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狙撃
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伊賀。
田園地帯。
織田家の旗印が掲げられた、大規模な武者行列が進んでいる。
隊列の真ん中あたりに、巨漢の男たちに担がれた華麗な黒漆塗りの駕籠が見える。
内側から小窓が開かれ、信長が顔を見せる。
外の景色を眺めながら、
「駕籠は息苦しくていかん」
むしろ機嫌が良さそうにつぶやく。
小城の建造工事が行なわれている。まだ石垣作りが始まったばかりのようだ。
数十人の人夫は、すべて伊賀の男たちである。誰もが過酷な労働に疲労困憊している。
大石を乗せたシュラ(運搬用のソリ)の綱を、人夫たちが懸命に引っ張っている。だが大石はわずかずつしか動かない。
現場を監督している普請奉行は織田の武士である。
「もっと腹の底から力を込めろ! 日が暮れてしまうわっ!」
人夫たちにむかって尊大に怒鳴り散らす。
そのとき、遠くの田園地帯を武者行列が進んでいる光景に気づく。
「おお、上様が伊賀見物に参られたか」
普請奉行は畏敬の念を込めて頭を下げる。
南宮山頂。
大勢の従士たちが警固のために配置されている。物々しい雰囲気。
伊賀統治を任されている脇坂安治の姿もあり、周囲を警戒している。
眺望にもっとも適した場所に、豪奢な御座が設けられている。
そこに着座しているのは信長である。
御座のそばには、森乱丸をはじめとする小姓衆と馬廻り衆、合わせて七、八人が控えている。
信長は、目の前に広がっている景色を悠然と望んでいる。
「伊賀を〝秘蔵の国〟とはよく申したものじゃ」
緑に覆われた里は、終戦直後とは思えぬ美しさだ。
「あやつら山猿にはすぎたるものよ」
口元に傲然たる笑みを浮かべる。
南宮山の麓に広がる森の中で、弥左衛門は飛ぶように歩き進んでいる。木三と判官が、その後に続く。
三人とも、近づきがたいほどの緊迫した雰囲気。毛皮の半纏を身にまとい、猟師に化けている。それぞれ火縄銃を長刀のように背負っている。
やがて三人は森の浅いところで立ち止まり、木の幹を陰にして潜む。
森の外には野原が広がっており、その先には敢国神社が見える。建物は半焼してしまっているが、それでも霊的な威厳に満ちた神社である。
三人が注視しているのは、その敢国神社の前を横切る道である。
「織田の行列は、必ずあの道を通る。信長を乗せた駕籠も一目でわかろう」
判官が静かに作戦の内容を確認する。
「距離は一町に少し足らずか…」
弥左衛門は背中の火縄銃を抜きとり、
「この大鉄砲ならば的の内じゃ」
両手にずっしりと持つ。銃身が通常のものより一・五倍ほどもある。
それから一刻半が過ぎた頃──
「見えたぞ!」
判官の声に、弥左衛門と木三もハッと顔を上げる。
敢国神社の前を横切る道に、南宮山麓の坂道を下りきった織田家の隊列の先頭が姿をあらわす。騎馬で先導しているのは脇坂だ。
弥左衛門は左手を振って、
「よし、備えろ!」
三人は機敏に配置につく。
弥左衛門を真ん中に、約五メートル間隔で三人が横に並ぶ格好。
それぞれ点火済みの火縄銃を構え、狙いをさだめていく。
だが弥左衛門はすぐにターゲットの異変に気づき、
「ん? 何をしとるんじゃ?」
織田の隊列の前半分が、敢国神社の前で立ち止まっている。信長の駕籠はまだ姿を現していない。
脇坂が従士たちに下知している。
「一同、見張りにつけ!」
従士たちは、神社周辺のそれぞれの持ち場へすばやく散っていく。
そのうちの四人は、森にむかってまっすぐ駆けてくる。
「いかん…!」
弥左衛門と木三と判官は危険を察知し、顔を見合わせる。
森の中にわけ入ってきた従士たちは、立ち止まることなく、周囲を油断なく観察する。
やがて従士たちは安全確認に満足したらしく、森から駆け去っていく。
弥左衛門は、たった今まで駆けまわっていた従士の頭上の木の上からすべり下りてくる。
木三と判官も、それぞれ別の木の上に身を隠しており、静かに下りてくる。
「さすがに用心深いな」
弥左衛門はふたたび敢国神社のほうに目をもどし、そして息を飲む。
敢国神社の目の前の道で、床机に腰掛けた信長が、のんびりと周囲の景色を眺めているのだ。さっきまで乗っていたであろう黒漆塗りの駕籠が、すぐそばに下ろしてある。
小姓の一人は朱色の大きな唐傘を開いて、日除けのために信長の頭上に差しかける。
景色見物の邪魔になるからであろう、森乱丸をはじめとする残りの小姓衆と馬廻り衆は、信長の背後に立っている。そのため、床机に腰掛けている信長の姿は、距離があるものの丸見えになっている。
「駕籠の中より狙いやすうなったな」
判官が冷静につぶやく。
「大うつけめ! あれは格好の的じゃ!」
「天がわれらに味方してくれたのじゃ!」
予期せぬ幸運に、弥左衛門も木三も色めき立つ。
「よし、おのおの狙いを定めろ」
弥左衛門の指示で、再びそれぞれの配置につく。
「申し合わせたとおり、まずわしが放つ。それを合図におぬしらがとどめを刺してくれ」
木三と判官は無言でうなづく。いやがおうにも緊張感が高まってくる。
火蓋を開き、三人は火縄銃の狙いをさだめていく。
三本の筒先が横一列に並ぶ。
信長とその家臣たちに特に動きはない。床机に腰掛けている信長は、あいかわらず景色を眺めている。
獲物を狙う鷹のような弥左衛門の目が、ギラリと鋭く光る。
そして引き金に掛けている指に力を込め、発砲する。
放った弾丸は、信長の頭上をすれすれで越え、日除けの唐傘の柄に当たってしまう。柄はボキリと折れ、唐傘は前向きに倒れ始める。
木三と判官は、ほぼ同時に発砲する。
前向きに倒れてきた唐傘が、信長の姿を覆い隠している。木三と判官の弾丸が、唐傘を突き破って二つの穴を開ける。そのまま唐傘は地面に倒れ落ち、横に転がる。
再び信長の姿があらわれる。床机に腰掛けたまま、顔を伏せた格好。
弥左衛門と木三と判官は、息を飲んで狙撃の結果を見つめている。
信長は伏せていた顔を、ゆっくりと起こしていく。
恐れやおののき、苦痛の表情は微塵も浮かべていない。
信長の背後に立っていた小姓のうちの二人は、それぞれ脚に流れ弾を喰らったらしく、続けざまにくずおれる。信じがたいことに、弾は二発とも逸れたのだ。
他の小姓衆と馬廻り衆は、すばやく信長の周りに円陣を組んで盾となる。
「仕損じたか…」
判官が無念の声を漏らす。
「馬鹿な…!」
弥左衛門は我が目を疑い、呆然自失する。
信長のもとへ、血相を変えた脇坂が飛んでくる。
信長はすっくと立ち上がって脇坂に何事か指示してから、腰の脇差を抜いて弥左衛門たちがいる方向を正確に切っ先で指し示す。
弥左衛門は、こちらをまっすぐ睨んでいる信長の強い視線に囚われ、目が離せない。信長の目は冷酷な虐殺者のものだ。
しだいに悔しさがこみあげてきて、弥左衛門は奥歯が削れるような歯軋りをする。
脇坂にわめき散らされた従士たちが、刀や弓を手にして、全速力で森にむかって駆けてくる。その数およそ二十。
「弥左っ!」
と判官。
「退く!」
弥左衛門はすぐさま森の奥にむかって駆け出し、木三と判官もそれに続く。
*
南宮山より北へ十里。
林の中にまぎれるように、板ぶき屋根の質素な民家がある。
家内では、宮田長兵衛とその妻の菊が囲炉裏で食事をしている。
ポソポソと慎ましく食べる小柄な長兵衛にくらべ、菊の食欲と目方は夫の二倍はあるようだ。
突然、ガラッと木戸が開けられ、弥左衛門と木三と判官が土間に乱入してくる。
「長兵衛! 化け用の装束を借してくれ!」
開口一番、弥左衛門の下知が飛ぶ。
「あと水じゃ!」
狙撃失敗の退却から、今の今まで走り詰めだったのだ。
「弥左衛門さま、何事ですか!?」
「訳は申せぬ。急いでくれ!」
「は、はい!」
わけもわからぬままに立ち上がり、長兵衛は部屋の片隅にある長櫃の蓋をとる。彼は、物聞きに使っている弥左衛門の下忍であった。
「菊殿、騒がせてすまぬな。こたびのことはくれぐれも他言無用に願う」
菊は無言のまま、露骨に迷惑そうな視線をジトッと弥左衛門にむけている。夫を手伝おうともせず、デンと座ったまま。
長兵衛は従順に命令を実行している。長櫃の中から次々と衣装を取り出して、床に並べていく。
*
脇坂の屋敷。
伊賀の名族から接収したもので、立派な造りである。
その奥の間。
脇坂は上段に座り、憤懣やるかたないといった剣幕で、
「ええい、まだ搦め捕れぬのか!」
「ははっ、申しわけございません」
「ぐずぐずしとるから、上様はもう安土に帰られたではないか!」
傍らの直臣は、おずおずと顔を上げ、
「国境をかため、昼夜を問わず大がかりな山狩りをしておりますが…まるで煙のごとく影も形も…」
脇坂は正面に顔をむける。
頭衆筆頭の滝野吉政と、同じく頭衆の小泉左京、家善上総がかしこまっている。
「あの鉄砲礫、そちら伊賀者の仕業であろう!」
滝野は額を畳に擦りつけんばかりにぺこぺこと平伏し、
「滅相もございません。伊賀の民はわれら頭衆から幼子にいたるまで、織田家に忠節を尽くしております。おそれながら、信長さまのお命を頂戴せんと欲するふとどき者は他国に大勢おりまする。こたびのことは、そやつらがわれら伊賀衆に罪を着せんとしての卑怯なる謀かと…」
「神仏に誓って、伊賀者の仕業でないと申せるか!」
滝野は大慌てで、
「もし万が一伊賀の輩であっても、それは思慮分別のつかぬ跳ねっかえりが勝手におよんだこと。われら頭衆の下知とは一切関わりはございませぬ」
「ええいっ!」
脇坂は、判断しようがなく、さらに苛つく。
「断じてあの刺客を逃してはならぬ! 捕らえた者、密訴した者には金子を与える!」
*
朝山。
民家の庭に、五郎があわただしく駆け込んでくる。
その物音を聞きつけ、家内から才蔵爺が飛び出してくる。
「して首尾のほどはっ!?」
五郎は悔しそうに、
「天運に恵まれず! 信長誅殺は失敗にございます!」
才蔵爺は目に見えて落胆する。
「何故じゃ。何故天はわれらに味方してくれぬのじゃ…!」
力なく顔をあげ、
「こたびのことは、村の者らに話さぬほうがよいじゃろう。それで弥左衛門はどこに?」
「御無事でございます」
「一緒ではないのか? 一刻も早う身を隠さんと…」
「さような手筈でございましたが…」
言い淀んで、
「弥左殿は安土へむかわれました」
「安土へ!? よりによって何故じゃ!?」
才蔵爺はわけがわからず狼狽する。
五郎も首をひねって、
「さあ、ただ安土へむかうとだけ…」
田園地帯。
織田家の旗印が掲げられた、大規模な武者行列が進んでいる。
隊列の真ん中あたりに、巨漢の男たちに担がれた華麗な黒漆塗りの駕籠が見える。
内側から小窓が開かれ、信長が顔を見せる。
外の景色を眺めながら、
「駕籠は息苦しくていかん」
むしろ機嫌が良さそうにつぶやく。
小城の建造工事が行なわれている。まだ石垣作りが始まったばかりのようだ。
数十人の人夫は、すべて伊賀の男たちである。誰もが過酷な労働に疲労困憊している。
大石を乗せたシュラ(運搬用のソリ)の綱を、人夫たちが懸命に引っ張っている。だが大石はわずかずつしか動かない。
現場を監督している普請奉行は織田の武士である。
「もっと腹の底から力を込めろ! 日が暮れてしまうわっ!」
人夫たちにむかって尊大に怒鳴り散らす。
そのとき、遠くの田園地帯を武者行列が進んでいる光景に気づく。
「おお、上様が伊賀見物に参られたか」
普請奉行は畏敬の念を込めて頭を下げる。
南宮山頂。
大勢の従士たちが警固のために配置されている。物々しい雰囲気。
伊賀統治を任されている脇坂安治の姿もあり、周囲を警戒している。
眺望にもっとも適した場所に、豪奢な御座が設けられている。
そこに着座しているのは信長である。
御座のそばには、森乱丸をはじめとする小姓衆と馬廻り衆、合わせて七、八人が控えている。
信長は、目の前に広がっている景色を悠然と望んでいる。
「伊賀を〝秘蔵の国〟とはよく申したものじゃ」
緑に覆われた里は、終戦直後とは思えぬ美しさだ。
「あやつら山猿にはすぎたるものよ」
口元に傲然たる笑みを浮かべる。
南宮山の麓に広がる森の中で、弥左衛門は飛ぶように歩き進んでいる。木三と判官が、その後に続く。
三人とも、近づきがたいほどの緊迫した雰囲気。毛皮の半纏を身にまとい、猟師に化けている。それぞれ火縄銃を長刀のように背負っている。
やがて三人は森の浅いところで立ち止まり、木の幹を陰にして潜む。
森の外には野原が広がっており、その先には敢国神社が見える。建物は半焼してしまっているが、それでも霊的な威厳に満ちた神社である。
三人が注視しているのは、その敢国神社の前を横切る道である。
「織田の行列は、必ずあの道を通る。信長を乗せた駕籠も一目でわかろう」
判官が静かに作戦の内容を確認する。
「距離は一町に少し足らずか…」
弥左衛門は背中の火縄銃を抜きとり、
「この大鉄砲ならば的の内じゃ」
両手にずっしりと持つ。銃身が通常のものより一・五倍ほどもある。
それから一刻半が過ぎた頃──
「見えたぞ!」
判官の声に、弥左衛門と木三もハッと顔を上げる。
敢国神社の前を横切る道に、南宮山麓の坂道を下りきった織田家の隊列の先頭が姿をあらわす。騎馬で先導しているのは脇坂だ。
弥左衛門は左手を振って、
「よし、備えろ!」
三人は機敏に配置につく。
弥左衛門を真ん中に、約五メートル間隔で三人が横に並ぶ格好。
それぞれ点火済みの火縄銃を構え、狙いをさだめていく。
だが弥左衛門はすぐにターゲットの異変に気づき、
「ん? 何をしとるんじゃ?」
織田の隊列の前半分が、敢国神社の前で立ち止まっている。信長の駕籠はまだ姿を現していない。
脇坂が従士たちに下知している。
「一同、見張りにつけ!」
従士たちは、神社周辺のそれぞれの持ち場へすばやく散っていく。
そのうちの四人は、森にむかってまっすぐ駆けてくる。
「いかん…!」
弥左衛門と木三と判官は危険を察知し、顔を見合わせる。
森の中にわけ入ってきた従士たちは、立ち止まることなく、周囲を油断なく観察する。
やがて従士たちは安全確認に満足したらしく、森から駆け去っていく。
弥左衛門は、たった今まで駆けまわっていた従士の頭上の木の上からすべり下りてくる。
木三と判官も、それぞれ別の木の上に身を隠しており、静かに下りてくる。
「さすがに用心深いな」
弥左衛門はふたたび敢国神社のほうに目をもどし、そして息を飲む。
敢国神社の目の前の道で、床机に腰掛けた信長が、のんびりと周囲の景色を眺めているのだ。さっきまで乗っていたであろう黒漆塗りの駕籠が、すぐそばに下ろしてある。
小姓の一人は朱色の大きな唐傘を開いて、日除けのために信長の頭上に差しかける。
景色見物の邪魔になるからであろう、森乱丸をはじめとする残りの小姓衆と馬廻り衆は、信長の背後に立っている。そのため、床机に腰掛けている信長の姿は、距離があるものの丸見えになっている。
「駕籠の中より狙いやすうなったな」
判官が冷静につぶやく。
「大うつけめ! あれは格好の的じゃ!」
「天がわれらに味方してくれたのじゃ!」
予期せぬ幸運に、弥左衛門も木三も色めき立つ。
「よし、おのおの狙いを定めろ」
弥左衛門の指示で、再びそれぞれの配置につく。
「申し合わせたとおり、まずわしが放つ。それを合図におぬしらがとどめを刺してくれ」
木三と判官は無言でうなづく。いやがおうにも緊張感が高まってくる。
火蓋を開き、三人は火縄銃の狙いをさだめていく。
三本の筒先が横一列に並ぶ。
信長とその家臣たちに特に動きはない。床机に腰掛けている信長は、あいかわらず景色を眺めている。
獲物を狙う鷹のような弥左衛門の目が、ギラリと鋭く光る。
そして引き金に掛けている指に力を込め、発砲する。
放った弾丸は、信長の頭上をすれすれで越え、日除けの唐傘の柄に当たってしまう。柄はボキリと折れ、唐傘は前向きに倒れ始める。
木三と判官は、ほぼ同時に発砲する。
前向きに倒れてきた唐傘が、信長の姿を覆い隠している。木三と判官の弾丸が、唐傘を突き破って二つの穴を開ける。そのまま唐傘は地面に倒れ落ち、横に転がる。
再び信長の姿があらわれる。床机に腰掛けたまま、顔を伏せた格好。
弥左衛門と木三と判官は、息を飲んで狙撃の結果を見つめている。
信長は伏せていた顔を、ゆっくりと起こしていく。
恐れやおののき、苦痛の表情は微塵も浮かべていない。
信長の背後に立っていた小姓のうちの二人は、それぞれ脚に流れ弾を喰らったらしく、続けざまにくずおれる。信じがたいことに、弾は二発とも逸れたのだ。
他の小姓衆と馬廻り衆は、すばやく信長の周りに円陣を組んで盾となる。
「仕損じたか…」
判官が無念の声を漏らす。
「馬鹿な…!」
弥左衛門は我が目を疑い、呆然自失する。
信長のもとへ、血相を変えた脇坂が飛んでくる。
信長はすっくと立ち上がって脇坂に何事か指示してから、腰の脇差を抜いて弥左衛門たちがいる方向を正確に切っ先で指し示す。
弥左衛門は、こちらをまっすぐ睨んでいる信長の強い視線に囚われ、目が離せない。信長の目は冷酷な虐殺者のものだ。
しだいに悔しさがこみあげてきて、弥左衛門は奥歯が削れるような歯軋りをする。
脇坂にわめき散らされた従士たちが、刀や弓を手にして、全速力で森にむかって駆けてくる。その数およそ二十。
「弥左っ!」
と判官。
「退く!」
弥左衛門はすぐさま森の奥にむかって駆け出し、木三と判官もそれに続く。
*
南宮山より北へ十里。
林の中にまぎれるように、板ぶき屋根の質素な民家がある。
家内では、宮田長兵衛とその妻の菊が囲炉裏で食事をしている。
ポソポソと慎ましく食べる小柄な長兵衛にくらべ、菊の食欲と目方は夫の二倍はあるようだ。
突然、ガラッと木戸が開けられ、弥左衛門と木三と判官が土間に乱入してくる。
「長兵衛! 化け用の装束を借してくれ!」
開口一番、弥左衛門の下知が飛ぶ。
「あと水じゃ!」
狙撃失敗の退却から、今の今まで走り詰めだったのだ。
「弥左衛門さま、何事ですか!?」
「訳は申せぬ。急いでくれ!」
「は、はい!」
わけもわからぬままに立ち上がり、長兵衛は部屋の片隅にある長櫃の蓋をとる。彼は、物聞きに使っている弥左衛門の下忍であった。
「菊殿、騒がせてすまぬな。こたびのことはくれぐれも他言無用に願う」
菊は無言のまま、露骨に迷惑そうな視線をジトッと弥左衛門にむけている。夫を手伝おうともせず、デンと座ったまま。
長兵衛は従順に命令を実行している。長櫃の中から次々と衣装を取り出して、床に並べていく。
*
脇坂の屋敷。
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その奥の間。
脇坂は上段に座り、憤懣やるかたないといった剣幕で、
「ええい、まだ搦め捕れぬのか!」
「ははっ、申しわけございません」
「ぐずぐずしとるから、上様はもう安土に帰られたではないか!」
傍らの直臣は、おずおずと顔を上げ、
「国境をかため、昼夜を問わず大がかりな山狩りをしておりますが…まるで煙のごとく影も形も…」
脇坂は正面に顔をむける。
頭衆筆頭の滝野吉政と、同じく頭衆の小泉左京、家善上総がかしこまっている。
「あの鉄砲礫、そちら伊賀者の仕業であろう!」
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「神仏に誓って、伊賀者の仕業でないと申せるか!」
滝野は大慌てで、
「もし万が一伊賀の輩であっても、それは思慮分別のつかぬ跳ねっかえりが勝手におよんだこと。われら頭衆の下知とは一切関わりはございませぬ」
「ええいっ!」
脇坂は、判断しようがなく、さらに苛つく。
「断じてあの刺客を逃してはならぬ! 捕らえた者、密訴した者には金子を与える!」
*
朝山。
民家の庭に、五郎があわただしく駆け込んでくる。
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才蔵爺は目に見えて落胆する。
「何故じゃ。何故天はわれらに味方してくれぬのじゃ…!」
力なく顔をあげ、
「こたびのことは、村の者らに話さぬほうがよいじゃろう。それで弥左衛門はどこに?」
「御無事でございます」
「一緒ではないのか? 一刻も早う身を隠さんと…」
「さような手筈でございましたが…」
言い淀んで、
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五郎も首をひねって、
「さあ、ただ安土へむかうとだけ…」
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