浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク

揚羽(ageha)

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60歳からのリスタート

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 商店街は、夜へ沈みかける直前の、ほのかな吐息のような柔らかさに包まれていた。
貴美子は、三つの鞄を抱えて歩いていた。肩のバッグ、手提げの布袋、背中のリュック。信号の前で足を止めた拍子に、リュックの隙間から小さなメモ帳が落ちた。
俺が拾い上げる。
「危ねぇな。落としたら、探すのが大仕事になるところだったぜ」
「……ありがとうございます」
「字が綺麗だな。几帳面で……ちょいと詰め込み気質の字だ」
俺は名乗った。
「萬屋マイク。通りすがりの探偵だよ」
「……探偵さん? まるで占い師のようですわ」
「占いはやってねぇが、人の性格を当てるのは、まぁ得意らしい」
夕暮れの光が、俺のコートの端を淡く染めていた。貴美子はそれを、しばらく見ていた。

 信号が青に変わった。
「鞄、多いな。三つ持ちはベテランだ」
「若い頃からなんです……持っていないと落ち着かなくて」
「それも、その人の生きる姿勢だよ」
俺は言った。
「珈琲でも飲んでくか」
「……よろしいのですか、私なんかが」
「いいよ。来る人は拒まねぇ主義でね」
路地に入ると、小さな木の扉があった。
「入んなよ。嫌ならすぐ帰ればいい」

 扉を開けると、部屋に焙煎豆の匂いが満ちていた。
「そこ座んな。鞄、いったん全部降ろしな」
貴美子が三つの鞄を床に置く。
「定年、最近だろ」
「……どうして、分かるのですか」
「心身が空っぽで疲れてるって顔してっから」
「六十まで働きました。やっと自由だと思ったのに……自由って、こんなに心細いものなのですね」
「道幅が急に広くなっただけさ。これからの歩き方は、自分で決めりゃいい」
「やっぱり……マイクさん、占い師みたいですわね」
「ただのお節介探偵だよ。ほら、鞄、ほどこうぜ」
机に品が並びはじめた。
「おっと……停電か。たまにあるんだよ、ここ」
俺は懐中電灯を点けた。
「……暗いと、余計にいろいろ見えてしまいますわね」
「そういうもんさ。陰影は、いらねぇもんを消す」

 照明が戻った。
「戻りましたわ」
俺は箱を差し出した。
「明るさと暗がり、両方から見て整理するのも悪くねぇ」
「私……選べるでしょうか。全部、大事にしてきたものなんです……でも今は、何が必要で、何が私を縛っているのか……」
「人生は急かさねぇ。いまのあんたに合うもんだけ、選べばいい」
「……私は、何を持っていけば」
「未来に必要なもんだけだ。それ以外はここに置いとけ。捨てなくていい」
「思い出の避難箱だ。しばらく休ませてやる……飲み屋のボトルキープみたいなもんさ」
「……軽くなりましたわ」
「見りゃわかる。肩の線が前向いてる」
「私……何かを始めたいのです。声を使うことを、試してみたい気がいたします」
「いいじゃねぇか。読み聞かせでも朗読でも。あんたの声なら届く」
「本当に……?」
「本当だよ。俺、嘘つくの苦手でね」

 外へ出ると、夜の空気がやわらかく街に降りていた。
「貴美子。あんた、今日……誕生日みてぇな顔してるぜ」
「まぁ……そんなふうに見えますの?」
「見えるさ。自由に迷って、自由に選び直した人の顔だ」
「これからの私は……今日よりもう少し、自分を好きでいたいです」
「似合うぜ。その生き方、あんたに」
「……やっぱりマイクさん、占い師みたいですわ」
「ちげぇっての」
「でも──私の未来を、そっと照らしてくださいました」
「読み聞かせ、うちで練習していいぞ」
「ありがとうございます」
「気ぃつけて帰れ」
貴美子は静かにうなずき、夜の商店街へ歩いていった。
未来は、もう動いていた。
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