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 ウェンディは婚姻を解消するための書面の前で、かれこれ2時間ほど静止して悩んでいた。

(この紙にサインしたら……イーサン様の妻ではなくなる)

 最初はいやいや始めた契約だったが、この2ヶ月はずっと楽しかった。こんなに自由に執筆させてもらえたのは初めてだったし、イーサンは優しかった。彼といると、自分が自分らしくいられる。そして、一緒に過ごすうちに……いつの間にか好きになっていた。

 ふいに、手に持っているペンに視線を落とす。イーサンとデートに行ったときに、彼がウェンディが欲しそうにしていたのに気づいて、わざわざ買ってくれたものだ。
 イーサンは婚外子として忌み嫌われ、離宮で寂しく生きてきた。そんな彼を気の毒に思うようになり、同情はいつしか愛情に変わっていた。

(私……イーサン様のお傍にいたい)

 一国の王妃なら、自分などではなくもっとふさわしい女性がいるだろう。ここでサインして身を引くのが、王になるイーサンのためなのかもしれない。それでも、離れたくないと寂しそうに言った彼のことが忘れられなかった。もしほんの少しでも自分を必要としてくれるのなら、まだここにいさせてほしい。

 散々悩んだ挙句、ぎゅっとガラスペンを握ってから机に置く。
 ウェンディが小さくため息を漏らした直後に、イーサンの騎士であるルイノが訪れた。

「……ルイノさん? 私に何かご用ですか?」

 彼はつかつかとこちらに歩いてきて、ウェンディの手元の書面を見下ろして言った。

「それにサインをする前に、ひとつ見せしたいものがございます」
「……見せたいもの?」
「はい。少し着いてきてくださいますか?」

 ウェンディはルイノと深く関わったことはなかったが、イーサンは彼のことを相当信頼して心を開いているらしく、いつも傍に置いていた。そんなルイノが、今になってウェンディに見せたいものはなんだろうと不思議に思う。

 ルイノに言われるがまま着いていくと、案内されたのは――イーサンの執務室だった。

「あの……私、ここには『絶対に入るな』とイーサン様に言われてるんですけど……」
「全ての責任は私が取りますので、お気になさらず」

 彼はそう言って執務室の扉を押し開く。初めて離宮に来たときから、口酸っぱく足を踏み入れるなと言われていたので、何かとてつもない武器なんかが隠れているのではないかと想像していたが、どこにでもある普通の部屋のように見えた。しかしすぐに、大きな本棚にウェンディがこれまで刊行した本が全て3冊ずつ収まっていることに気づいた。

(私の本……!)

 そういえば以前イーサンが、好きな作家の本は読む用と保存用、布教用として3冊買うのだと言っていたのを覚えている。
 まさか、その好きな作家とは、ウェンディのことだったというのか。ルイノがおもむろに1冊、本棚から1冊を引き抜いてこちらに差し出す。

「……ご覧ください」

 それは、ウェンディが名誉毀損を訴えられて、イーサンと結婚することになった問題作『嫌われ者の王子様』だった。小説のほとんどのページに、線が引いてあったり書き込みがあったり、熱心に読み込んでいたことが分かる。

「…………!」

 そして、本の表紙の裏に、ウェンディのサインが書かれていた。『ノーブルプリンスマン』が宛名の。

(私の唯一の男性ファン、ノーブルプリンスマンの正体は……)

「イーサン様……」

 体に雷電が落ちたような衝撃が走る。あまりの驚きでふらふらとよろめいていると、ルイノが暗い色のローブと布のマスクを持ってきた。

「……殿下は、何年も前からウェンディ様々の熱心なファンでした。孤独な離宮での暮らしの中で、いつもあなたの作品を心の拠り所にし……あなた自身に深い恋心を寄せておいででした」
「!」
「それが、契約結婚と称してあなたを第1王子の思惑から守ろうとした――たったひとつの真実です」

 ルイノは臆病なイーサンがあまりにも本音を言わないので、焦れったくなったのだと付け加えた。
 彼が持ってきたローブとマスクは、つい先日会ったノーブルプリンスマンが身につけていたものだった。
 あのときのイーサンのコーヒーのシミはやはり、ウェンディがノーブルプリンスマンに零してできたものだったと理解する。

「殿下はあなたが思うより、ずっと臆病で繊細な方です。秘めた恋心を知られて……軽蔑されるのを非常に恐れておりました」

 驚きのあまり言葉をなくす。両手で口を押えたまま、一歩、二歩の後退する。次第に、イーサンのウェンディに対する計り知れない愛情を思い知って、目の奥が熱くなった。
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