室で、昨日の出来事を繰り返し思い出した。

(僕は何をやっているんだ。彼女はあんなに苦しんでいたのに、僕は声をかけることすらできなかった。)

 彼は、自分が「臆病」であることの重さを初めて痛感した。彼の行動しない選択は、彼女の痛みを和らげる可能性をゼロにした。

 次の日、景は一つの決意をした。直接声をかけられないなら、間接的にでも、彼女に「あなたの孤独に気づいている人がいる」というメッセージを伝えよう。

 景は、文芸部の活動や読書を通じて培った器用さを活かして、あるものを用意した。

 それは、景が図書館でたまたま見かけた、陽菜がいつも借りていた詩集からインスピレーションを受けたものだった。彼は、厚手の質の良い紙を用意し、陽菜が好きそうな、控えめで優しい色合いの押し花をあしらった、特製のブックカバーを手作りした。

 カバーの裏側には、景が尊敬する作家の言葉を引用し、小さく書き添えた。

「あなたの孤独が、世界のすべてを理解する窓となる。」

 景は、そのブックカバーを図書室のカウンターの裏側、陽菜がいつも使う場所に、誰も見ていない早朝、そっと忍ばせた。誰からのものか分からないように、名前は書かなかった。

 これは、直接的な接触ではない。それは「半歩」の行動だった。自分と陽菜の関係を根本的に変えるものではない。しかし、景にとっては、自己の殻を破るための、最初の「行動」だった。


 5. 届いたメッセージ

 その日の放課後、景はいつものように図書委員の活動のため図書室へ向かった。

 陽菜は、カウンターに立って、笑顔で貸出業務をしていた。景は自分の作業を装いながら、陽菜の様子を遠目に観察した。

 陽菜は、景がブックカバーを置いた場所には目もくれなかった。景は落胆した。やはり、こんな間接的な行動は無意味だったのか。

 しかし、委員会が終わり、陽菜が帰る準備を始めたときだった。

 彼女は、自分のカバンから景が作ったブックカバーを取り出した。中には、昨日の詩集ではなく、別の文庫本が挟まれている。彼女は、カバーの裏側を親指でそっとなぞり、景が書き添えた引用部分を読んでいるようだった。

 そして、陽菜は、まるで何かを探すかのように、一瞬、周囲を見回した。

 その視線が、景が立っている書架の奥へと向かった。
 景は、慌てて本の間に身を隠した。鼓動が激しく、全身が熱い。

 陽菜の視線は、景を見つけることはなかったが、彼女は景が立っていた場所へ、数秒間、目を留めた。その表情は、いつもの完璧な笑顔ではなく、困惑と、ほんの少しの安堵が入り混じった、複雑なものだった。

 そして陽菜は、ブックカバーを大切にカバンにしまい、他のクラスメイトたちに「お疲れ様!」と明るく手を振って図書室を出て行った。

 景は、本の陰で息を殺していた。

「届いた…」

 自分の名前も明かさず、何の具体的な会話も交わしていない。それでも、景の起こした「半歩」の行動は、陽菜の心に確かに触れたのだ。景は、孤独で平和な世界に閉じこもっているだけでは得られなかった、小さな変化の予感を、初めて肌で感じた。

 この行動は、確かに変化を生む。だが、この半歩では、二人の間の本質的な距離はまだ縮まっていない。景は、次の大きな一歩を踏み出す必要性を、強く意識し始めるのだった。
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