浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク

揚羽(ageha)

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端境キ

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 浦和の商店街を歩いていた。午前とも午後ともつかない時間帯で、空は明るいのに影が長い。シャッターを半分下ろした店と、まだ声を張り上げている八百屋が、同じ通りに並んでいる。閉める準備と、続ける意志が、同時に存在している。今日は何も起きなければいい、そう思う日は決まって、世の中の継ぎ目みたいなものが目に入る。事件の匂いはない。ただ、均されていない段差だけが残っている。探偵の仕事というのは、派手な出来事よりも、こういう引っかかりを見逃さないことだ。誰も気にしないが、確かにそこにある違和感。それが、後になって形になることがある。事務所に戻ると、貴美子が来ていた。三味線を一本、三味線ケースに入れて抱えている。軽い楽器だが、持ち方に無駄がない。慣れだ。慣れというのは、時間の積み上げだ。修理の帰りに、少し寄っただけらしい。
 
「重てぇだろ」
俺が言うと、
「いえ、これくらいなら」
と貴美子は言った。俺も小中高と三味線をやっていた。懐かしさに負けて、少しだけ触らせてもらう。まずは調弦だ。糸を締め、緩め、音を探る。耳で合わせているつもりでも、最後は指と腹で決める。学生の頃、部活で本歌取りの真似をして、曲を作ったことがある。有名な短歌の頭の五音だけを借り、残りを自分でつなぐ遊びだった。当時は世界が狭く、それで全部を分かったつもりになっていた。今聞けば、きっと甘い出来だろう。旋律はもう忘れちまった。調弦を終えて撥を落とすと、音は外れなかった。指は思うように動かないが、間合いだけは身体の奥に残っている。出来るふうに、まだ出来る。そういう状態だ。三味線は三キロほどしかない。持ち上げれば軽い。だが、そこに積もった時間は軽くない。俺は三味線を戻す。貴美子は何も言わず、俺の前に腰を据えた。そこからは、たっぷりだった。糸を鳴らし、唄を乗せ、節を変え、間を伸ばし、また詰める。短い唄も、長い唄も交えながら、いくつもの情景を行き来する。三味線は唄を支え、唄は言葉を運ぶ。五七五七七で切り取られた人生が、一節ごとに立ち上がり、事務所の壁に静かに染みていく。俺は口を挟まなかった。ただ、聞いていた。合間に珈琲を淹れる。豆を挽き、湯を落とす。急がない動作の中で、音と唄が部屋の空気を整えていく。昼と夜の境目で、役目を終える音だった。貴美子が帰ると、事務所は静かになった。その静けさが、妙に重い。
 
 夜になり、腹が減った。近所のタイ料理の店に入る。材料を空輸してまで、日本で何十年も商売を続けている店だ。トムヤムクンを頼む。ホーの麺が入っていて、辛さと酸味の奥に、腹を確実に満たす力がある。店内を見回す。働いているのは海外の人たちだ。客もそうだ。最近、俺が歩いた現場はどこも似ている。コンビニ、旅館、工場、清掃の現場。日本人がいないわけじゃない。ただ、偶然触れるのは、決まって海外の人たちばかりだ。ニュースをつければ、日本人は出てくる。人を刺した、人を騙した、海外まで行ってうまい話に乗り、被害にあった。そんな顔ばかりが流れてくる。一方で、海外の人たちは、騙されないように気をつけ、詐欺の儲け話にも乗らず、わざわざ日本まで来て、黙って日本を支えている。誰が悪い、という話じゃない。ただ、現場と画面の中が、決定的に噛み合っていない。地道に働くこと、他人に迷惑をかけないこと、毎日同じ場所に立ち続けること。それは口にすれば軽いが、実際には相当な覚悟がいる。その覚悟を、今は外から来た人たちのほうが、静かに引き受けているように見える。茶道や武道、日本庭園や伝統工芸。和紙、藍染、日本画、囲碁、狂言。ああいう世界で、外国から来た連中が、弟子入りして残っている話を思い出す。わびだの、さびだのを、理屈じゃなく身体で掴もうとする。国籍は関係ない。続ける覚悟があるかどうかだ。
 
 腹が温まり、事務所に戻る。電気を落とす前に、昼間、三味線が置かれていた場所を見る。音はもうない。だが、間だけが残っている。ここは端境だ。内と外、日本人と海外の人、続ける者と消える者、そのどれにも転び得る場所だ。軽い三味線が運んできたのは、重たい現実だった。俺は椅子に腰を下ろし、煙草に火を点ける。どっちにも行けるし、どっちにも行かないことも出来る。ただ、考えるのをやめた瞬間に、落ちる場所だけははっきりしている。
「……このままだと、俺、ホームシックになりそうだぞ」
誰に言うでもなく、そう呟いて、煙を天井へ逃がした。
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