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 らんかはまもなく、皇帝が主催する宴に参加した。先日の冬至祭典とは違い、上級妃や上級官吏だけを集めたこじんまりとしたもの。
 先代の皇帝が重用していたという上級官吏のひとりが隠居するとかで、その送別会を兼ねた宴だった。

 広間の最も高い場所に、皇帝である孫雁が座し、その一番近い席にらんかは座る。他の妃たちも、階級順に皇帝から遠くなるように座った。
 これまでどんな集まりにもろくに顔を出さなかった皇后が参席したことで、人々の注目が当然集まったのだが、何より、彼女の普段とはあまりに違う顔つきに驚く。

 冷酷無慈悲で、隙がなく、他人に一切笑顔を見せなかったはずの皇后は――笑っていた。
 もちろん、そこにいるのは本物の樹蘭ではなく、彼女になりすましたらんかである。

(私は悪役皇后ではなく、新しい皇后に生まれ変わる。誰に蔑まれることも、見下されることもない、気高くて完璧な皇后に)

 それが、樹蘭の名前と地位を譲り受ける代わりに、らんかができる唯一のことだ。
 いつも皺が寄っていた眉はゆるやかな曲線を描かせ、鋭い目つきは柔らかく、口角は軽く持ち上げて。

「皇后陛下がお笑いになっているわ。あれほど気位が高く周りを見下していたくせに、気味が悪いわね」
「おかしなものでも口にしたのだろう。そのまま誤って毒でも口に含んでくださればよいのにな」

 宴の騒がしさの中で、皇后への誹謗中傷があちこちで囁かれる。そしてらんかには、奇異と軽蔑の視線が向けられた。
 らんかは唐突に立ち上がり、参集者たちを見据えて優美な口調で告げる。

「――妾から皆に伝えたいことがある」

 賑やかだった宴の席が、らんかの言葉で静まり返った。

「これまで妾が、興栄国の皇后としてあまりに自覚のない振る舞いをしてきたこと……心から反省をしている。この場にいるそなたらに詫びたい。すまなかった」

 らんかが深く頭を下げると、広間はざわめいた。傲岸不遜で横暴な悪女が他人に謝罪するなど、考えられない事態が起きているから。

 あらゆる名家の中でも選りすぐりの四代名家、そしてその頂点に君臨する周家出身の皇后。本来ならば何をしても許され、他人に頭を下げる必要のない立場だ。
 姿勢を正し、視線を上げたらんかは、人々の表情を冷静に観察する。

(ああ……やっぱりめちゃくちゃ睨まれてる……。そうだよね、じゃなきゃ『謝って済むなら警察はいらない』とか言わないよね)

 らんかの謝罪を好意的に受け止めている者などいなかった。唯一、樹蘭の親友の月鈴だけが、真剣な様子でこちらの次の言葉を待っていたが。
 ここでどれだけ誠心誠意謝り、猛省していると告げただけで、信じてくれる人が一体どれだけいるだろうか。それだけ樹蘭は、人々からの信頼を失っているということだ。

「――はっ、あれは反省したふりか?」
「あんな猿芝居で我々が騙されると思っているなら、片腹痛いわ」

 官吏の誰かがそんな風にこそこそと内緒話をする。樹蘭暗殺未遂の犯人は未だに見つかっておらず、自分の命推しさに芝居を打って、同情を買おうとしているのだと彼らは解釈した。

 今はどう捉えられても構わない。どんなに憎まれても、誠実でいる他にないだろう。
 懐疑的な視線を向けられても尚、悠然と佇むらんか。

「今は妾の言葉を信じられぬだろう。無理のないことだ。だが、命を狙われてようやく自分を省みたのだ。これからは心を入れ替え、皇后にふさわしいものになれるよう努めると誓う」

 彼女の真摯な表情を見て、人々は思わず息を飲む。
 嫌味なほどに整った顔立ちから棘が取れると、どうしてこれほどまでに優雅なのだろうと。
 口調も、眼差しも、溢れ出る雰囲気も、自分たちが知っている周 樹蘭とはまるで違う。凛としていて、人を惹きつける何かが彼女の芯からみなぎっているのだ。

 しかし、らんかに見蕩れるのは束の間で、過去の記憶が彼らの一瞬の憧憬を、嫌悪と軽蔑に戻していく。
 らんかは突き刺さるような視線を浴びても、小揺るぎもしなかった。そして月鈴だけが、涙ぐみながら頷いていた。

 すると、今日の送別会の主役である初老の官吏が、口を挟む。

「ではひとつ、皇后にふさわしくなるとおっしゃるのならば、口先だけではないことを証明してはいただけませんか」
「というと?」
「ここで琴奏楽を披露する……というのはどうでしょう。冬至祭典では、国で最もやんごとなき女性である皇后陛下が、天に奏楽する慣わし。ですが、あなた様は一度たりとも奏楽をなさらなかった」
「…………」

 男が言う通り、樹蘭は奏楽をしてこなかった。いや、できなかったと表現する方が正しいだろう。彼女は楽器を弾けるような精神状態ではなかったから。

「楽器は、こと興栄国において、皇后陛下に必要な素養でございましょう。本当に心を入れ替えたとおっしゃるなら当然、琴の練習はなさっているはず」

 彼の目つきに鋭さが乗り、らんかは拳を固く握り締めた。

(試されてるんだ。口先だけではないかどうかを)

 官吏が恐れ多くも皇后を挑発する中、孫雁は冷や汗を滲ませてこちらを見ていた。挑発に乗る必要はないと首を横に振る。

「これらは全て、宮廷を退く爺の戯言でございますゆえ。聞き流していただいても結構で――」
「分かった。弾いてみせよう」
「え?」
「凛凛、すぐに琴を用意せよ」

 挑発に乗ったらんかに、男は面食らったような声を漏らす。まさか、樹蘭が楽器を弾くことを受け入れるとは思わなかった様子だ。孫雁もまた、戸惑いの色を滲ませている。

「すぐにご用意いたします」

 凛凛も心配そうな表情を見せつつ、他の侍女とともに琴の支度に向かった。

 らんかは上段に設けられた席から下りて、広間の中央まで歩む。両側に参集者たちの席がある。
 頑なに人前で奏楽しなかったはずの皇后が、初めて演奏を披露するということで、皆そわそわし始めた。そして誰ひとり、樹蘭がまともに琴を弾くことができないと予想し、品定めするように、いや軽視するようにこちらを見ていた。

 しばらくして、凛凛たちが琴を用意し終わる。
 彼女たちは先日らんかが贈った高価な衣と簪をひけらかすように身につけていて、広間にいる他の女官たちが羨ましそうに見ていた。

 目の前の琴に視線を落とす。
 樹蘭の名前が刻まれた琴は、ろくに練習せずに放置していたため、侍女が慌てて拭き取った形跡はあるものの、埃が積もっていた。

(経験ってどこで役に立つか分からないものね。……女優をやっていてよかった)

 一度映画で、琴を弾く高校生の役を演じたことがあった。演奏シーンは専門の演奏家の手元を映して切り取ったのだが、らんかも一曲は弾けるように講習を受けたのだ。

 らんかが琴を爪弾くと、繊細な音が広間に響いた。取り立てて褒めるところはない。粒は揃っていないし、時折引っかかりもする。
 しかし、琴を弾く佇まいは絵画から飛び出してきたかのように洗練されていて、自信に満ち溢れていて訴求力がある。演奏は素人と言っていいくらいなのに、皆なぜか目が離せない。なぜか惹かれる。

(嘲笑も、見下す眼差しも、全部全部、慣れっこよ。私の心にかすり傷ひとつつけることなんてできやしない。好きなだけ見て、目に焼きつけて帰ってね。この新しい周 樹蘭の存在を)

 すると、演奏の途中で先ほどの官吏の男が、座卓の上に置かれた花瓶を掴んでこちらに歩いてくる。

 そしてらんかの頭上でそれをひっくり返した。
 ぽたぽたと髪から水が滴りおち、活けられていた花が床に散らばる。
 はっとしたらんかが演奏する手はそのままに男を見上げると、彼はこちらを無表情で見下ろしていた。

 皇族に水をかけるなど、もってのほかだ。不敬罪として足や腕を裂かれるか、首を跳ねられてもおかしくはない。
 彼は試しているのだ。らんかがこれまでのように金切り声で怒り、感情のままに彼に罰を与えるのかどうかを。

 らんかはにこりと微笑み、そのまま奏楽を続ける。水がかかっているはずなのに、朝露を受けて咲く蘭の花のように可憐な様であった。

(そういえば前に……舞台の上にペットボトルを投げつけられたことがあったな)

 衣装が飲み物で汚れて……あのときもこうして、演技を続けたのを覚えている。何があっても演技を続ける。それがらんかの役者としての――矜恃。

 演奏を終えて立ち上がり、男を見下ろす。彼は両手を重ねて前に出して最上級の礼を執り、恭しく言う。

「陛下を試すような真似をしたこと、いかような罰でもお受けいたします。火炙りでも、水責めでも、八つ裂きでも」
「――なぜこのような真似をした?」
「どうせ私は隠居するだけの身です。敬愛する興栄国に、あなた様がふさわしいかどうかこの目で確かめようと思った次第です」
「そなたはその身を賭して、妾が誠実であることを証明しようとしたのだな」

 樹蘭は小さく息を吐き、濡れた前髪を搔き上げて頭を振る。その仕草は妖艶で、飛び散る雫のひと粒さえ煌めく。らんかは孫雁のことを見上げた。

「陛下。敬愛する興栄国の皇后を試し、愚かにも水をかけたこの者に罰を与えてもよろしいですか」
「……ああ。処遇はお前の自由にすればいい」

 広間がどよめく。和やかな送別会が、二度と帰らない場所へ送る会になってしまうのではないかと懸念が広がった。
 らんかはすっと床に散らばった花を指差した。

「それを花瓶に活け治しておけ。それをそなたへの罰とする」
「…………はい?」

 あまりに軽すぎる罰に、彼は目を瞬かせる。悪女と呼ばれた樹蘭は、自分を辱めた相手に容赦をしないはずだから。

「その花はまだ人々の目を癒してくれるからな。捨て置くのは可哀想だろう」

 花にまで慈愛を注ぐようにそう言ってから、凛凛から手ぬぐいを受け取って、自分の席に戻る。らんかは孫雁に尋ねた。

「いかがでしたか、妾の琴は」
「天に捧げるには、あまりに拙い演奏だったな」
「伸びしろがあることが妾の一番の長所でございます」
「今は底辺にほど近いがな」
「なっ!?」

 彼のからかいの言葉に、思わずらんかは素に戻りかけるが、こほんこほんと咳払いして誤魔化す。

(失礼しちゃう。あれで結構上手く弾けたと思ったんだけど……!?)

 むっとした表情で彼を睨めつけるらんか。
 たわいもないやり取りに、ふっと肩を揺らし笑いを堪える者がいるのをらんかは気づかなかった。
 孫雁はらんかが軽口を叩ける相手であることを知らしめるように、いとも楽しげに頬を緩めた。

 すると官吏の男はその場に平伏する。

「あなた様が変わられたこと、そして変わろうとしていること、私の目には分かりました。変わろうとすれば、どこかで足を引っ張ろうとする者が出てくるものです。ですがあなた様が誠実である限り、必ずそれを見ている方はおりましょう」
「ああ、肝に銘じておこう。そなたは下がれ」
「御意」

 らんかは参集者たちを見据えて告げる。

「もう一度言う。――妾はこの国とそなたたちに誠実であることを誓おう」

 今度はその想いを、人々は確かに受け止めたようで、先ほどより表情が優しかった。ぽつり、ぽつりと拍手が起こり始めらその音は広間を満たしていた。
 もちろん、そこに居合わせたほとんどの者が疑いを依然として強く持っている。しかし彼らは、後宮に新しい風が吹き始めたのを確かに感じたのだった。

 人を惹きつける強さと魅力がある、元国民的女優宮瀬らんか。
 こうして彼女は、としての一歩を踏み出したのである。
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