32 / 38
第一章
31話:夜のオフィス
しおりを挟む
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
その日の夜、久遠は一人オフィスに残っていた。
展示会当日も参加することが決まった。そうと決まれば、これまで以上に製品に詳しくならなくてはいけない。
展示会当日は、来場者からの質問に対応することになる。久遠のブリッジノートの解説が拙ければ、補佐どころかチームの足を引っ張ることになるだろう。その思いで、久遠はブリッジノートについての勉強へのモチベーションをメラメラと燃やしていた。
チームメンバーはもう誰も残っていない。神永は、前にいた部署の部長に飲みに誘われていたらしく、珍しく一番に退勤していた。
資料を開き、関連ページを行き来し、メモをとっては読み込み、また書く。
知れば知るほど、このサービスが神永一織発案のものであることに納得させられる。
ブリッジノートは、AYA世代の入院患者が、自分の「勉強のこと」「部活のこと」「不安なこと」「復帰への希望」などを自由に書き込める、本人発信型コミュニケーションアプリだ。
記録された情報は、必要に応じて学校側・支援者側(医療・心理職・その他支援者)が共有できる。
これにより、患者を“情報の受け手”から“連携の起点”に変えるチーム支援が可能になるのだ。
チーム支援は患者とその家族中心で実現されることは常に強調されている、医療の前提だ。それを、単なる意識としてではなく、IT技術による仕組みとして、円滑化するサービスが、神永チームが作っているブリッジノートというアプリなのだ。
また調べれば調べるほど、病院側にも導入の利益があることが分かった。
ブリッジノートに記録が残ることで、学校や自治体との連携が診療報酬の対象として扱いやすくなる。
今まで記録が曖昧で算定をあきらめていたケースが減り、病院にとっては確実な収益になるという。
彼がつくったのは、優しい仕組みであるだけでなく、病院経営にとっても理にかなったツールなのだ。
目に疲れを感じて、強く目を瞑って伸びをした。固まっていた背中がゴキゴキと硬い音を立てる。
当時ブリッジノートがあれば、入院を繰り返していたあの頃の自分はどうだっただろうだなんてつい想像してしまう。
少なくとも、学芸会の動画を送り忘れられて深く傷つくことはなかったかもしれないな……。
当時の担任を責めるようなそんな考えが出てきてしまったので、振り払うようにペンを握り直してノートに向き直った。
多忙な教師としても、クラス運営と入院している児童の両方を完璧に面倒を見ることなんて不可能だ。
けれど入院している児童は自分から見える先生の姿がすべてで、悪気のないディスコミュニケーションが、自尊心の低下に大きく影響してしまうこともある。
そのような大きな負担が多忙な教師を追い詰め、バーンアウトに陥らせないためにも、ブリッジノートは機能するのだ。
入院児童が存在を「察してもらう」必要がなくなるだけで、支援の質は桁違いに上がる。
入院という環境でこそ失われがちな児童の声を、仕組みとして保証してくれる――。
気づけば、人の気配はとっくになくなっていた。最後に去っていった谷口が帰ったのも、もう30分前か。
「……もう少しだけ」
瞼が重くなっているのを無視するように呟いてみて、画面に視線を戻したつもりだった。――次の瞬間には、意識をふっと手放していた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
どれほど眠っていたのか分からない。
うとうととした闇の中で、誰かの気配がした。
コツコツと響く足音。
机の引き出しがそっと閉まる、小さな音。
誰かが近くにかがんだ気配。
そして──
ぼんやりと、誰かの声が突っ伏した久遠の丸まった背中を撫でるように響いてきた。
「──笑った顔が好きだったのに……」
柔らかい……懐かしい……。なんだっけ……。
奥深くまで久遠を引っ張るような睡魔が久遠の思考を阻害する。
次の瞬間、肩に何かがふわりとかけられた。
なに?行かないで……。
「もしもーし」
明瞭な声が落ちてきた。
はっと目を覚ますが、途端に蛍光灯の白さが目に染み、久遠は瞬きを繰り返す。
やっと明順応が済んだ目が捉えたのは、久遠に声をかける守衛さんの姿だ。
「すみません、鍵を閉める前に確認に来ました」
「……え、あ……ごめんなさい!寝てました……」
身体を起こすと、何かが床に落ちた。ブランケットが肩から落ちたようだった。
夢の続きが、胸の奥をかすめる。違和感を感じた。
ブランケットは、膝にかけていたはずなのに。
「今日はもう帰ってくださいね」
守衛さんは出口を指差した。さっきよりぶっきらぼうな口調になっている気がする。当たり前だ。仕事を滞らせてしまい申し訳ない。
「はい」
ブランケットを畳んでチェアに掛け、メモ帳やPCをまとめてカバンにしまい、席を離れる。
エレベーターに乗り込む直前、久遠はふと振り返った。さっきまで自分がうたた寝していたデスク。その周囲には、もう誰の気配もない。
どうして、あんな夢を見たんだろう。
答えのない問いが、しんと静まり返ったフロアに溶け込んでいった。
✂︎-----------------
昨日は予約日時の設定を間違えて2本投稿が出来ていなかったので、
今日こそ18:30にもう1話更新します。
その日の夜、久遠は一人オフィスに残っていた。
展示会当日も参加することが決まった。そうと決まれば、これまで以上に製品に詳しくならなくてはいけない。
展示会当日は、来場者からの質問に対応することになる。久遠のブリッジノートの解説が拙ければ、補佐どころかチームの足を引っ張ることになるだろう。その思いで、久遠はブリッジノートについての勉強へのモチベーションをメラメラと燃やしていた。
チームメンバーはもう誰も残っていない。神永は、前にいた部署の部長に飲みに誘われていたらしく、珍しく一番に退勤していた。
資料を開き、関連ページを行き来し、メモをとっては読み込み、また書く。
知れば知るほど、このサービスが神永一織発案のものであることに納得させられる。
ブリッジノートは、AYA世代の入院患者が、自分の「勉強のこと」「部活のこと」「不安なこと」「復帰への希望」などを自由に書き込める、本人発信型コミュニケーションアプリだ。
記録された情報は、必要に応じて学校側・支援者側(医療・心理職・その他支援者)が共有できる。
これにより、患者を“情報の受け手”から“連携の起点”に変えるチーム支援が可能になるのだ。
チーム支援は患者とその家族中心で実現されることは常に強調されている、医療の前提だ。それを、単なる意識としてではなく、IT技術による仕組みとして、円滑化するサービスが、神永チームが作っているブリッジノートというアプリなのだ。
また調べれば調べるほど、病院側にも導入の利益があることが分かった。
ブリッジノートに記録が残ることで、学校や自治体との連携が診療報酬の対象として扱いやすくなる。
今まで記録が曖昧で算定をあきらめていたケースが減り、病院にとっては確実な収益になるという。
彼がつくったのは、優しい仕組みであるだけでなく、病院経営にとっても理にかなったツールなのだ。
目に疲れを感じて、強く目を瞑って伸びをした。固まっていた背中がゴキゴキと硬い音を立てる。
当時ブリッジノートがあれば、入院を繰り返していたあの頃の自分はどうだっただろうだなんてつい想像してしまう。
少なくとも、学芸会の動画を送り忘れられて深く傷つくことはなかったかもしれないな……。
当時の担任を責めるようなそんな考えが出てきてしまったので、振り払うようにペンを握り直してノートに向き直った。
多忙な教師としても、クラス運営と入院している児童の両方を完璧に面倒を見ることなんて不可能だ。
けれど入院している児童は自分から見える先生の姿がすべてで、悪気のないディスコミュニケーションが、自尊心の低下に大きく影響してしまうこともある。
そのような大きな負担が多忙な教師を追い詰め、バーンアウトに陥らせないためにも、ブリッジノートは機能するのだ。
入院児童が存在を「察してもらう」必要がなくなるだけで、支援の質は桁違いに上がる。
入院という環境でこそ失われがちな児童の声を、仕組みとして保証してくれる――。
気づけば、人の気配はとっくになくなっていた。最後に去っていった谷口が帰ったのも、もう30分前か。
「……もう少しだけ」
瞼が重くなっているのを無視するように呟いてみて、画面に視線を戻したつもりだった。――次の瞬間には、意識をふっと手放していた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
どれほど眠っていたのか分からない。
うとうととした闇の中で、誰かの気配がした。
コツコツと響く足音。
机の引き出しがそっと閉まる、小さな音。
誰かが近くにかがんだ気配。
そして──
ぼんやりと、誰かの声が突っ伏した久遠の丸まった背中を撫でるように響いてきた。
「──笑った顔が好きだったのに……」
柔らかい……懐かしい……。なんだっけ……。
奥深くまで久遠を引っ張るような睡魔が久遠の思考を阻害する。
次の瞬間、肩に何かがふわりとかけられた。
なに?行かないで……。
「もしもーし」
明瞭な声が落ちてきた。
はっと目を覚ますが、途端に蛍光灯の白さが目に染み、久遠は瞬きを繰り返す。
やっと明順応が済んだ目が捉えたのは、久遠に声をかける守衛さんの姿だ。
「すみません、鍵を閉める前に確認に来ました」
「……え、あ……ごめんなさい!寝てました……」
身体を起こすと、何かが床に落ちた。ブランケットが肩から落ちたようだった。
夢の続きが、胸の奥をかすめる。違和感を感じた。
ブランケットは、膝にかけていたはずなのに。
「今日はもう帰ってくださいね」
守衛さんは出口を指差した。さっきよりぶっきらぼうな口調になっている気がする。当たり前だ。仕事を滞らせてしまい申し訳ない。
「はい」
ブランケットを畳んでチェアに掛け、メモ帳やPCをまとめてカバンにしまい、席を離れる。
エレベーターに乗り込む直前、久遠はふと振り返った。さっきまで自分がうたた寝していたデスク。その周囲には、もう誰の気配もない。
どうして、あんな夢を見たんだろう。
答えのない問いが、しんと静まり返ったフロアに溶け込んでいった。
✂︎-----------------
昨日は予約日時の設定を間違えて2本投稿が出来ていなかったので、
今日こそ18:30にもう1話更新します。
0
あなたにおすすめの小説
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
思わせぶりには騙されない。
ぽぽ
恋愛
「もう好きなのやめる」
恋愛経験ゼロの地味な女、小森陸。
そんな陸と仲良くなったのは、社内でも圧倒的人気を誇る“思わせぶりな男”加藤隼人。
加藤に片思いをするが、自分には脈が一切ないことを知った陸は、恋心を手放す決意をする。
自分磨きを始め、新しい恋を探し始めたそのとき、自分に興味ないと思っていた後輩から距離を縮められ…
毎週金曜日の夜に更新します。その他の曜日は不定期です。
【完結まで予約済み】雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~
國樹田 樹
恋愛
心に傷を抱えた大人達の、最後の恋。
桜の季節。二十七歳のお局OL、白沢茜(しろさわあかね)はいつも面倒な仕事を回してくる「能面課長」本庄に頭を悩ませていた。
休憩時間のベルが鳴ると決まって呼び止められ、雑用を言いつけられるのである。
そして誰も居なくなった食堂で、離れた席に座る本庄と食事する事になるのだ。
けれどある日、その本庄課長と苦手な地下倉庫で二人きりになり、能面と呼ばれるほど表情の無い彼の意外な一面を知ることに。次の日にはまさかの食事に誘われて―――?
無表情な顔の裏に隠されていた優しさと激情に、茜は癒やされ絆され、翻弄されていく。
※他投稿サイトにも掲載しています。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
五年越しの再会と、揺れる恋心
柴田はつみ
恋愛
春山千尋24歳は五年前に広瀬洋介27歳に振られたと思い込み洋介から離れた。
千尋は今大手の商事会社に副社長の秘書として働いている。
ある日振られたと思い込んでいる千尋の前に洋介が社長として現れた。
だが千尋には今中田和也26歳と付き合っている。
千尋の気持ちは?
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心
yukataka
恋愛
終電に追われる夜、いつものカフェで彼と目が合った。
止まっていた何かが、また動き始める予感がした。
これは、34歳の広告代理店勤務の女性・高梨亜季が、残業帰りに立ち寄ったカフェで常連客の佐久間悠斗と出会い、止まっていた恋心が再び動き出す物語です。
仕事に追われる日々の中で忘れかけていた「誰かを想う気持ち」。後輩からの好意に揺れながらも、悠斗との距離が少しずつ縮まっていく。雨の夜、二人は心と体で確かめ合い、やがて訪れる別れの選択。
仕事と恋愛の狭間で揺れながらも、自分の幸せを選び取る勇気を持つまでの、大人の純愛を描きます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる