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(3)置き去られた娘

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 帝国の西、海を渡ったバルギスチア大陸には、剣聖アレガルドが興した大国アチューダリアが在る。

 近隣諸国をその軍事力で牽制、抑制するアチューダリアにおいて、剣聖アレガルドの再来とも呼ばれ、救国の英雄と謳われたマーベル・レインホルンも今は昔。

 マーベルは妻クレアの死を受け入れられず、この三年ほどは狂ったように酒を浴びて過ごし、賭博場に入り浸っては借金を作り、いよいよ蒸発するように行方をくらませた。

「あのクソオヤジ、見つけたらタダじゃ置かないんだから」

 一人残されたその娘リルカは、マーベルが居なくなってから、すっかり手のひらを返したように態度の変わった、周囲の大人たちの反応にウンザリしている。

『実は君の親父さんに、四万デリア貸している。証書もある』

『ウチの店のツケは、二千とちょっとだ』

『ウチは五千だ』

『こっちはそんな程度の端金じゃない。家を売り捌いてでも、踏み倒した借金を返してくれ』

 一デリアあれば、ラルー鳥の卵が五つは手に入るし、ノサックの乳が一瓶は買える。
 主食となるザラスは、スポッタ麦を挽いて粉にした物を塩と水で捏ね上げて焼いた物だが、三デリアも出せば、ひと家族の一日分はザラスが手に入る。

 つまりマーベルが残した借金は、庶民ならば一年はゆうに暮らせる金額を遥かに超えているということだ。だから借金の取り立てが後を絶たない。

 しかしマーベルの失踪後、仕事に明け暮れ疲れているリルカにしてみれば、こうも毎日代わる代わる家に押し寄せられては対応する気力も失せてしまい、ここしばらくは居留守を決め込んでいた。

 だからだろう、借金を取り立てに来た輩の誰かに、腹いせに窓に嵌め込まれたセレス石を割られてしまったのだ。

 セレス石はその丈夫さと、何より透明度が高い石で光を通すことから、高価ではあるが、建材や工芸品として薄く切り出したり加工した物が重宝されている。

「マジで、あのクソオヤジ」

 割れた欠片を売れないかと考えつつ拾い集めると、風を凌ぐために板を打ち付けながら、いっそのことどこかでマーベルの死体が見つかった方が、幾分マシだろうとリルカは鼻を鳴らす。

 腐っても剣豪マーベルの名は、リンドルナ全土に轟く生ける伝説のはずだ。

 愛妻家としても知られたマーベルなのだから、クレアを失った悲しみであとを追い自害したとあれば、国からだって見舞金の少しは出ただろうに。そう思ってリルカは不貞腐れる。

「この家も、手放さなきゃいけないのかな」

 リルカは呆然と、すっかり埃にまみれて荒れてしまった部屋の中を見つめる。妻を亡くして己を見失ったマーベルのことよりも、亡くなったクレアとの思い出が残る家だ。

 それをマーベルの借金のために、足元を見られた金額で買い叩こうとする輩まで現れたのだ。リルカは頭を抱えて溜め息を吐く。

「本当に、どこ行ったのよ。父さんのバカ」

 苛立ちよりも、置いて行かれた悲しみと情けなさでそう呟くと、昨夜からなにも口にしていないせいで空腹を訴えるように腹が鳴った。

「あぁあ、もう。お腹減ったし、ギレルのところに顔を出そうかな」

 幼馴染みであるギレルの両親が営む宿屋〈ブリランテ〉は、リルカも住まうアチューダリアの王都マスケスの中心部にあり、いつも盛況で大勢の客で賑わう人気店だ。

 昼は食堂、夜は酒場も営んでおり、店の看板娘ならぬ息子のギレルは、色白で目鼻立ちがはっきりとした美少年で、物腰も柔らかく食堂の息子にしては上品な話し方をする。

 幼い頃は特に、周りがその整った顔立ちへの憧れを拗らせて、男のくせにすぐ泣くぞといつも揶揄われ、泣きながら殴られるのを我慢するような理不尽な扱いを受けていた。

 一方リルカは幼い頃から喧嘩っ早く、マーベルの指導と血筋のおかげか腕も立ち、いつもギレルを庇って正義感をかざし、いじめっ子に喧嘩を売っては見事勝利を収めてきた。

 それが縁で今でもギレルには姉のように慕われているが、リルカは今年で十八になり、ギレルはもう十五だ。
 いい加減人に頼りっぱなしの幼馴染みには、姉離れして自立して欲しいと願うばかりだが、あまりにもリルカを慕うために、ギレルの両親はリルカを本当の娘のように扱ってくれる。

「おじさん、お腹減った」

 リルカはいつものように勝手知ったる裏口から調理場を覗き込むと、宿屋の調理場を切り盛りする店員たちと挨拶を交わして中に入り込む。

「おうリルカ、親父さんは相変わらず帰らねえのか」

 その中に居て、一際大きくガタイの良いギレルの父アズモが、鍋を振りながらそこに座れと調理台の端に置かれた椅子を指差す。

「帰ってくるワケないじゃない」

「でもなあ、リルカを置いていくなんて。マーベルさんは子煩悩な親父さんじゃないか」

「それいつの話よ。あんな酔いどれ借金オヤジより、おじさんの方がよっぽど子煩悩じゃない」

 リルカは大きく息を吐き出して悪態つくと、ギレルは居ないのかと、椅子に腰掛けながら食堂の方を覗き込む。

「学術発展のための発表会だかなんだかがあったらしくてな、学者連中がリンドルナ中から来てるんだよ。人手が足りなくてアイツも母ちゃんも朝から休憩無しだ」

「そうだったの。じゃあ私も手伝おうか」

「ならこれ食ったら頼めるか」

「いいよ」

 目の前に置かれた焼きたてのザラスと、ハッソー鳥の野菜炒めを勢いよく頬張ると、リルカは指で丸を作ってアズモに美味しいと合図する。

 ハッソー鳥は翼が退化し、その代わりに鳥の中でも群を抜いて早く走る。それゆえ特にもも肉に旨みが詰まった、広く食卓に並ぶ肉の一つだ。リルカの好物をアズモはよく知っている。

 夜が近付きミヒテとヌセが同時に天に浮かび、空が曖昧な色味を湛える時間になると、いつも以上に客が訪れて、リルカはギレルと話す暇もなく店中を走り回る。

「姉ちゃん、こっちにアーデ二杯」

「こっちも三杯頼む」

「かしこまりました!」

 アーデはダール酒の果汁割りで、アチューダリアでは広く飲まれる庶民的な酒の一種。
 ダールの実を砕いてから発酵させて作ったダール酒の原液は、渋みが強く苦くて度数も強すぎてそのままでは飲めない。だから果実の中でも特に甘いキエリの搾り汁で割って飲む。

 王都マスケスのあるニーデル地方はキエリの名産地で、アーデと一口に言っても種類は豊富にあり、瓶詰めにされたアーデはいわゆるアチューダリアの特産品だ。

 もちろんここ〈ブリランテ〉で出すアーデも、他では飲めない特有の味であり、酒場は特にこの味の良し悪しで客足が決まると言っても良いほどだ。

「おい、それより聞いたか。剣豪マーベルが借金して行方知れずになってる話」

 客の口から父の名前が出てギョッとするリルカだが、店中を走り回る店員がそのマーベルの娘だとは気付いてない様子なので、耳を大きくしながらすぐ近くの食卓を片付ける。

「なんでも〈モゼリオ〉にまで金借りてるらしくてよ、一人娘を借金のカタとして娼館だか奴隷商に売り飛ばすって聞いたぜ。可哀想なこった」

 リルカは耳を疑った。

 〈モゼリオ〉といえば、金さえ積めば人身売買から薬物の違法取引、武器の密輸などにも手を染める、いわゆる非道徳的なならず者の俗称だ。

 まさかマーベルはそんな奴らにまで金を借りていたと言うのか。父の作った借金とはいえ、踏み倒す気はさらさらないが、借金のカタとして売られるなら話は別だ。

 リルカはたった今、母譲りのプラチナホワイトに輝く髪をバッサリ切って、男装して身を隠すことを決意した。
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