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第一章
第7話:聞きたくなかった会話
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オフィス10階の化粧室で、久遠は手元のショップカードを眺めながら歯磨きをしていた。
霧山のキッチンカーのカードだ。店名と、電話番号と、インスタのQRコードが載った、比較的情報量が少ないデザイン。
初めは馴れ馴れしい人だと思ったけれど、それくらいの揺さぶりが今の久遠にはありがたくもあった。
社内でずっとカチコチ状態だった久遠にとって、そこまで気を遣わず会話できる存在は久しぶりだったのだ。
何より、親切で出してくれたご飯が美味しかった。味見担当に任命されたのは恐縮だが、次はどんな料理が食べられるのかと思うとワクワクする。
化粧室を出て、自分のデスクの方へ足を向ける。
この建物内には神永がいるのかと思うと、いつ出没するか分からないという警戒で交感神経優位になるけれど、お腹が満たされたおかげで午前よりは幾分かリラックスできている。
給湯室が近づいてきたところで、まさしく、今久遠が警戒していた人の声が聞こえてきた。
「どうにかなりませんか」
――彼だ。
久遠の足は条件反射的に止まる。神永が、給湯室の中で誰かと会話をしているようだった。
気づかれないうちに前を通り過ぎてしまおうと思ったが、その次に聞こえてきた相手の言葉でまた立ち止まってしまう。
「採用したばっかの子だぞ。なんでだよ、なんかやらかした?」
"採用したばっかの子"――自分のことだろうか?
「そういうわけではないですが……」
「だったら尚更だよ。妥当な理由もなしに別部署に移すなんて処遇はありえない」
"別部署に移す"。
この短い会話で、久遠は文脈を察することが出来てしまった。
これ以上聞いていても傷つくだけとわかっているのに、身体は、全て聞き漏らしたくないとでも言うようにその場を動こうとしない。
ぎゅっと握った手の中に、嫌な汗がにじみ出る。
「あの子の面接担当俺だったけど、そんな悪い子じゃなかったろ。まだなんもさせてないのにパワハラか?」
「パワハラ……ではないですが、」
「パワハラにも6種類くらいあってな。その1つが『過小評価』だよ。過小評価して、なんもやらせないやつ」
神永が返答を迷っているのか、声が聞こえない。
「神永チームの1人に欠員が出るからそこに補充する。当たり前のことだろ。元から人数少ないチームさらに減らしたいわけじゃないだろ?」
「……はい」
神永の話し相手である上司はふっとため息をついた。少しトーンが静かに柔らかくなる。
「……お前が焦るのもわかるよ。早くにチームリーダーに任命されて、早く成果出したいんだろ」
「でも、」と言う上司の声が、久遠がいる方へ少し近づいた気配を感じる。
「急がば回れってやつだよ。上手く指示出して、協働して、チームとして結果を出す。これができなきゃ仕事じゃないんだ。お前は自分が有能だから人とやるの難しいかもしれないけど、上はそういうとこを見てるんだから」
上司が給湯室を出てきてしまう前に、久遠は慌てて元来た道を戻った。
早くデスクに戻らなければならないが、神永とその話し相手と鉢合わせにならないよう、一旦先程までいた化粧室に避難する。
鏡を見ると、霧山のご飯を食べて顔色が良くなっていたのも束の間、久遠の顔色はひどいものだった。
――彼が私にいてほしくないのはわかってる。
そんなこと、考えたくなくたってよく分かっていた。けれど、本人の口から実際に聞くのは初めてだ。受けるダメージが全く違う。
――彼にとって一番問題なのは、仕事で失敗することだ。
元カノがどうこう、ということに悩む次元にはいない。今の彼にとって重要なのはきっと、久遠が使えるか否かなのだ。
そう考えると、頭の芯がすぅっと冷たくなった気がした。傷ついたからではない。むしろ、頭が冴えたような感じだった。
これまで、神永の不快にならないように、身を縮こませてしまっていた。けれど、ここで久遠が本当にすべきだったのは、チーム長の迷惑にならないようにすることだったのだ。
彼は昔からそうだった。成功やトップを目指して虎視眈々と努力をし、実際に栄光に輝く。
昔から神童として期待されていたこともあり、失敗することは神永本人が一番許せないようだった。
――だから、あの時も……。
また過去を回想してしまいそうになり、久遠はそれを振り払うようにぎゅっと目を閉じた。
もうやめよう。神永が元カレだからと縮こまるのは。
再会して4日目になるのにも関わらず、未だに同じ場所にいることが信じられないのだから、そうか、このまま信じなきゃいい。
今一緒にいる人は、あの時付き合っていた人と同じ人だと思わなければいい。
昔の恋がどうだとか、そんな私情で彼の足てまどいになるのは、彼の迷惑になりたくないと思う自分の一番の望みと矛盾している。
8年熟成してきた罪悪感に、新規の罪を重ね塗りするなんて、最も避けたいことだ。
だったら恩知らずや失礼な奴と思われようが、この歳で出会った神永一織は、昔自分が付き合っていたあの彼とはまた違う存在として認識して過ごそう。
もう、思い出の蓋は安易に開けない。ここには仕事をしに来ているのだから。
久遠を拾ってくれた会社に、せめていてもいい存在くらいには思ってもらえるように。
オフィス10階の化粧室で、久遠は手元のショップカードを眺めながら歯磨きをしていた。
霧山のキッチンカーのカードだ。店名と、電話番号と、インスタのQRコードが載った、比較的情報量が少ないデザイン。
初めは馴れ馴れしい人だと思ったけれど、それくらいの揺さぶりが今の久遠にはありがたくもあった。
社内でずっとカチコチ状態だった久遠にとって、そこまで気を遣わず会話できる存在は久しぶりだったのだ。
何より、親切で出してくれたご飯が美味しかった。味見担当に任命されたのは恐縮だが、次はどんな料理が食べられるのかと思うとワクワクする。
化粧室を出て、自分のデスクの方へ足を向ける。
この建物内には神永がいるのかと思うと、いつ出没するか分からないという警戒で交感神経優位になるけれど、お腹が満たされたおかげで午前よりは幾分かリラックスできている。
給湯室が近づいてきたところで、まさしく、今久遠が警戒していた人の声が聞こえてきた。
「どうにかなりませんか」
――彼だ。
久遠の足は条件反射的に止まる。神永が、給湯室の中で誰かと会話をしているようだった。
気づかれないうちに前を通り過ぎてしまおうと思ったが、その次に聞こえてきた相手の言葉でまた立ち止まってしまう。
「採用したばっかの子だぞ。なんでだよ、なんかやらかした?」
"採用したばっかの子"――自分のことだろうか?
「そういうわけではないですが……」
「だったら尚更だよ。妥当な理由もなしに別部署に移すなんて処遇はありえない」
"別部署に移す"。
この短い会話で、久遠は文脈を察することが出来てしまった。
これ以上聞いていても傷つくだけとわかっているのに、身体は、全て聞き漏らしたくないとでも言うようにその場を動こうとしない。
ぎゅっと握った手の中に、嫌な汗がにじみ出る。
「あの子の面接担当俺だったけど、そんな悪い子じゃなかったろ。まだなんもさせてないのにパワハラか?」
「パワハラ……ではないですが、」
「パワハラにも6種類くらいあってな。その1つが『過小評価』だよ。過小評価して、なんもやらせないやつ」
神永が返答を迷っているのか、声が聞こえない。
「神永チームの1人に欠員が出るからそこに補充する。当たり前のことだろ。元から人数少ないチームさらに減らしたいわけじゃないだろ?」
「……はい」
神永の話し相手である上司はふっとため息をついた。少しトーンが静かに柔らかくなる。
「……お前が焦るのもわかるよ。早くにチームリーダーに任命されて、早く成果出したいんだろ」
「でも、」と言う上司の声が、久遠がいる方へ少し近づいた気配を感じる。
「急がば回れってやつだよ。上手く指示出して、協働して、チームとして結果を出す。これができなきゃ仕事じゃないんだ。お前は自分が有能だから人とやるの難しいかもしれないけど、上はそういうとこを見てるんだから」
上司が給湯室を出てきてしまう前に、久遠は慌てて元来た道を戻った。
早くデスクに戻らなければならないが、神永とその話し相手と鉢合わせにならないよう、一旦先程までいた化粧室に避難する。
鏡を見ると、霧山のご飯を食べて顔色が良くなっていたのも束の間、久遠の顔色はひどいものだった。
――彼が私にいてほしくないのはわかってる。
そんなこと、考えたくなくたってよく分かっていた。けれど、本人の口から実際に聞くのは初めてだ。受けるダメージが全く違う。
――彼にとって一番問題なのは、仕事で失敗することだ。
元カノがどうこう、ということに悩む次元にはいない。今の彼にとって重要なのはきっと、久遠が使えるか否かなのだ。
そう考えると、頭の芯がすぅっと冷たくなった気がした。傷ついたからではない。むしろ、頭が冴えたような感じだった。
これまで、神永の不快にならないように、身を縮こませてしまっていた。けれど、ここで久遠が本当にすべきだったのは、チーム長の迷惑にならないようにすることだったのだ。
彼は昔からそうだった。成功やトップを目指して虎視眈々と努力をし、実際に栄光に輝く。
昔から神童として期待されていたこともあり、失敗することは神永本人が一番許せないようだった。
――だから、あの時も……。
また過去を回想してしまいそうになり、久遠はそれを振り払うようにぎゅっと目を閉じた。
もうやめよう。神永が元カレだからと縮こまるのは。
再会して4日目になるのにも関わらず、未だに同じ場所にいることが信じられないのだから、そうか、このまま信じなきゃいい。
今一緒にいる人は、あの時付き合っていた人と同じ人だと思わなければいい。
昔の恋がどうだとか、そんな私情で彼の足てまどいになるのは、彼の迷惑になりたくないと思う自分の一番の望みと矛盾している。
8年熟成してきた罪悪感に、新規の罪を重ね塗りするなんて、最も避けたいことだ。
だったら恩知らずや失礼な奴と思われようが、この歳で出会った神永一織は、昔自分が付き合っていたあの彼とはまた違う存在として認識して過ごそう。
もう、思い出の蓋は安易に開けない。ここには仕事をしに来ているのだから。
久遠を拾ってくれた会社に、せめていてもいい存在くらいには思ってもらえるように。
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