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第一章
13話:試着室
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試着室の狭い空間で二人きりになった途端、空気はさらに固まった。
「では……失礼します……」
久遠は肩にかけてもらっていた神永のジャケットを畳んで下ろしてから、メジャーを手に取った。
メジャーを肩にまわすが、神永の体に決して触れないよう、ぎりぎりの距離で止める。
心臓の音がうるさい。
その音が、身にまとっているワンピースを突き抜けて、神永まで聞こえそうで、怖い。
学園祭のミスターコンの準備のために彼の採寸を行ったあの日の光景と、嫌でも重ねてしまう。
何年もの時を超えて同じ作業をすることになった運命に驚いているが、関係性はすっかりあの時とは異なるものになってしまった。皮肉な構図だった。
そして、息を止めたまま、数字を読み取っていた時だった。
「……こういうこと、前もやってたの?」
神永から突然話しかけられ、ぎくりと体がこわばる。
気まずいのはお互いの共通認識で、今回の作業は一切会話などせずに淡々と進めていく、というのが暗黙の了解だと勝手に思っていた。
話しかけられることを予測していなかったことで、過剰にびくっとしてしまったけれど、気づかれただろうか。
喉の奥で空気が引っかかるけれど、変に思われないように早く返事をしないといけない。
「え、あ……バイトの時ですか?そうです」
神永が聞いているのは、恐らく採寸のことだ。
反射的にそう答えるのが精一杯だった。
「男のお客さんとかも?」
てっきり会話はそこで終わるかと思っていたのに、神永からの問いは続いた。
問いの意味を掴めないまま、久遠は首を小さく横に振る。
「いえ……女性の時だけでしたが……」
「そうなんだ」
それだけ言って、神永は黙った。
沈黙が戻る。
店内の時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいる気がする。
空気の密度が、久遠の肺にのしかかってくるようだ。
……どうしてそんなことを聞くの?
ありえないし、考えてはいけない。
それなのに、持ち主の命令を無視して久遠の脳は、浅ましくて愚かな願望を含んだ推量を、どうしても構成してしまう。
それを振り払うように目をぎゅっと瞑る。そしてまた目を開き、メジャーの数値にピントを合わせるよう努めた。
彼の体温が、皮膚のすぐ外で息づいているのがわかる。
鏡の中で、彼の瞳が久遠の動きを追う。
久遠が見ないようにしても、神永に見られているのがわかる。
指先が震える。心臓が、痛いほど鳴る。
お願いだから、見ないで聞かないで。そう願いながら、メジャーをゆっくり彼の背に回す。
かつて何度も久遠を抱きしめてくれた胸や肩。
――今はもう、私が触れたらいけない場所。
「……裾の方、測りますね」
「うん」
短く返るその声が、彼の喉仏を震わせ、2人を取り巻く空気も震わせた。とても近くで。
なんとも思っていません、みたいな顔をすることに徹しながら、また、バイト時代の採寸の手順についての記憶を辿りながら、また、数値を正確に読み取りながら……マルチタスクがさほど得意でない久遠にとっては至難の業だった。
「……大丈夫です、測れました」
声が裏返りそうになるのを、喉の奥に力を込めて力ずくで抑える。
神永の胸元が少し落ちたように見えた。もしかしたら彼も彼なりにこの状況に緊張していて、それが解けて、息をついたのだろうか。――なんて、まさかね。
これもまた、自分が持っている願望を相手に投げ込んだだけの幻想じみた推量だ。
「どうー!?測れた?」
氷の上を歩くような緊張を伴った繊細な空気を、佐伯の張りのある声がぶった切った。
外から飛んできたその声に、久遠は「あ、はい!」と返事をし、神永の視線を避けながら、測った寸法を最後までメモに書きつける。
ペン先が震えて、字が曲がる。
集中して、集中して。
佐伯から託された作業に没頭することで、何とか心の波を押さえつけようとする。
けれどその瞬間、鏡の中で神永と久遠の目が合ってしまった。
測定を終えて姿勢を正した瞬間、鏡越しに神永の瞳が久遠を捉えたのだ。
一瞬、時が止まる。
しかし本当にそれは一瞬の出来事で、すぐに彼はバツが悪そうに目を逸らし、無言でカフスボタンを留めなおした。
――やめて。そんな顔しないで。
心の奥はそう叫んでいるが、自分にそんな発言権があるわけがなかった。
かつての2人の温もりを凍てつかせた犯人は、他でもない私自身なのだから。
試着室の狭い空間で二人きりになった途端、空気はさらに固まった。
「では……失礼します……」
久遠は肩にかけてもらっていた神永のジャケットを畳んで下ろしてから、メジャーを手に取った。
メジャーを肩にまわすが、神永の体に決して触れないよう、ぎりぎりの距離で止める。
心臓の音がうるさい。
その音が、身にまとっているワンピースを突き抜けて、神永まで聞こえそうで、怖い。
学園祭のミスターコンの準備のために彼の採寸を行ったあの日の光景と、嫌でも重ねてしまう。
何年もの時を超えて同じ作業をすることになった運命に驚いているが、関係性はすっかりあの時とは異なるものになってしまった。皮肉な構図だった。
そして、息を止めたまま、数字を読み取っていた時だった。
「……こういうこと、前もやってたの?」
神永から突然話しかけられ、ぎくりと体がこわばる。
気まずいのはお互いの共通認識で、今回の作業は一切会話などせずに淡々と進めていく、というのが暗黙の了解だと勝手に思っていた。
話しかけられることを予測していなかったことで、過剰にびくっとしてしまったけれど、気づかれただろうか。
喉の奥で空気が引っかかるけれど、変に思われないように早く返事をしないといけない。
「え、あ……バイトの時ですか?そうです」
神永が聞いているのは、恐らく採寸のことだ。
反射的にそう答えるのが精一杯だった。
「男のお客さんとかも?」
てっきり会話はそこで終わるかと思っていたのに、神永からの問いは続いた。
問いの意味を掴めないまま、久遠は首を小さく横に振る。
「いえ……女性の時だけでしたが……」
「そうなんだ」
それだけ言って、神永は黙った。
沈黙が戻る。
店内の時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいる気がする。
空気の密度が、久遠の肺にのしかかってくるようだ。
……どうしてそんなことを聞くの?
ありえないし、考えてはいけない。
それなのに、持ち主の命令を無視して久遠の脳は、浅ましくて愚かな願望を含んだ推量を、どうしても構成してしまう。
それを振り払うように目をぎゅっと瞑る。そしてまた目を開き、メジャーの数値にピントを合わせるよう努めた。
彼の体温が、皮膚のすぐ外で息づいているのがわかる。
鏡の中で、彼の瞳が久遠の動きを追う。
久遠が見ないようにしても、神永に見られているのがわかる。
指先が震える。心臓が、痛いほど鳴る。
お願いだから、見ないで聞かないで。そう願いながら、メジャーをゆっくり彼の背に回す。
かつて何度も久遠を抱きしめてくれた胸や肩。
――今はもう、私が触れたらいけない場所。
「……裾の方、測りますね」
「うん」
短く返るその声が、彼の喉仏を震わせ、2人を取り巻く空気も震わせた。とても近くで。
なんとも思っていません、みたいな顔をすることに徹しながら、また、バイト時代の採寸の手順についての記憶を辿りながら、また、数値を正確に読み取りながら……マルチタスクがさほど得意でない久遠にとっては至難の業だった。
「……大丈夫です、測れました」
声が裏返りそうになるのを、喉の奥に力を込めて力ずくで抑える。
神永の胸元が少し落ちたように見えた。もしかしたら彼も彼なりにこの状況に緊張していて、それが解けて、息をついたのだろうか。――なんて、まさかね。
これもまた、自分が持っている願望を相手に投げ込んだだけの幻想じみた推量だ。
「どうー!?測れた?」
氷の上を歩くような緊張を伴った繊細な空気を、佐伯の張りのある声がぶった切った。
外から飛んできたその声に、久遠は「あ、はい!」と返事をし、神永の視線を避けながら、測った寸法を最後までメモに書きつける。
ペン先が震えて、字が曲がる。
集中して、集中して。
佐伯から託された作業に没頭することで、何とか心の波を押さえつけようとする。
けれどその瞬間、鏡の中で神永と久遠の目が合ってしまった。
測定を終えて姿勢を正した瞬間、鏡越しに神永の瞳が久遠を捉えたのだ。
一瞬、時が止まる。
しかし本当にそれは一瞬の出来事で、すぐに彼はバツが悪そうに目を逸らし、無言でカフスボタンを留めなおした。
――やめて。そんな顔しないで。
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かつての2人の温もりを凍てつかせた犯人は、他でもない私自身なのだから。
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