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1巻
1-3
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これでいいんだと思う。だから笑顔で返事をすると、無言になるのがしんどくて、週明けのスケジュール確認の話題を振ってその場を繋いだ。
そして乗り換え駅で電車を降りるとキャリーケースを引いて改札を抜け、混雑する場所から少し外れて人の通りが少ない場所に移動する。
「ではここで失礼します」
「……そうか。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
なにか言いかけたようだったけれど、事業部長はいつものポーカーフェイスで片手をあげ、すぐに踵を返してその場を後にした。
その背中を見送りながら、言いようのない気持ちになったけれど、すぐに気持ちを切り替えて私もその場から移動する。
本当なら電車を乗り継いで帰ればいいのに、駅から出てタクシー乗り場に向かったのは、きっとこれ以上事業部長と一緒にいたくなかったからかもしれない。
自宅の最寄り駅までタクシーに乗り、駅前のスーパーに寄ってお惣菜を適当にカゴに放り込んで寝酒の缶ビールを買うことにした。
飛行機の中でぐっすり眠ったので、今夜はきっと寝つきが悪いだろう。
たった数日のことなのに、今回の出張ではちょっと色んなことがありすぎた。
(頭と気持ちを整理しないと)
モヤモヤする気持ちを持て余して歩くと、キャリーケースを引く音がやけに大きく響く気がする。
気持ちが沈んで、重たい足を引き摺るようにして駅前から十分ほど歩く。乳白色の少しファンタジックな外観のマンションが見えてようやく安堵から気が緩む。
「……ふぅ。ただいま」
玄関の電気をつけてパンプスを脱ぐと、すぐに洗面所に移動して手を洗ってから雑巾を固く絞る。
そしてキャリーケースのタイヤを綺麗に拭き、電気をつけたリビングに持ち込んで、ようやく荷解きに取りかかった。
バタバタと洗面所とリビングを往復して洗濯機を回し、ドレスをとりあえずハンガーにかけ、自由時間に購入したお土産を取り出して、自分用に買った紅茶を早速淹れることにした。
「なんか食欲ないなあ」
朝からなにも食べていないのに、鳩尾の辺りがキリキリする。これはもしかしなくても、ストレスで胃が参ってしまっているんだろうか。
胃をさすりながらリビングのソファーに腰を下ろし、淹れたばかりの紅茶を飲むと、優しいベリー系の甘い香りがリラックスを誘い、空腹の胃を満たしてくれた。
◇ ◇ ◇
まどろみの中で肌寒さを感じて腕を伸ばしたけれど、そこにいるはずの彼女はもういなかった。
俺はいつから彼女に好意を抱いていたんだろう。酒に酔ったせいにして、そこに邪な火を灯すのは簡単だった。
戸惑いながらも彼女が俺を受け入れてくれたのが嬉しくて、決して腕の中から逃れられないように抱き潰した自覚もある。
だけど目を覚ましたら彼女の気配はなくなっていた。
「……酒の勢い。そういうことにしたかったのかな」
俺は彼女よりもかなり歳上で、なんの面白みもない男だ。情けなくなって頭を抱える。
勝俣さんが俺の秘書になって一年。個人的なやり取りなんて、ほとんどと言っていいほど交わしたことがなかった。
彼女は仕事に対して真摯で真面目。負けず嫌いの節もあるのか、かなりの努力家でミスを成長のチャンスにきちんと切り替えてくるようなタイプだ。
そんな彼女に触発されて、俺自身も前向きに仕事に取り組むことができる環境なのに、一年も一緒に仕事してきて褒め言葉の一言もかけたことがないなんて。
今回の出張だって、本当なら彼女が付き添う必要はなかったはずだ。だけど彼女の責任感がパートナーを引き受けさせたんだろう。
「……断れなくさせたのは俺だよな」
酒の酔いに任せるなんて悪質なやり口で、触れてみたかった彼女の唇にキスをした。
酷く驚きながらも、とろんと蕩けた艶やかな表情に歯止めが利かなくなってしまった。
(本当……いい歳してなにやってんだよ)
彼女がいないベッドで目が覚めて、年甲斐もなく動揺した。
シーツを手繰り寄せて彼女の残り香が漂うと、あの蕩けるような時間が、シンガポールが見せた夢じゃなかったことだけは理解できた。
だけど同時に、彼女が望まないことをしでかしてしまったのだと、反省しても遅いのに後悔が押し寄せてきた。
「はあ……」
大きく溜め息を吐き出すと、すっかり温くなったコーヒーを一気に流し込む。
翌日顔を合わせた時も勝俣さんは強張った笑顔しか見せてはくれなかったし、その話題に触れることすら拒まれていた気がした。
女々しい溜め息を吐きながら頭を抱えると、テーブルに置いてあるスマホが着信で震える。
「非通知って、またか」
画面を見るなりげんなりした溜め息が出る。このひと月ほど、非通知での着信が時折かかってくる。
仕事上の相手なら非通知で電話がかかってくることはまずないし、おそらくどこかで番号が漏れたのだろう。
非通知での着信も、最初の頃は疑うでもなく電話に出たこともあったが、無言電話で相手の声は一切聞こえない。だからそのうち気味が悪くて放置するようになった。
「どこの誰なんだよ……」
気味の悪いことといえば、最近誰かに見られているような感じがする時がある。
それで神経が張り詰めて滅入っていたせいもあるのか、本来なら一線引くところだったのに、海外出張という非現実的な時間が感覚を麻痺させたのか、勝俣さんに手を出してしまった。
「ダメだ。これじゃ堂々巡りだ」
ソファーから立ち上がってキッチンに移動し、ウイスキーを開けてハイボールを作る。シラフじゃいられない気がするからだ。
その間にもまたスマホが鳴っているみたいだが、どうせまた非通知のイタズラ電話だろう。
適当にツマミを見繕ってリビングのソファーに戻ると、案の定かかってきた電話は非通知で、着信が途絶えたのを確認してすぐに非通知の電話を着信拒否に設定した。
なにを見るでもなくテレビをつけ、勝俣さんとの間にあったことをどうするべきなのか、このままうやむやにしていいのか考える。
責任ある大人として、酒の勢いということにして、なかったことにするのはどうかと思う反面、彼女のあの態度を見るに、向こうはそういうことにしたいのかもしれないと弱気になってしまう。
(好きだって、きちんと伝えるべきだったのかな)
火遊びのつもりだった訳じゃない。だけど彼女を目の前にしたら怖気付いてなにも言い出せなかった。
「俺ってこんなにウジウジした性格なんだな」
思わず情けない言葉が口から漏れる。
勝俣さんの連絡先なら知っている。スマホを手に取ってメッセージアプリを開き、彼女に連絡しようとして指が彷徨う。
ただの上司と部下でしかないはずの相手に、あの夜のことがあったからといって、馴れ馴れしくメッセージを送るのはおかしいだろうか。
これまで個人的なやり取りが一切なかった画面を見つめて女々しく悩んでいると、新しくメッセージが届いた。
送り主は叔父で、電話をしても構わないかと端的な文面に、またあの話かとあたりをつけて少しげんなりする。
「どうせあの話だろうな」
嘆息して大丈夫ですとメッセージを返すと、すぐに電話がかかってきた。
「はいもしもし」
『悪いな突然』
「大丈夫ですよ。どうかしましたか」
『分かってるんだろ。見合いの話だよ』
「叔父さん、俺にはそんな気ないですって言いましたよね」
『でもな京哉、お前ももういい歳だろ』
呆れた様子に、溜め息を吐きたいのは俺の方だと頭を抱える。叔父からの連絡は最近ずっとこの調子だ。
「叔父さんが気にかけてくれてるのは分かってます」
『なら、少し会ってみるだけでもどうなんだ』
「会ったところで進展させる気がないんですから、先方に手間をかけるだけですよ」
『会ってみれば意識が変わるかもしれないだろ。なにが不服なんだ』
「……お断りするのに、好意を持たれても迷惑だからですよ」
『会わなければ分からないじゃないか。そうやっていつまでのらりくらり過ごすつもりだ』
「俺にも俺の事情があるんです。心配してくれる気持ちはありがたいですが、せっつくようにされると余計に嫌になるんですよ」
まるで思春期真っ只中のガキの反抗だなと思いながらも、それが事実だから分かってもらうほかない。
確かに甥っ子が三十四にもなって独り身なのが心配なのは分かるが、気にすることはもっと他にあるだろう。
俺の置かれている立場が叔父を心配性にさせているのも充分理解できる。でもそんな世話をしてほしいと頼んだことは一度もない。
『お前も大人だ。確かに結婚だなんだと周りから干渉されるのは居心地も悪いだろう。だがな京哉、こちらのことも真剣に考えてくれんと困るんだよ』
「それは分かってます」
『それを信じてるから心配してるんだ』
「それも分かってます」
スピーカー越しに溜め息が聞こえて耳が痛い。叔父の発言が興味本位でないことくらい分かっている。だからこそモヤモヤした気持ちが広がって嫌になる。
俺の反応で今回は諦めたのか、持ち上がっている見合い話は断っておくと引いてくれたが、それもいつまで通用するのか分からない。
『また連絡する』
「あの、叔父さん。見合いの話はもう……」
『お前にその気がないのは分かってるよ』
「本当に申し訳ないんですが、お話をお受けする気がないのに、今までみたいに話を持ち込まれても先方にご迷惑になりますから」
『……今はそういうことにしといてやる。だけどいつまでも好きにできる訳じゃないんだぞ』
「分かってます」
『その言葉、信じてるからな』
念を押すような声に冗談は混じっていない。
親父が亡くなってから世話になりっぱなしの叔父に頭が上がらないのは事実だが、この話題だけは勘弁してほしい。
酷く疲れて電話を終えると、ソファーに倒れ込むように寝そべる。
「信じてるならそっとしといてくれよ……」
一番手っ取り早いのは、恋人を作ることだと分かっている。そう考えて勝俣さんとのことを思い出し、ますます痛む頭を抱えるしかなった。
◆ ◆ ◆
代休が明けた火曜日。
出勤するまでは変に緊張して胃が痛かったけど、デスクに座ってモニターに向かい淡々と仕事する事業部長を見ると、やはりあの夜のことは忘れてしまった方がいいと思えた。
「陽葉里おはよう。出張お疲れ」
同期で企画部の酒田瑞貴に声をかけられ、ふと我に返る。
「おはよう。あ、ちゃんと瑞貴用にお土産買ってあるよ」
「やった」
お土産を手渡して瑞貴との会話を切り上げると、就業前に各部署にお土産のお菓子を配る。そこでタイミングよく出勤してきた営業の峯村課長と出会した。
「やあ勝俣さん。お疲れ様」
「お疲れ様です。お口汚しですけど、良かったら峯村課長も召し上がってください」
峯村課長といえば社内では有名なイケメンで、独身の三十歳。
気さくで愛想が良く、明るめの色の髪は短くカットされ、精悍な顔立ちなのに甘さが際立つ垂れ目がちな目元。その目元のほくろが、母性本能をくすぐるチャームポイントだと騒ぐ女性社員も少なくない。
それに加えて兄弟姉妹に囲まれて育ったというだけあって、気配りが細やかで後輩への面倒見もいいとくれば、女性社員に限らず人気があるのも納得だろう。
だからなのか、峯村課長と話していると、お土産を渡しているだけなのに周りの女性社員からジロジロと不躾な視線を向けられる。
「ああ、そっか。シンガポール出張お疲れ様。楽しんでこれた?」
「楽しむだなんて。失敗しないように、緊張しっぱなしでした」
「あはは。勝俣さんが失敗なんてしないでしょ」
「いえいえ。事業部長のサポートでしたから。私だって気を遣いますよ」
「だろうね」
峯村課長は苦笑すると、一つもらうねと焼き菓子のパッケージを手に取ってデスクに向かった。
(だろうねって、ちょっと失礼じゃない?)
事業部長は確かに堅物で塩対応だけど、峯村課長みたいに四方八方にいい顔をしてヘラヘラしてるのとは、比べ物にならないと思う。
自分を貶められた訳でもないのにモヤモヤして複雑な気分になるけれど、視界の先で淡々と仕事をしている事業部長が見えてハッとする。
そうだ。私だってあんなことがなければ、きっと事業部長に対する見方は同じだったはずだ。
(どうかしてるのは私の方か……)
急に我に返ってしょんぼりすると、デスクに戻り、パソコンを立ち上げてからメールチェックに取りかかった。
午前の仕事を終えて昼休憩になると、瑞貴がランチに誘いに来て二人で馴染みのお蕎麦屋さんに行くことになった。
会社を出て裏手に回り込むと、世間話をしながら店を目指して歩く。
「それよりどうだったの? シンガポールの話聞かせてよ」
「そうだね。凄く豪華な部屋だった。パーティーの前にかなり自由時間もあったし、ガチガチの出張って感じじゃなくて楽しめたよ」
「アストラエアはラグジュアリー路線だもんね。泊まれたの羨ましいな。あ、そういえば結局どんなドレス着たの? 写真とかないの」
「まさか、写真は撮ってないよ。あ、報告書まとめないといけないんだった」
「なにそれ。パーティーの感想ってこと?」
「違う違う。ホテルを利用した感想」
「ああね」
ランチタイムで混雑した店に入ると、店の中の椅子に座って案内の順番を待つ。
「それにしてもさ、事業部長も太っ腹だよね」
「なに、突然」
瑞貴の言葉の意味が分からず、思わず顔を顰める。
「ドレスのことよ」
「ドレス? ああね。今時は会社のパーティーに参加するからって、イヤリングとかネックレスまで経費で落とせるんだね」
「……ちょっと陽葉里、あんたまさかそれ本気で言ってるの」
「なにが?」
「キョトンとした顔してんじゃないわよ。そんなの事業部長のポケットマネーに決まってるじゃない」
「嘘! アレ事業部長の自腹なの⁉」
思わず大きな声が出てハッとすると、ちょうど席の案内に来た店員さんに声をかけられ、瑞貴との会話が一旦途切れた。
(え……、まさか個人的に買ってくれたってこと?)
確かに違和感はあったけれど、なんでそんな当たり前のことに考えが及ばなかったんだろう。
そそくさと注文を済ませる瑞貴に急かされて山菜うどんを注文し、あんな物が経費で落ちる訳がないだろうと呆れた顔を向けられる。
「そんなの常識で考えてあり得ないでしょ」
「だって……え、どうしよう」
「どうしようって。ちゃんと改めてお礼でもすれば?」
お礼と言われても、あんなハイブランドの商品をまさか事業部長が自腹で購入したなんて、どうお礼すればいいのか見当もつかない。
青ざめる私を見て瑞貴は溜め息を吐き出すと、一緒にお礼のギフトを見に行こうかと助け舟を出してくれる。
「今日の帰りでも見に行く? でもまあ、あの事業部長のことだから素直に受け取ってくれないかもしれないけどね」
「ヤバい。瑞貴、どうしよう」
「ヤバいね。だいたい陽葉里は仕事はできても抜けてるところがあるよね。冷静に考えたら分かりそうなもんでしょ、普通」
「そうだよね。本当にどうかしてた」
そうだ。少し考えれば分かることなのに。
ただでさえ、あの夜のことがあって微妙な状況なのに、ドレスやハイヒールにバッグ、イヤリングにネックレスまで、会計が事業部長持ちだったなんて気まずすぎる。
それから瑞貴が話題を変えて、テーブルに運ばれたうどんを食べつつも、味も分からないまま心ここに在らずな状態でランチタイムを終え、この世の終わりのような気持ちで会社に戻った。
「とりあえず、仕事終わったら付き合うからさ」
「うん。ありがとう」
「本当に、しっかりしなさいよね」
ポンと肩を叩かれて苦笑されると、私も力なく笑うしかなかった。
そしてデスクに戻ってパソコンにログインしたところで、報告書のことを思い出して自宅からデータを送ったファイルを開いて作業に取り掛かる。
「勝俣さん、戻ってすぐに悪いんだけど少し構わないかな」
油断していたところに響いた事業部長の抑揚のない声に、無意識のうちに体がビクッと跳ねる。
(ヤバい。なにかやらかしたかな……)
ランチで瑞貴から諭されたが、それ以外にも失礼な失敗をしてしまっている気がして不安が募る。
「はい! いま伺います」
緊張のせいで上擦った返事をすると、手帳を手にしてデスクを離れ、事業部長の元へ向かう。
「アストラエアの報告書なんだが……」
「申し訳ありません。まだ作成中なので、本日中には提出させていただきます」
「そうか。明日の会議で資料として使いたいんだが構わないかな」
「はい、すぐに対応します」
「悪いね。よろしく頼むよ」
事業部長はそう言って片手をあげると、話は終わりと言わんばかりにモニターに視線を移してキーボードを叩き始めた。
その姿を見ていると、どうしてか胸の奥がズキッと痛む。
(……本当、いつも通りだな)
私ばかりドキドキして焦ったり動揺したり、変に緊張したりして冷や汗までかいてるのに、何事もない涼しげな顔をしている事業部長に少しイラついてしまう。
だけどおかしいのは私の方だ。
ドレスの件にしろ、あの夜のことにしろ、非日常的なことが重なりすぎて動揺してしまったけれど、彼にとってはどうでもいいことなんだろう。
そう思うとまた胸の奥が苦しくなる。
おそらくドレスの件については、やっぱり他意はなくて、自分のパートナーを任せるのだから、恥をかかされないように必要最低限のものを揃えさせたかっただけなのだ。
そしてあの夜のことも、酒に酔ったっていう言葉通り深い意味なんてなくて、たまたまそんな雰囲気になった時にそばにいたのが私だっただけ。
(やめよう。もう考えるだけバカらしい)
この二日間ずっと胸が苦しかったけれど、相手はあの事業部長なのだ。
気持ちを切り替えて報告書の作成に取りかかり、事前に取りまとめを頼まれていた会議資料と合わせてたたき台を作り、夕方にはそれを提出した。
退勤時間が迫ると電話やメールが一気に増え、その対応に追われて定時を迎える頃、提出した資料のOKももらえたので、ようやく帰り支度を始める。
チラリと視界に入る事業部長は、相変わらずのポーカーフェイスで淡々と仕事をこなしているし、私の視線に気づく気配もない。
(瑞貴はお礼した方がいいって言ってたけど……)
あれだけの物を手配してくれたのだから、お礼をするべきなのは分かってはいる。だけど必要経費と言われたことを思い出し、どんな意味だったのかと足踏みしてしまう。
事業部長の中で、あの夜のことは本当にどうでもいいお酒の勢いでのことでしかなかったんだろうか。そう思うと胸が締め付けられる気持ちになった。
◆ ◆ ◆
仕事だけは真面目に取り組んでいるつもりだったのに、目まぐるしいスケジュールの中で、どこか気持ちが浮き足立っていたんだろうか。
自分に向けられる厳しい態度に肝が冷える。
「らしくないね。でもこの資料じゃ使えないよ」
「……申し訳ありません」
「謝るなら、提出前にもう少し考えるべきだったと思うよ。本当に任せて大丈夫かな」
「はい。すぐに差し替え分に取りかかります」
いつも以上に冷淡な声の事業部長から注意を受けると、突き返された資料を握り締めてデスクに戻る。
このところ色々な案件が重なって、スケジュール管理だけで手一杯になっていたのは否めない。だけどすぐに頭を切り替えて会議資料を作り直す。
シンガポールに出張してから、早いものでもう一ヶ月。
私と事業部長の関係はこれといってなにも変わらないし、お互いあの夜のことに触れることもなく、仕事上のやり取りしかしていない。
そのことが少し寂しくて辛く感じることもあるけれど、さっきみたいに淡々と仕事のダメ出しを受けることも多いので、余計なことを考える暇もないと言った方が正しいかもしれない。
ふと視線を向けると、事業部長は電話に出て英語でなにやらやり取りをしている。アストラエアのスタッフとのやり取りだろうか。
(ちょっと休憩して頭切り替えようかな)
周りに一言声をかけて休憩ブースに移動すると、自販機でコーヒーを買って適当な席に座る。
「はぁ……やっちゃったな」
呟いた独り言が誰もいない休憩ブースに響く。
アストラエアがオープンしてから、現地のスタッフとのやり取りが密になる中、既存の国内ホテルも一部フロアのリニューアルが控えていることも手伝って、事業部長の担当業務は多岐にわたる。
目まぐるしく変化するスケジュール管理はもちろん、打ち合わせへの同行や会議やミーティングで使う資料作成。激務と表現すれば簡単だけど、作業は煩雑で頭が混乱してしまったのが原因だ。
「あれ? 勝俣さん、お疲れ」
落ち込んでコーヒーを飲んでいると、人気のない休憩ブースに峯村課長が現れた。
「お疲れ様です。今お戻りですか」
「うん。この後また出るけどね」
「お忙しいですね」
「いやいや、久松さんに比べたら大したことないよ。勝俣さんも忙しいでしょ」
峯村課長は私と会話しながら自販機でコーヒーを買い、すぐ隣の椅子に腰を下ろして気遣うように顔を覗き込んできた。
「顔色が良くないみたいだけど、大丈夫?」
「え、そうですか」
「なんかあったの」
「いえ、特には」
今しがたダメ出しを受けたばかりだけど、明らかに私のミスなので愚痴る訳にはいかない。
そして乗り換え駅で電車を降りるとキャリーケースを引いて改札を抜け、混雑する場所から少し外れて人の通りが少ない場所に移動する。
「ではここで失礼します」
「……そうか。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
なにか言いかけたようだったけれど、事業部長はいつものポーカーフェイスで片手をあげ、すぐに踵を返してその場を後にした。
その背中を見送りながら、言いようのない気持ちになったけれど、すぐに気持ちを切り替えて私もその場から移動する。
本当なら電車を乗り継いで帰ればいいのに、駅から出てタクシー乗り場に向かったのは、きっとこれ以上事業部長と一緒にいたくなかったからかもしれない。
自宅の最寄り駅までタクシーに乗り、駅前のスーパーに寄ってお惣菜を適当にカゴに放り込んで寝酒の缶ビールを買うことにした。
飛行機の中でぐっすり眠ったので、今夜はきっと寝つきが悪いだろう。
たった数日のことなのに、今回の出張ではちょっと色んなことがありすぎた。
(頭と気持ちを整理しないと)
モヤモヤする気持ちを持て余して歩くと、キャリーケースを引く音がやけに大きく響く気がする。
気持ちが沈んで、重たい足を引き摺るようにして駅前から十分ほど歩く。乳白色の少しファンタジックな外観のマンションが見えてようやく安堵から気が緩む。
「……ふぅ。ただいま」
玄関の電気をつけてパンプスを脱ぐと、すぐに洗面所に移動して手を洗ってから雑巾を固く絞る。
そしてキャリーケースのタイヤを綺麗に拭き、電気をつけたリビングに持ち込んで、ようやく荷解きに取りかかった。
バタバタと洗面所とリビングを往復して洗濯機を回し、ドレスをとりあえずハンガーにかけ、自由時間に購入したお土産を取り出して、自分用に買った紅茶を早速淹れることにした。
「なんか食欲ないなあ」
朝からなにも食べていないのに、鳩尾の辺りがキリキリする。これはもしかしなくても、ストレスで胃が参ってしまっているんだろうか。
胃をさすりながらリビングのソファーに腰を下ろし、淹れたばかりの紅茶を飲むと、優しいベリー系の甘い香りがリラックスを誘い、空腹の胃を満たしてくれた。
◇ ◇ ◇
まどろみの中で肌寒さを感じて腕を伸ばしたけれど、そこにいるはずの彼女はもういなかった。
俺はいつから彼女に好意を抱いていたんだろう。酒に酔ったせいにして、そこに邪な火を灯すのは簡単だった。
戸惑いながらも彼女が俺を受け入れてくれたのが嬉しくて、決して腕の中から逃れられないように抱き潰した自覚もある。
だけど目を覚ましたら彼女の気配はなくなっていた。
「……酒の勢い。そういうことにしたかったのかな」
俺は彼女よりもかなり歳上で、なんの面白みもない男だ。情けなくなって頭を抱える。
勝俣さんが俺の秘書になって一年。個人的なやり取りなんて、ほとんどと言っていいほど交わしたことがなかった。
彼女は仕事に対して真摯で真面目。負けず嫌いの節もあるのか、かなりの努力家でミスを成長のチャンスにきちんと切り替えてくるようなタイプだ。
そんな彼女に触発されて、俺自身も前向きに仕事に取り組むことができる環境なのに、一年も一緒に仕事してきて褒め言葉の一言もかけたことがないなんて。
今回の出張だって、本当なら彼女が付き添う必要はなかったはずだ。だけど彼女の責任感がパートナーを引き受けさせたんだろう。
「……断れなくさせたのは俺だよな」
酒の酔いに任せるなんて悪質なやり口で、触れてみたかった彼女の唇にキスをした。
酷く驚きながらも、とろんと蕩けた艶やかな表情に歯止めが利かなくなってしまった。
(本当……いい歳してなにやってんだよ)
彼女がいないベッドで目が覚めて、年甲斐もなく動揺した。
シーツを手繰り寄せて彼女の残り香が漂うと、あの蕩けるような時間が、シンガポールが見せた夢じゃなかったことだけは理解できた。
だけど同時に、彼女が望まないことをしでかしてしまったのだと、反省しても遅いのに後悔が押し寄せてきた。
「はあ……」
大きく溜め息を吐き出すと、すっかり温くなったコーヒーを一気に流し込む。
翌日顔を合わせた時も勝俣さんは強張った笑顔しか見せてはくれなかったし、その話題に触れることすら拒まれていた気がした。
女々しい溜め息を吐きながら頭を抱えると、テーブルに置いてあるスマホが着信で震える。
「非通知って、またか」
画面を見るなりげんなりした溜め息が出る。このひと月ほど、非通知での着信が時折かかってくる。
仕事上の相手なら非通知で電話がかかってくることはまずないし、おそらくどこかで番号が漏れたのだろう。
非通知での着信も、最初の頃は疑うでもなく電話に出たこともあったが、無言電話で相手の声は一切聞こえない。だからそのうち気味が悪くて放置するようになった。
「どこの誰なんだよ……」
気味の悪いことといえば、最近誰かに見られているような感じがする時がある。
それで神経が張り詰めて滅入っていたせいもあるのか、本来なら一線引くところだったのに、海外出張という非現実的な時間が感覚を麻痺させたのか、勝俣さんに手を出してしまった。
「ダメだ。これじゃ堂々巡りだ」
ソファーから立ち上がってキッチンに移動し、ウイスキーを開けてハイボールを作る。シラフじゃいられない気がするからだ。
その間にもまたスマホが鳴っているみたいだが、どうせまた非通知のイタズラ電話だろう。
適当にツマミを見繕ってリビングのソファーに戻ると、案の定かかってきた電話は非通知で、着信が途絶えたのを確認してすぐに非通知の電話を着信拒否に設定した。
なにを見るでもなくテレビをつけ、勝俣さんとの間にあったことをどうするべきなのか、このままうやむやにしていいのか考える。
責任ある大人として、酒の勢いということにして、なかったことにするのはどうかと思う反面、彼女のあの態度を見るに、向こうはそういうことにしたいのかもしれないと弱気になってしまう。
(好きだって、きちんと伝えるべきだったのかな)
火遊びのつもりだった訳じゃない。だけど彼女を目の前にしたら怖気付いてなにも言い出せなかった。
「俺ってこんなにウジウジした性格なんだな」
思わず情けない言葉が口から漏れる。
勝俣さんの連絡先なら知っている。スマホを手に取ってメッセージアプリを開き、彼女に連絡しようとして指が彷徨う。
ただの上司と部下でしかないはずの相手に、あの夜のことがあったからといって、馴れ馴れしくメッセージを送るのはおかしいだろうか。
これまで個人的なやり取りが一切なかった画面を見つめて女々しく悩んでいると、新しくメッセージが届いた。
送り主は叔父で、電話をしても構わないかと端的な文面に、またあの話かとあたりをつけて少しげんなりする。
「どうせあの話だろうな」
嘆息して大丈夫ですとメッセージを返すと、すぐに電話がかかってきた。
「はいもしもし」
『悪いな突然』
「大丈夫ですよ。どうかしましたか」
『分かってるんだろ。見合いの話だよ』
「叔父さん、俺にはそんな気ないですって言いましたよね」
『でもな京哉、お前ももういい歳だろ』
呆れた様子に、溜め息を吐きたいのは俺の方だと頭を抱える。叔父からの連絡は最近ずっとこの調子だ。
「叔父さんが気にかけてくれてるのは分かってます」
『なら、少し会ってみるだけでもどうなんだ』
「会ったところで進展させる気がないんですから、先方に手間をかけるだけですよ」
『会ってみれば意識が変わるかもしれないだろ。なにが不服なんだ』
「……お断りするのに、好意を持たれても迷惑だからですよ」
『会わなければ分からないじゃないか。そうやっていつまでのらりくらり過ごすつもりだ』
「俺にも俺の事情があるんです。心配してくれる気持ちはありがたいですが、せっつくようにされると余計に嫌になるんですよ」
まるで思春期真っ只中のガキの反抗だなと思いながらも、それが事実だから分かってもらうほかない。
確かに甥っ子が三十四にもなって独り身なのが心配なのは分かるが、気にすることはもっと他にあるだろう。
俺の置かれている立場が叔父を心配性にさせているのも充分理解できる。でもそんな世話をしてほしいと頼んだことは一度もない。
『お前も大人だ。確かに結婚だなんだと周りから干渉されるのは居心地も悪いだろう。だがな京哉、こちらのことも真剣に考えてくれんと困るんだよ』
「それは分かってます」
『それを信じてるから心配してるんだ』
「それも分かってます」
スピーカー越しに溜め息が聞こえて耳が痛い。叔父の発言が興味本位でないことくらい分かっている。だからこそモヤモヤした気持ちが広がって嫌になる。
俺の反応で今回は諦めたのか、持ち上がっている見合い話は断っておくと引いてくれたが、それもいつまで通用するのか分からない。
『また連絡する』
「あの、叔父さん。見合いの話はもう……」
『お前にその気がないのは分かってるよ』
「本当に申し訳ないんですが、お話をお受けする気がないのに、今までみたいに話を持ち込まれても先方にご迷惑になりますから」
『……今はそういうことにしといてやる。だけどいつまでも好きにできる訳じゃないんだぞ』
「分かってます」
『その言葉、信じてるからな』
念を押すような声に冗談は混じっていない。
親父が亡くなってから世話になりっぱなしの叔父に頭が上がらないのは事実だが、この話題だけは勘弁してほしい。
酷く疲れて電話を終えると、ソファーに倒れ込むように寝そべる。
「信じてるならそっとしといてくれよ……」
一番手っ取り早いのは、恋人を作ることだと分かっている。そう考えて勝俣さんとのことを思い出し、ますます痛む頭を抱えるしかなった。
◆ ◆ ◆
代休が明けた火曜日。
出勤するまでは変に緊張して胃が痛かったけど、デスクに座ってモニターに向かい淡々と仕事する事業部長を見ると、やはりあの夜のことは忘れてしまった方がいいと思えた。
「陽葉里おはよう。出張お疲れ」
同期で企画部の酒田瑞貴に声をかけられ、ふと我に返る。
「おはよう。あ、ちゃんと瑞貴用にお土産買ってあるよ」
「やった」
お土産を手渡して瑞貴との会話を切り上げると、就業前に各部署にお土産のお菓子を配る。そこでタイミングよく出勤してきた営業の峯村課長と出会した。
「やあ勝俣さん。お疲れ様」
「お疲れ様です。お口汚しですけど、良かったら峯村課長も召し上がってください」
峯村課長といえば社内では有名なイケメンで、独身の三十歳。
気さくで愛想が良く、明るめの色の髪は短くカットされ、精悍な顔立ちなのに甘さが際立つ垂れ目がちな目元。その目元のほくろが、母性本能をくすぐるチャームポイントだと騒ぐ女性社員も少なくない。
それに加えて兄弟姉妹に囲まれて育ったというだけあって、気配りが細やかで後輩への面倒見もいいとくれば、女性社員に限らず人気があるのも納得だろう。
だからなのか、峯村課長と話していると、お土産を渡しているだけなのに周りの女性社員からジロジロと不躾な視線を向けられる。
「ああ、そっか。シンガポール出張お疲れ様。楽しんでこれた?」
「楽しむだなんて。失敗しないように、緊張しっぱなしでした」
「あはは。勝俣さんが失敗なんてしないでしょ」
「いえいえ。事業部長のサポートでしたから。私だって気を遣いますよ」
「だろうね」
峯村課長は苦笑すると、一つもらうねと焼き菓子のパッケージを手に取ってデスクに向かった。
(だろうねって、ちょっと失礼じゃない?)
事業部長は確かに堅物で塩対応だけど、峯村課長みたいに四方八方にいい顔をしてヘラヘラしてるのとは、比べ物にならないと思う。
自分を貶められた訳でもないのにモヤモヤして複雑な気分になるけれど、視界の先で淡々と仕事をしている事業部長が見えてハッとする。
そうだ。私だってあんなことがなければ、きっと事業部長に対する見方は同じだったはずだ。
(どうかしてるのは私の方か……)
急に我に返ってしょんぼりすると、デスクに戻り、パソコンを立ち上げてからメールチェックに取りかかった。
午前の仕事を終えて昼休憩になると、瑞貴がランチに誘いに来て二人で馴染みのお蕎麦屋さんに行くことになった。
会社を出て裏手に回り込むと、世間話をしながら店を目指して歩く。
「それよりどうだったの? シンガポールの話聞かせてよ」
「そうだね。凄く豪華な部屋だった。パーティーの前にかなり自由時間もあったし、ガチガチの出張って感じじゃなくて楽しめたよ」
「アストラエアはラグジュアリー路線だもんね。泊まれたの羨ましいな。あ、そういえば結局どんなドレス着たの? 写真とかないの」
「まさか、写真は撮ってないよ。あ、報告書まとめないといけないんだった」
「なにそれ。パーティーの感想ってこと?」
「違う違う。ホテルを利用した感想」
「ああね」
ランチタイムで混雑した店に入ると、店の中の椅子に座って案内の順番を待つ。
「それにしてもさ、事業部長も太っ腹だよね」
「なに、突然」
瑞貴の言葉の意味が分からず、思わず顔を顰める。
「ドレスのことよ」
「ドレス? ああね。今時は会社のパーティーに参加するからって、イヤリングとかネックレスまで経費で落とせるんだね」
「……ちょっと陽葉里、あんたまさかそれ本気で言ってるの」
「なにが?」
「キョトンとした顔してんじゃないわよ。そんなの事業部長のポケットマネーに決まってるじゃない」
「嘘! アレ事業部長の自腹なの⁉」
思わず大きな声が出てハッとすると、ちょうど席の案内に来た店員さんに声をかけられ、瑞貴との会話が一旦途切れた。
(え……、まさか個人的に買ってくれたってこと?)
確かに違和感はあったけれど、なんでそんな当たり前のことに考えが及ばなかったんだろう。
そそくさと注文を済ませる瑞貴に急かされて山菜うどんを注文し、あんな物が経費で落ちる訳がないだろうと呆れた顔を向けられる。
「そんなの常識で考えてあり得ないでしょ」
「だって……え、どうしよう」
「どうしようって。ちゃんと改めてお礼でもすれば?」
お礼と言われても、あんなハイブランドの商品をまさか事業部長が自腹で購入したなんて、どうお礼すればいいのか見当もつかない。
青ざめる私を見て瑞貴は溜め息を吐き出すと、一緒にお礼のギフトを見に行こうかと助け舟を出してくれる。
「今日の帰りでも見に行く? でもまあ、あの事業部長のことだから素直に受け取ってくれないかもしれないけどね」
「ヤバい。瑞貴、どうしよう」
「ヤバいね。だいたい陽葉里は仕事はできても抜けてるところがあるよね。冷静に考えたら分かりそうなもんでしょ、普通」
「そうだよね。本当にどうかしてた」
そうだ。少し考えれば分かることなのに。
ただでさえ、あの夜のことがあって微妙な状況なのに、ドレスやハイヒールにバッグ、イヤリングにネックレスまで、会計が事業部長持ちだったなんて気まずすぎる。
それから瑞貴が話題を変えて、テーブルに運ばれたうどんを食べつつも、味も分からないまま心ここに在らずな状態でランチタイムを終え、この世の終わりのような気持ちで会社に戻った。
「とりあえず、仕事終わったら付き合うからさ」
「うん。ありがとう」
「本当に、しっかりしなさいよね」
ポンと肩を叩かれて苦笑されると、私も力なく笑うしかなかった。
そしてデスクに戻ってパソコンにログインしたところで、報告書のことを思い出して自宅からデータを送ったファイルを開いて作業に取り掛かる。
「勝俣さん、戻ってすぐに悪いんだけど少し構わないかな」
油断していたところに響いた事業部長の抑揚のない声に、無意識のうちに体がビクッと跳ねる。
(ヤバい。なにかやらかしたかな……)
ランチで瑞貴から諭されたが、それ以外にも失礼な失敗をしてしまっている気がして不安が募る。
「はい! いま伺います」
緊張のせいで上擦った返事をすると、手帳を手にしてデスクを離れ、事業部長の元へ向かう。
「アストラエアの報告書なんだが……」
「申し訳ありません。まだ作成中なので、本日中には提出させていただきます」
「そうか。明日の会議で資料として使いたいんだが構わないかな」
「はい、すぐに対応します」
「悪いね。よろしく頼むよ」
事業部長はそう言って片手をあげると、話は終わりと言わんばかりにモニターに視線を移してキーボードを叩き始めた。
その姿を見ていると、どうしてか胸の奥がズキッと痛む。
(……本当、いつも通りだな)
私ばかりドキドキして焦ったり動揺したり、変に緊張したりして冷や汗までかいてるのに、何事もない涼しげな顔をしている事業部長に少しイラついてしまう。
だけどおかしいのは私の方だ。
ドレスの件にしろ、あの夜のことにしろ、非日常的なことが重なりすぎて動揺してしまったけれど、彼にとってはどうでもいいことなんだろう。
そう思うとまた胸の奥が苦しくなる。
おそらくドレスの件については、やっぱり他意はなくて、自分のパートナーを任せるのだから、恥をかかされないように必要最低限のものを揃えさせたかっただけなのだ。
そしてあの夜のことも、酒に酔ったっていう言葉通り深い意味なんてなくて、たまたまそんな雰囲気になった時にそばにいたのが私だっただけ。
(やめよう。もう考えるだけバカらしい)
この二日間ずっと胸が苦しかったけれど、相手はあの事業部長なのだ。
気持ちを切り替えて報告書の作成に取りかかり、事前に取りまとめを頼まれていた会議資料と合わせてたたき台を作り、夕方にはそれを提出した。
退勤時間が迫ると電話やメールが一気に増え、その対応に追われて定時を迎える頃、提出した資料のOKももらえたので、ようやく帰り支度を始める。
チラリと視界に入る事業部長は、相変わらずのポーカーフェイスで淡々と仕事をこなしているし、私の視線に気づく気配もない。
(瑞貴はお礼した方がいいって言ってたけど……)
あれだけの物を手配してくれたのだから、お礼をするべきなのは分かってはいる。だけど必要経費と言われたことを思い出し、どんな意味だったのかと足踏みしてしまう。
事業部長の中で、あの夜のことは本当にどうでもいいお酒の勢いでのことでしかなかったんだろうか。そう思うと胸が締め付けられる気持ちになった。
◆ ◆ ◆
仕事だけは真面目に取り組んでいるつもりだったのに、目まぐるしいスケジュールの中で、どこか気持ちが浮き足立っていたんだろうか。
自分に向けられる厳しい態度に肝が冷える。
「らしくないね。でもこの資料じゃ使えないよ」
「……申し訳ありません」
「謝るなら、提出前にもう少し考えるべきだったと思うよ。本当に任せて大丈夫かな」
「はい。すぐに差し替え分に取りかかります」
いつも以上に冷淡な声の事業部長から注意を受けると、突き返された資料を握り締めてデスクに戻る。
このところ色々な案件が重なって、スケジュール管理だけで手一杯になっていたのは否めない。だけどすぐに頭を切り替えて会議資料を作り直す。
シンガポールに出張してから、早いものでもう一ヶ月。
私と事業部長の関係はこれといってなにも変わらないし、お互いあの夜のことに触れることもなく、仕事上のやり取りしかしていない。
そのことが少し寂しくて辛く感じることもあるけれど、さっきみたいに淡々と仕事のダメ出しを受けることも多いので、余計なことを考える暇もないと言った方が正しいかもしれない。
ふと視線を向けると、事業部長は電話に出て英語でなにやらやり取りをしている。アストラエアのスタッフとのやり取りだろうか。
(ちょっと休憩して頭切り替えようかな)
周りに一言声をかけて休憩ブースに移動すると、自販機でコーヒーを買って適当な席に座る。
「はぁ……やっちゃったな」
呟いた独り言が誰もいない休憩ブースに響く。
アストラエアがオープンしてから、現地のスタッフとのやり取りが密になる中、既存の国内ホテルも一部フロアのリニューアルが控えていることも手伝って、事業部長の担当業務は多岐にわたる。
目まぐるしく変化するスケジュール管理はもちろん、打ち合わせへの同行や会議やミーティングで使う資料作成。激務と表現すれば簡単だけど、作業は煩雑で頭が混乱してしまったのが原因だ。
「あれ? 勝俣さん、お疲れ」
落ち込んでコーヒーを飲んでいると、人気のない休憩ブースに峯村課長が現れた。
「お疲れ様です。今お戻りですか」
「うん。この後また出るけどね」
「お忙しいですね」
「いやいや、久松さんに比べたら大したことないよ。勝俣さんも忙しいでしょ」
峯村課長は私と会話しながら自販機でコーヒーを買い、すぐ隣の椅子に腰を下ろして気遣うように顔を覗き込んできた。
「顔色が良くないみたいだけど、大丈夫?」
「え、そうですか」
「なんかあったの」
「いえ、特には」
今しがたダメ出しを受けたばかりだけど、明らかに私のミスなので愚痴る訳にはいかない。
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