DESTINY!!

藤原 秋

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幕間Ⅱ~鋼の騎士~

堕つる翼

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 早朝オレインに呼びつけられたペーレウスは、謁見の間で憤怒の形相の主君と対面することとなった。

「ペーレウス、貴様、私の許可を得ずに監獄塔へ赴き、シェイドと面会を果たしたそうだな!」

 激怒するオレインの傍らにはロイド公爵がうやうやしい態度で控え、赤い絨毯じゅうたんの上で片膝を折ったペーレウスをしてやったりの表情で見つめている。

「己の職権を乱用し、監獄塔の責任者を半ば脅しつけて罪人に会うとは何事だ! 貴様もあやつと結託して、この私を欺こうとしているのか!!」
「―――違います! シェイドに会ったことは事実ですが、決してそのようなことは……! 陛下、まずは私の話をお聞き下さい!」
「ええい、黙れッ!!!」

 唾を飛び散らせてオレインはペーレウスを怒鳴りつけ、血走った眼を向けた。

「言ったはずだな、二度目はないと……! ペーレウス、貴様に謹慎を申し渡す! 沙汰は追って伝える、それまで城内に足を踏み入れることはまかりならぬ!! 自宅にて猛省するがよい、いいなッ!!」

 ペーレウスは息を飲んだ。今この時に、自分が王城を離れるわけにはいかない……!

「陛下、お待ち下さい! どうか私の話を! 処分はそれからに……お願いでございます!!」
「聞く耳持たぬ! 貴様は、私の信頼を裏切ったのだ!! 私は、貴様を……あれほど買っていたというのに……!」

 顔を歪ませ、悲痛な声を放って、オレインは懇願するペーレウスを切り捨てた。

「―――衛兵、こやつを連れて行け!」

 国王命に従い、衛兵達が左右から数人がかりでペーレウスを取り囲み、謁見の間から引きずり出そうとする。

「陛下ッ……お待ち下さい! 私は……! 私もシェイドも、貴方を裏切ってなどいませんッ!!」

 衛兵達に抵抗しながら、ペーレウスは力の限りオレインに訴えた。

「どうか冷静になって私の話をお聞き下さい! この国は、今っ……重大な岐路に立たされているのです! このままでは……!」

 叫ぶペーレウスに背を向け、オレインは頑なに対話を拒絶した。

「陛下ッ……陛下ーッ! お願いです、どうか私の話を……!」

 ペーレウスの必死の叫びは、無情にも厚い扉によって閉ざされた。







「あなた……! お帰りなさい、お仕事の方は落ち着いたの……?」

 ここしばらく王城に泊まり込んでいたペーレウスの突然の帰宅に、テティスは驚きながら夫を迎え入れた。まだ昼前という時刻である。

 激務の為だろうか、久し振りに見た夫の顔には無精髭が生え、ひどく憔悴しょうすいしているように見えた。顔色も悪く、少しやせたようだ。

「とても落ち着いたとは言えない状況なんだけど、事情が変わってさ……」

 歯切れの悪いペーレウスの回答に察するものがあったテティスは、何も聞かず、まずは夫を休ませることにした。

「とりあえずベッドで休んで。ひどい顔をしているわ……今の貴方には休息が必要よ」
「……。あぁ、そうだな……」

 自身の状態を顧みて、ペーレウスは頷いた。不眠不休に近い状態で働き続けていた身体はひどく重く、考えねばならないことは山積みだったが、疲弊しきった頭では上手くそれをまとめることが出来そうになかった。

「……アキレウスは?」
「近所の子供達と外へ遊びに行っているわ。……お腹は空いていない?」
「朝から何も食べていないけど、食欲がないんだ」
「じゃあ、スープを温めて持っていくわ。少しでも口に入れて、それからゆっくりと寝て」

 ペーレウスは妻の心遣いに感謝した。

 優しい味付けのスープで栄養を補給しベッドに横たわると、ペーレウスはすぐに深い眠りに落ちた。そして目を覚ました時、辺りは黄昏色に染まる時刻になっていた。

 テティスはダイニングで夕食の準備に取り掛かろうとしているところだった。

「……テティス」

 名前を呼ぶと、ペーレウスの姿を認めた彼女は笑顔を返した。

「よく眠っていたわね。疲れは取れた?」
「取れた、とは言えないけど……ずいぶん楽になったよ。……アキレウスは?」
「一度お昼を食べに戻ってきて、またすぐに遊びに出掛けたわ。いつもは日が暮れるまで遊んでいるんだけれど、貴方が帰ってきたことを伝えたらすごく喜んでいたから、今日は早めに帰ってくるんじゃないかしら」

 そうか、と呟いて、ペーレウスはダイニングの椅子に腰を下ろした。

「……テティス。話があるんだ」

 改まってそう切り出したペーレウスのいつもとは違う固い雰囲気に、テティスは夕食の支度の手を止め、神妙な面持ちで彼の正面の席に座った。

「……どうしたの?」
「実は……」

 ペーレウスは重い口を開き、これまでの経緯いきさつをテティスに語った。語りながら自身の中で改めて状況を整理していき、自らの進むべき方向を明確に見い出していく。

 話を聞くにつれ、事の重大性を理解したテティスの表情は硬いものになっていく。だが彼女は気丈にも取り乱すことなく、現状を受け止めて、夫の話に静かに耳を傾け続けた。

 窓から差し込む黄昏の光が徐々に薄闇に飲まれ始め、次第に濃くなる影を室内に落としていく。

「ただいまぁっ!」

 元気な声を響かせ、完全に日が落ちる前にアキレウスが帰ってきた。

「あっ、お父さん! お帰りなさい!! ねぇっ、明日はお休み!? 剣の稽古出来る!?」

 顔を輝かせて駆け寄ってきた一人息子に、ペーレウスは申し訳ない思いで答えた。

「すまないな、アキレウス。父さん、しばらくは休めそうにないんだ……」
「えぇーっ、何で!?」
「お父さんは忙しいのよ、アキレウス。ほら、夕飯前にシャワーを浴びてきなさい。泥だらけじゃないの」

 渋る息子を浴室へと追いやりながら、テティスは暗くなった室内に明りを灯した。

「……噂で、シェイドが拘束されたらしいという話は耳にしていたの。まさかとは思っていたんだけれど……それどころか、そんなにも由々しい事態になっていたなんて……」
「シェイド自身に非はない……オレは、何としてもあいつを救い出さなければならない。明日はレイドリック殿下が成人を迎える18の誕生日だ……不穏分子は恐らく今夜、動き出す」

 テーブルの上で両の拳を握りしめるペーレウスに歩み寄り、テティスは背後から労わるようにして夫を包み込んだ。きつく握られた両の拳に、そっと両手を重ね合わせる。

「なら、一刻も早くシェイドを助け出して陛下をお止めしなければ……。この国の為にも、わたし達の友人の為にも―――貴方の取るべき道は、決まっている」
「テティス……」

 ペーレウスは目を見開いた。

「許して、くれるのか?」

 振り仰ぐ夫を見つめて、テティスは優しい微笑を浮かべた。

「当たり前でしょう?」
「……この国に、いられなくなるかもしれないぞ」
「ええ」
「逆賊の汚名を着ることになるかもしれない」
「そうね」
「辛い選択に、なるぞ」
「わたし達は家族よ。貴方と一緒に戦うわ。貴方と、アキレウスと……家族三人で一緒にいられることが、わたしには何よりも大切なの」

 だから、とテティスは言を紡ぐ。

「お願い……これだけは約束して。絶対にわたし達を残して死なないで……」

 祈るようにそう口にした、宝玉のような翠緑玉色エメラルドグリーンの瞳がうっすらと潤んでいる。これから夫が向かう道がどれだけ苛酷で危険なものなのか、彼女はよく分かっていた。

 ペーレウスは立ち上がり、そんなテティスをきつく抱きしめた。

「約束する。お前達を残して、絶対に死にはしない。テティス―――ありがとう。すまない……」
「謝らないで。貴方は何も、間違っていない」
「お前を……妻にして、良かった……」

 心からの言葉をペーレウスは口にした。

 こらえきれず、テティスの頬をひと筋の涙が伝う。

 大切な温もりを腕の中に感じながら、ペーレウスは覚悟を決めた。

 例え王命に逆らうことになろうとも、自分は自分の役目を果たす。

 それが自分の信ずる道であり、さねばならない、この国の未来への道なのだ―――。







 シェイドは牢獄の硬いベッドに横たわり、ぼんやりと鉄格子の向こうを眺めていた。

 ペーレウスがここを訪れて以来、日に一度の食事を運んでくる看守以外は訪れる者もなく、その看守はシェイドが振る一切の雑談に応じなかった。緘口令(かんこうれい)が敷かれているのだろう。その為、情報が全く入ってこない。

 日に一度の食事はひとかけらのパンとコップ一杯の水のみで、シェイドは日に日に衰えていく自分を感じていた。

 国の法律では囚人に一日に二度の食事―――無論、一食がひとかけらのパンとコップ一杯の水というわけではない―――を与えるよう定められていたはずだが、自分はどうやらその対象からは外されているらしい。命を繋いでおく為の最低限の糧食を与えられているといった感じだ。

 拷問を受けていないだけ、まだマシだと言えるのだろうか。

 だがこの状態では、ペーレウスが助け出してくれたとしてもすぐに役立つことなど出来そうにない。

 身体は空腹と脱水症状を訴え、何も出来ない現状の中、焦燥感だけが刻々と募っていく。

 その時、にわかに牢の外が騒がしくなった。

 何事かと虚ろな瞳を向けたシェイドは、思いもかけない人物の姿をそこに見い出し、驚きに目を瞠ると、気だるい身体を腕で支えるようにして起こした。

「……! 陛、下……!」

 護衛役の二名の近衛兵と数名の衛兵を従えた国王オレインは、鉄格子の向こうからそんなシェイドの様子を見やり、醜く口元を歪めた。

「だいぶ弱っているようだな。素直に己が罪を認め、告白をする気にはなったか?」
「陛下……何度も申し上げているように、私にはそのような覚えがありません……! 貴方の仰る“罪”とは、何なのですか!」

 衰弱で震える喉を張り、毅然とした面持ちで、シェイドはオレインに再三訴えた。しかし、返ってきたのは鬼のような形相になった国王の怒りの声だった。

「この期に及んでまだそのようなことを……! あくまでも私に“それ”を言わせる気か! どこまでこの私を愚弄すれば気が済むのだ、しらを切るのもいい加減にいたせ! 貴様が、貴様の父親に託されたことだ!!」

 シェイドの瞳の中を衝撃が駆け抜けた。

「私が……私の父、に……!?」

 ここに来て父の存在がオレインの口から出てくるとは思わなかった。だが、そうなるとますます身に覚えなどない。

 シェイドの父は亡くなる数年前に病で倒れ引退するまで、長年宰相としてオレインの傍らで献身的に政権を支え、その座を退いてからも、病床から王家の為に尽力することを何度もシェイドに説いていた。

 臨終の間際、次期国王となる第一王子レイドリックの後見にまで触れ、最後の最後まで王家のことを案じて、彼の父はこの世を去ったのだ。

 まさに、家臣のかがみのような人だった。

 シェイドとは考え方が違う部分もあり、若い頃はそれで衝突をしたこともあったが、ランカート家の当主としての重責を全うし、更に忠臣としての生き方を貫いた父を、彼は一人の人間として尊敬していた。

 その父の尊厳を傷つけ、冒涜ぼうとくするかのようなオレインの発言―――看過することなど出来なかった。それは細く張り詰めていたシェイドの内の何かを断ち切り、この瞬間、彼の中でオレインは敬うべき対象ではなくなった。

「ますます身に覚えなどありません……そもそも、公言出来ない“罪”など存在するのですか」

 ひどく無機質な声が口から滑り出た。敬語を用いてはいるものの、オレインを見つめるシェイドの目はこの上なく冷ややかで、態度には国王への不信が渦巻いていた。

「何だと……!」

 一転して雰囲気の変わったシェイドに、オレインがこめかみをひくつかせ、鋭い眼光を注ぐ。

「存在しない“罪”を理由に、私を陥れようとしている者がいる……貴方はそれにむざむざ踊らされ、今、国を混乱の渦に巻き込もうとしている! ここで踏みとどまらなければ手遅れだ! それが分からないのであれば、貴方は引退されるべきです! 冷静な判断力を失くした者に、一国の国主たる資格はない!」

 厳しいシェイドの叱責に、オレインは激昂した。

れ者が! 主たるこの私を侮辱し、あくまで冤罪だと言い張るか! ならば言い逃れが出来ないようにしてくれよう!! 己が愚かさを思い知り、あの世で懺悔するがいい!! ―――ええい、こやつを引っ立てい!」

 国王命を受け、牢獄の扉が開け放たれた。

 微動だにしないシェイドを衛兵達が取り囲み、両の手首に枷をめて身体の前で拘束し、これまで片足だけを拘束していた長い鎖の代わりに、両足首に短い鎖つきの枷を嵌める。魔力の行使を抑制する特殊な首輪は嵌められたまま、シェイドは衛兵達に乱暴に引き立てられ、牢の外へと連れ出された。







 シャワーを浴び、無精髭を剃り落としたペーレウスは、テティスが用意してくれた清潔な衣類に袖を通し、メタリックホワイトの全身鎧バトルスーツを身に着け、魔法王国ドヴァーフの騎士団長たる証である深緑の外套を羽織った。

「お父さん、これからお城に出掛けるの? もう夜だよ」

 家族三人での夕食を終えてくつろいでいたアキレウスが、身支度を整えた父親を怪訝けげんそうに見やる。ペーレウスは少し笑って、息子のアマス色の髪をなでた。

「母さんが言ってたろ。父さん、忙しいんだ。……アキレウス。父さんが帰ってくるまで、母さんのことを頼んだぞ。お前は男なんだから、母さんのことを守ってやらないとな」

 息子は今までにない父のその言葉に少し不思議そうな顔をしたが、頼りにされたことが嬉しかったらしく、張り切って頷いた。

「うん、任せといて! オレ、一人でもずっと剣の練習してたんだ。だいぶ腕が上がったよ! 悪いヤツが来ても平気さ、オレがみーんなやっつけてやる」
「そうか。頼もしいな」
「へへっ、今度稽古する時はお父さんもビックリかもね!」
「それは楽しみだな」

 ペーレウスは瞳を細めて、日々たくましく成長している息子に愛剣の片割れを持ってきてくれるよう頼んだ。

「アキレウス、ウラノスを持ってきてくれるか?」
「うん!」

 元気良く返事をして、アキレウスがいつものように剣を立て掛けてある場所まで走っていく。その間に玄関先まで移動したペーレウスとテティスは、静かに抱き合った。

「気を付けて」
「あぁ。必ず戻る」

 幾多もの想いを込めた短い抱擁を終え、見つめ合うテティスの瞳には祈るような光が溢れていたが、息子の声が聞こえると、彼女はそれを押し隠して母親の表情に戻った。

「ウラノスを持っていくの、久し振りだね」

 両腕で抱えるようにして父親の剣を持ってきたアキレウスは、そう言いながらペーレウスにウラノスを手渡した。

「はい、お父さん」
「ありがとう」

 透徹とうてつなオーラを放つ大剣を受け取りながら、これを使うことにならなければいい、とペーレウスは願わずにはいられなかった。

 出来れば同胞を傷付けたくはない。だが、目的を達する為にはそうも言っていられないだろう。国を混沌の渦におちいれかねない混乱を未然に防ぐ為には、犠牲を伴う覚悟が必要だった。

「ねぇお父さん、今度のオレの誕生日には帰ってこれる?」

 アキレウスが期待を込めた目でペーレウスを見上げ、尋ねた。息子の九歳の誕生日は間近に迫っていた。

「……なるべく一緒に過ごせるように努力はするよ」

 こんな形でしか約束をしてあげられないことが心苦しかったが、それでも父の言葉にアキレウスは笑顔を見せてくれた。

「―――じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃーい!」
「……気を付けて」

 いつも通りにアキレウスの頭をなで、テティスに軽く口付けて、ペーレウスは家族に見送られながら、自宅を後にした。



 これがまさか、家族三人が顔を合わせた最後の瞬間になろうとは、この時はまだ、夢にも思わずに―――。







 衛兵達に引き立てられたシェイドがオレインと共にやって来たのは、彼が一度も足を踏み入れたことのない、この城の聖域―――王家の秘宝『真実の眼』がまつられている、封印の間へと続く入口だった。

 王家の者と特務神官以外は立ち入ることの許されないこの聖域に連れてこられた時点で、シェイドにはその理由の察しがついた。呼吸を整えながら、辺りの様子を窺う。

 オレインの指示によるものだろうか。常に周囲に張り巡らされているはずの特殊な結界は今は解除され、物々しい法印の施された重厚な扉の左右に常に佇んでいる見張りの兵士の姿はない。

 その代わりに、扉の傍らに控えている一人の男がいる。民族色の強いえんじ色の長衣ローヴを纏ったその姿を確認した瞬間、シェイドは息を詰め、眼光を鋭くした。

 ―――トゥルク。

 静かに佇むガゼの占術師は表面上はいつも通り落ち着いた様子を装っていたが、その琥珀色アンバーの瞳の奥には抑え切れない情念の光が渦巻いていた。

 これが、狙いか。

 シェイドの心臓が嫌な音を奏でる。

 奴の目的は、ドヴァーフの秘宝『真実の眼』……! 

 しかし、それを確信すると共に当然の疑問が湧いてきた。

 だが、何故だ? 門外不出の秘宝の存在を、ガゼ族のトゥルクが始めから知っていたとは思えない。最初からそれが狙いだったというのならば、トゥルクはいったいそれをどこで仕入れた!?

「お前達はここで待て。何者もこの先に通すことはまかりならん―――よいな!」

 オレインは衛兵達にそう言いつけると、護衛役の近衛兵とシェイドを左右から抱えるようにした二人の兵士だけを従え、封印の間へと続く重厚な扉を開け放った。

 オレインを先頭に近衛兵が続き、その後にシェイドと二人の兵士、そして最後尾には当然のようにトゥルクが付き従った。

 重々しい音を立てて扉が閉ざされた背後を振り返り、シェイドはトゥルクをにらみながらオレインに訴えた。

「……陛下! 何故、この国の聖域に部外者のトゥルクの立ち入りを許可されるのです!」
「トゥルクにはこの件の結末を見届ける義務と権利がある。トゥルクの存在なくして、“今回の件”が明るみに出ることはなかった」

 魔法の明りが灯された薄暗い石造りの階段を下っていくオレインの口調は硬質で、その歩みは止まらない。

「トゥルクの真の狙いは『真実の眼』です! 奴の口車に乗ってはならない!」
「ガゼ族のトゥルクが最初から秘宝目当てでこの城を訪れたというのか。有り得ぬ……我が国の秘宝の存在を、部外者のトゥルクがどうやって知ることが出来たというのだ。真実の眼の存在は私からトゥルクに話した」
「可能性は、考えればいくらでも……!」
「トゥルクには真実の眼の力を借りずとも千里眼の如き能力がある。そもそもそれを欲する理由がないのだ……往生際が悪いぞシェイド、いい加減見苦しい口を閉ざせ!」
「……!」

 シェイドは言葉を飲み込むしかなかった。

 オレインは完全にトゥルクの術中に陥っている。盲目的にシェイドに裏切られたと思い込んでいるオレインには、彼の言葉は届かない。

 牢獄に監禁され大幅に体力を奪われた上、両の手足を拘束され、魔法をも封じられたこの状況で、いったいどうすればトゥルクの目論見を阻止し、この現状を打破出来るのか。

 シェイドの考えがまとまらないうちに、一行は地下の石室へとたどり着いてしまった。

 一瞬にして、空気が異質なモノへと変貌する。

 石造りの広い部屋の中央に位置する台座には暗い輝きを放つ拳大の漆黒の宝玉が鎮座され、その周囲には強力な破邪の結界が張り巡らされていた。

 この場にいるだけで、結界の向こうから感じたことのない強烈な魔の波動が伝わってくる。

 全身が粟立つようなその感覚に、シェイドは呼吸を押し殺した。

 これが、真実の眼―――。

 この世の全ての真実を映し出すと伝えられる、禍々しくも美しい、魔法王国ドヴァーフの秘宝―――。

 付き添いの近衛兵達は部屋の空気に圧倒されている様子だった。シェイドの背後で、トゥルクが昂りの為か小さく身体を震わせ、密かな吐息をつくのが感じられた。

 室内に特務神官達の姿はない。

 王の証たる錫杖しゃくじょうを手にしたオレインはゆっくりと結界の前に進み出ると、おごそかに呪文を唱え始めた。

「―――血の盟約により、護りの扉を開け放て。我が名はオレイン・フォル・ドヴァーフ……今、我が前に真実を示さん……!」

 王家の血筋と魔法の合言葉マジック・ルーンに反応して、秘宝を取り巻く破邪の結界が空気に溶け込むようにして消えていく。

 ―――刹那。

 これまでとは比べものにならないほどの強力な魔の波動が真実の眼から溢れ出し、室内に氾濫した!

「……! う、あ……!」

 そのあまりの毒気に気分が悪くなったのか、シェイドを左右から挟むようにして立っていた兵士達がうめき声を上げ、床に膝をつく。オレインの背後に従う近衛兵達もわずかによろめき、屈強そうな顔を青ざめさせた。

「―――さぁシェイド。我が国の秘宝に触れる栄誉を貴様に与えてやろう」

 薄暗い魔石の光を浴び振り返ったオレインの顔には、人間の醜悪な感情が凝縮され浮き彫りにされていた。

「貴様が否定する“真実”を、その身をもって確かめるがよい!!」

 予想通りの展開に、シェイドは厳しい表情でオレインを見やった。

 真実の眼は諸刃の凶宝―――全ての真実を無秩序に映し出し、それ故に纏った邪気で、手にした者の気を狂わせる、魔性の宝玉。

 シェイドは逡巡した。

 真実を知ることは怖くない。だが、普段の自分であればまだしも、今のこの状態の自分が真実の眼に触れて、その毒気に耐えうることが出来るのか。

 ここで自分に万が一のことがあった場合、オレインはそれをどう処理するのか。ランカート家は、その縁者達は、どういった結末を迎えることになるのか。

 自分を助けようと尽力してくれているペーレウスは、この国の未来はいったいどうなってしまうのか。

 自分は自分一人の身ではない。多くの者達の命運を握っている。簡単に投げ出していい命ではないのだ。

 そんなシェイドの心中を見透かしたかのように、オレインは決定的な言葉を投げかけてきた。

「どうしたシェイド……真実の眼に触れることが出来ぬのか。ならば抗弁の余地なしと見なし、直ちにランカートの一族郎党を断絶する」
「……!」

 オレインの瞳に、狂気の炎が宿っているのが見える。シェイドはきつく唇を結んだ。

 退路は断たれた。進むしか道はない。

 闇の宝玉に全身全霊をもって打ち勝ち、自らの潔白を証明する。それが今のシェイドに課せられた使命だった。

 負けることは、許されない。

 覚悟を決め、シェイドはオレインのもとへ向かって一歩、歩き出した。足元の鎖が冷たい音を立て、張り詰めた空間に響き渡る。

 オレインは醜く歪んだ笑みを湛え、一歩下がって台座の正面を譲ると、無言でシェイドにそれを促した。

 シェイドは真実の眼の前に佇み、正面から向き合った。漆黒の宝玉から放たれる不浄な力の奔流が彼の銀に近い灰色の髪をなびかせ、舞い散らせる。

 シェイドはひとつ深呼吸をし、精神を集中させて、枷の嵌められた両腕をゆっくりと伸ばした。

 いにしえよりこの国に伝わりし黒水晶―――真実の眼。

 まさか、こんな形で手に取る日が来ようとは、思ってもいなかった。

 皮肉な思いをかみしめながら、シェイドは強い決意を湛えた灰色グレイの瞳をこの国の秘宝に注いだ。



 背負う者達の為。この国の未来の為。

 自分の信ずる道の為。

 自分を信じ、共に戦ってくれる友の為に。



 ―――私は、何者にも屈しはしない。



 真実の眼を手にした、その瞬間―――-シェイドの中に、闇の宝玉の力が弾けた!

「…………ッ!」

 細身の身体を仰け反らせ、歯を食いしばるようにしてシェイドはその衝撃に耐えた。

 負のオーラを纏った宝玉から、凄まじい勢いでシェイドに関わる“真実”が流れ込んでくる。

 闇の宝玉を手にし、身体を硬直させたまま、シェイドは両眼を見開いた。

“真実”は頑ななシェイドの心の防壁を怒涛の勢いで破壊し、丸裸にしていく。

 知らなかった“真実”。

 知りたくはなかった“真実”。

 知らない方が幸せだった“真実”。

 自らが封印し、心の底に閉じ込めておいた“真実”―――。

「―――ッ……、あ……あぁッ……!」

 急激な記憶の増殖に脳細胞が悲鳴を上げ、身体の痛みと心の痛みにシェイドの喉から苦痛の呻きがほとばしった。







『真実の眼』が伝える、残酷な真実―――。



 シェイドの父ランカート卿は、オレインの前妻レティシアと不倫関係にあった。

 恋も知らぬ身のうちにオレインと政略結婚をさせられたレティシアは、自らの運命を享受し、良き妻であろうとしていたが、二人の間にはなかなか子供が出来なかった。

 不妊と周囲からのプレッシャーで思い悩むレティシアにふとしたことから相談を持ちかけられたランカート卿は、やがて相談に乗るうちに彼女と道ならぬ恋に落ちてしまう。

 背徳感を覚えながらも二人は人目を忍んで逢瀬を重ね、やがてレティシアは彼の子供を授かった。



 その子供が。



 ―――レイドリック……殿、下……。



 真実の眼によってもたらされたその事実は、シェイドを愕然とさせた。

 オレインの従兄妹いとこであるレティシアの子供として生まれたレイドリックは、王家の血を継いではいるが、オレインの血は一滴たりとも受け継いでいない不義の子だったのだ。



 死の間際、病床から何度も王家の為に尽力せよと説いていた父は―――次期国王となるレイドリックの後見にまで触れていた父は―――自分に全てを託して逝った、父の言葉は。



 純粋に忠臣としての言葉では、なかった。



 暗に、シェイドに異母弟おとうとを頼むと。



 異母弟を支え、助けてやってくれと。



 異母兄あにであるシェイドに、自らの贖罪しょくざいを託したものだったのだ―――。



 自分に対する、亡き母に対する、そして主君であるオレインに対する、あってはならない父の裏切り行為だった。



 そしてそれを、オレインはトゥルクの占術を通して知ることとなる。



 初めてトゥルクを私室に招いた夜―――ガゼ族との本格的な交渉が始まって上機嫌のオレインは、素晴らしい腕前を持つガゼの占術師にこんな依頼をした。

「近々、上の王子が満18歳の成人の儀を迎える。まだ少々早い気もするが、そろそろ将来のことも念頭に置いておきたいのだ。我が子をこう言うのも何だが、あれは亡き母に似て端麗な容貌をしている上、頭も良く魔法の才にも長けている。人格的にも申し分ない。広い見地を持った良き君主となるだろう。どうだ、最良の縁談相手を占ってはくれまいか」

 かしこまりました、とこうべを垂れるトゥルクに、オレインは思い出したように言い足した。

「おぉそうだ、ついでに我が国の魔導士団長の縁談相手も占ってもらえるか。いらぬお節介だろうが、いい年をしてまだ身を固めておらぬのだ」

 臣下を思いやる主君のちょっとした老婆心―――しかしそれを占おうとしたトゥルクは、奇妙なことに気が付いた。レイドリックとシェイドとの間に因縁めいた不思議な絆を感じたのだ。

「―――失礼ですが、ランカート卿は陛下の御血縁でいらっしゃいますか」



 これを発端に、オレインの葛藤の日々は始まることになる。



 あんなにも愛してやまなかった妻。

 その忘れ形見である最愛の息子は、自分の子供ではなく、長年信頼してきた家臣との間に出来た不義の子供だった。

 信じていた妻と臣下からの、二重の裏切り。

 信じられなかった。

 信じたくはなかった。

 だが、当人達は既にこの世になく、調べれば調べるほど、探れば探るほど、限りなく黒に近い報告書だけが上がってくる。トゥルクの占術もそれを肯定していた。

 何も知らずに愛していた分だけ、オレインはレティシアの面影を色濃く残したレイドリックの存在が許せなくなった。

 そして、父親から全てを託されただろうに、それをおくびにも出さず、涼しい顔で重臣に納まっているシェイドに対する激しい怒りが湧いた。

 ―――いずれは異母弟を傀儡かいらいの王に据え、その裏でこの国の実権を掌握する気か。

 血の繋がらない王子を自分の息子だと信じて疑わない愚かな国王が、その座をランカート家の血筋の者に委ねる日を、ほくそ笑んで待っているのか。

 だとしたら、自分は何という道化だ。忠義面をした裏切り者にいいように踊らされて、二十年近くもそれに気付かず、他人の子供を溺愛し、裏切り者を取り立ててたきたのか―――。

 オレインは精神的に追い詰められ、いっそ秘宝『真実の眼』の力に頼るべきかトゥルクとイレーネに相談した。彼は“真実”を語ってくれるトゥルクと、自らの実子であるアルベルトを産んだ後妻イレーネしか信じられなくなっていた。

 二人はオレイン自身が真実の眼に触れることに反対した。諸刃の凶宝の異名を持つ宝玉に国王自身が触れるのはあまりにも危険リスクが高いという理由からだった。

 だがやがて、相談をしたという二人はひとつの案をオレインに提言する。



「―――シェイド、レイドリックを殺せ」



 気が遠くなるような“真実”の奔流の中、耳朶を打った低い低いオレインの声に、シェイドの意識は現実に引き戻された。

「一族の断絶に相当する“真実”が貴様には見えたであろう。だが貴様が罪を認め、その贖罪にレイドリックを殺すのなら、貴様に死罪を課すだけで、一族の断絶は免除してやってもいい」

 赤く濁った瞳で、オレインは苦悶に顔を歪めるシェイドの横顔を覗き込んだ。

「くく……苦しいか? だがな、この私はもっともっと苦しんだ! 苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて死ぬがいい、シェイド! 父親のせいで歪んだ道を貴様の手で正してからな……!」

 手の中の真実の眼が、オレインの怒りをより増幅してシェイドの精神に直接送り込んでくる。そしてそれは、オレインがもはやランカート一族を許す気などないことを雄弁に語っていた。

 イレーネとトゥルクがオレインに持ちかけた案は、シェイドを真実の眼に触れさせ、紛うことなき真実を彼に突きつけ父親の犯した大罪を認めさせた上で、一族の助命と引き換えに、異母兄であるシェイドの手で異母弟のレイドリックを殺させるというものだった。

 そしてシェイドを王族殺しの逆賊として処刑したのち、一族をこれに関わった嫌疑で断罪し、遠戚に至るまでランカートの血筋を根絶やしにする―――王族殺しという大義名分に一族の断絶となれば、名分的にも人員的にも反乱分子は決起しにくくなり、愛息を失ったオレイン達には世間の同情的な目が集まる。レイドリックは王族として葬られ、王家の汚点はひっそりと闇に消える。

 それが、彼らが描いたシナリオだった。

 オレインを止めない限り、粛清という名の虐殺が始まり、一族は断絶される。遠くない未来に起こってしまう恐ろしい“真実”をシェイドは知った。

 自分の息子を王位に就けたいイレーネの思惑。

 真実の眼を解放することこそが神に与えられた天命だと妄信するトゥルク。

 人の生み出す負の感情は、渦巻いて増大し、誰かを殺す。

 様々な思惑が絡み合った、どろどろの熱い熱い灼熱のうねりが、手の中の宝玉を媒介してシェイドの精神を焼き尽くさんと暴れ狂う。

「ッ……く、あぁぁッ……!」

 まるで魂を直に焼かれているかのような想像を絶する苦痛の中で、シェイドは途切れかける意識をどうにか繋ぎ止め、懸命に道を模索した。

 レイドリックは賢明な少年だ。彼自身には何の罪もない。

 血の繋がりの問題ではない。優れた王の資質を持つ罪のない少年を、こんな理由で殺すなど間違っている。

 同様に、父の犯した大罪を知るはずもない何百という親類縁者―――彼らに仕える者達を含めれば、その数は恐ろしい規模になる。ランカート家の当主として、絶対に無実の彼らを殺させてはならない。

 オレインの行おうとしている行為は虐殺だ。それ以外の何物でもない。

 だが、理性を失った今のオレインにはそれが分からない。もし現実にそれが行われれば、その代償として確実に内乱が起こるだろう。殺される方も黙って殺されたりはしない。憎しみは、より強い憎しみしか生み出さない。長きに渡る負の連鎖が続き、ドヴァーフの国力は衰退の道をたどることになるだろう。

 そこをウィルハッタに突かれでもしたら―――。

 シェイドはきつく目をつむった。

 どうすればいい。

 何としてもオレイン達の謀略を止めなければ、取り返しのつかないことになる。

 だが、どうすれば……!

 奥歯を軋むほどかみしめたシェイドは、その時、この窮地を脱することが出来るかもしれない力が自身の手の中に在ることに気が付いた。



 ―――ヒィン。



 そんなシェイドの心の機微に反応し、漆黒の宝玉が妖しく鳴く。

 シェイドは息を殺して手の中の宝玉を見つめた。

 伝わってくる―――古の黒水晶の、積年の望みが。



 だがそれは、シェイドにとって究極の選択を強いるものだった。



 オレイン達の謀略を止める力を望むシェイドに対し、対する真実の眼は、自らを解放する器を求めていた。



 自らの手の中に、求める強い力がある。

 だが、触れているだけで気が遠くなるようなこの力を、今の自分は受け入れ、制御することが出来るのだろうか。この対価に、果たして自分の精神は耐えられるのだろうか。

 極限の状況の中でシェイドは葛藤した。

 失敗すれば精神そのものが崩壊し、『シェイド・ランカート』という自我は消え失せてしまうだろう。そうなれば化け物を野に放つことになりかねない。

「この国を傀儡に渡すわけにはいかぬ! 異母弟を殺せ、シェイド! 貴様の手で! それが、貴様の贖罪だ!!」

 狂ったようなオレインの声が、もはやためらう猶予がないことをシェイドに知らしめ、追い詰める。



 ―――ペーレウス。



 満身創痍の身体を意志の力で支えながら、震える喉を仰け反らせて天を仰ぎ、シェイドは唯一無二の親友に呼びかけた。



 例え私が私でなくなったとしても、その時はお前が止めてくれるだろうか。



 最大限の努力はするつもりだ。



 だが、もしも。もしも、そうなってしまった時は―――。



 すまない……お前の手で、私を殺してくれ―――。



 懺悔にも似た思いで、シェイドは親友に祈りを捧げた。

 オレインの言う通り、父が犯した過ちから起こってしまったこの悲劇は、息子の自分の手で正すのが道理なのだろう。

 過去を修正することは出来ない。ならば、誤った方向へ舵を取ろうとしている国の未来を矯正することこそが、この国に対する自分の償いになるのではないだろうか。

 怜悧な灰色グレイの瞳に憂いの影を落としたシェイドは、その上に強い決意の色を浮かべた。



 それが例え、元は被害者であった主君に反旗を翻すことになるのだとしても―――。



 シェイドはゆっくりと、手の中の漆黒の宝玉を自らの胸元へと導いた。

 真実の眼からこれまでとは違う眩いまでの光が放たれ、シェイドの銀に近い灰色の髪を舞い上げながら、まるで溶け込むようにしてその姿を彼の体内なかへと沈めていく。

「―――なッ……!?」

 思いがけぬ光景を目の当たりにしたオレインは絶句し、それを見たトゥルクは色を失くしてシェイドのもとへと駆け寄った。

「―――バカな!」

 狼狽し、言葉を失う二人の目の前で、真実の眼は完全にシェイドの体内へと取り込まれた。



 ―――次の刹那、シェイドの身体から爆発するような勢いで圧縮された負のオーラが放出された!



「ぬうぅぅぅっ!」
「おぉぉぉぉっ!」
「へっ、陛下ぁーっ!」

 近くにいたオレインとトゥルクはその衝撃で吹き飛ばされ、それを目にした近衛兵達は腕で衝撃波から身をかばうようにしながら主君の身を案じた。

「う、ああぁぁあぁぁぁぁぁッ……!」

 うねるようなチカラの奔流の源で、シェイドは両眼を見開き、天に向かって咆哮していた。身体から溢れ出た強烈な魔の波動の衝撃で両手足を拘束していた枷は破壊され、首に嵌められていた魔力を抑制する首輪は千切れて吹き飛んでいる。

 体内を駆け巡る不浄のチカラがこの肉体を我がものにせしめんとシェイドの中を荒れ狂い、凄まじい勢いで侵食していく。全てを飲み込まんとする悪性の侵略者を抑え込もうとシェイドは全力で抗ったが、その彼の強靭な精神力を凌駕するほど、古の秘宝の力は大きかった。



 ―――ぺー……レウ、スッ……!



 抗いながら、徐々にシェイドの意識は遠のいていく。

 ブラックアウトする寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、名を叫んだ親友の姿ではなく、『月光花』と称されたその配偶者の姿だった。



 月の光を紡いだかのような、長いアマス色の髪。慈愛に満ちた、鮮やかな翠緑玉色エメラルドグリーンの瞳―――。



 それは、シェイド自身が恋情だと気付く前に封じ込めた、想いの欠片。



 遠い昔に自らが封印し、心の底に閉じ込めておいた“真実”―――。



 ―――テティ、ス……。



 この世で唯一、想いを寄せた女性の名を意識したのを最後に、自らの意識が不浄なチカラの中に溶け込んでいくのを感じながら、シェイドは闇の深淵へと堕ちていった。
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