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第一章
39話:彼女
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┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
それからというもの、業務にも慣れてきて、久遠に任される仕事も増えた。
相変わらず、神永と2人になる仕事も度々ある。けれど、久遠は前ほど動揺することは減っていた。淡々と一部下として不足なく業務を遂行することが、最も目立たない存在の仕方だと腹を括っているからだ。
展示会の日に伝えてくれた感謝と、翌日の歓迎会不参加という線引きの間の落差は、頬に氷水がぴしゃっとはねたような感覚をくれた。
"変に期待したり落ち込んだり、そういうこと、もうしない"
出勤前にメイクをする時、仕上げの保湿ミストをかけてから、鏡に向かってほぼ毎日そんなことを唱えている。
不自然とも言える習慣だけれど、案外これが奏功していた。務めてから1ヶ月経った今、久遠は、比較的安定した精神状態で仕事をこなせるようになってきている。
このまま、うまくやれるかもしれない。
お互い知らない人のフリをしたまま、過去に蓋をしたまま、単なる上司と部下としてやり過ごしていけるのかもしれない。
そんなふうに希望を見始めてしまっていた時だった。
――心を揺れ動かされてしまうことが、目にも耳にも入ってきたのは。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「あ、チーム長、彼女といる」
谷口の外回りに同行し、2人でオフィスに帰ってきた時。
はじめは、谷口が言っている言葉がよく分からなかった。けれど、谷口の視線につられてその視線の先のものに共同注意を向けた時、やっとその言葉が理解され始めた。
広いオフィスのロビーの受付には、神永が立っていた。退勤には早いので、おそらく神永も外に出ていたところから帰ってきたところなのだろう。荷物を持っている。荷物を持って、受付嬢の一人と会話をしていた。
それだけならまだ、何も特別なことじゃない。社員が受付嬢と話すことは当然あることだし、おかしなことではない。
久遠が思わず息を呑んだのは、神永の表情がはっきり見えてからだ。
……あんな笑顔、久しぶりに見た。
会社で再会してからの神永は、チーム長としての姿、表情しか見ていなかった。無表情かもしくは、穏やかだけど凛としているような涼しい笑顔だけ。
けれど今、遠くで神永が受付嬢に向けている笑顔は、久遠にまるで高校時代にトリップしたかのような感覚に陥らせる。
神永よりずっと背の低い、ちょうど久遠のような背丈の女性を見下ろして、柔らかく笑っている。そして時折、鼻で笑うように嘲笑するような顔もして。
チーム長神永の役割を脱いだような表情だった。
会社の中に神永が素に近い顔を向ける人がいるなんて可能性を、久遠はこの瞬間までなぜか度外視していたみたいだ。
「あ、話してなかったっけ、チーム長のあれ」
谷口に言われて、はっとトリップから帰ってきた。つい神永と受付嬢に釘付けになっていたことを自覚して、慌てて谷口へと視線の矛先を変える。
特別気にしてしまっていると察されてしまっては大変だ。なんともない声色を出せるように喉に意識を向けてから答える。
「伺ってはないです」
声のトーンばかり気にしていたらうっかり敬語が出てしまったけれど、谷口は今そんなことには関心がないようで、面白そうに神永の方を見ながら言った。
「まあ、付き合ってるだろ派と、いやあれは違うぞ派がいて、まだはっきりしてないんだけどね」
「ゆうてもあの顔は他に向ける顔と違いすぎるだろーとは、俺は思うんだけどねー」と楽しそうな谷口の横で、久遠は必死に受付カウンターの神永から視線を外したいのに、眼が悪あがきするみたいに言うことを聞いてくれない。
「女の子から見てどう思う?」
意見を聞かれて、久遠は慌てて笑顔を浮かべた。かなりぎこちないものになっていたと思うが、楽しそうな谷口は何も気にしていない。
神永と話している受付嬢の女性は、どこかで見たことがあるような気がすると思っていたけれど、これまで来社する度ダントツで可愛いと思っていたからかもしれない。ここのオフィスの受付嬢はみな可愛く、メイクの上手な女性が揃っているけれど、神永が今話している相手は中でも目を引いた。
緩くカーブがかかった柔らかい髪色の髪の毛は、美容師のSNSで出てくる動画で見るような嘘みたいな艶があって、笑った時にできるえくぼの愛らしさもこの距離からでも見える。肌の色に合った淡いピンクのチークが少し幼さを印象付けていて、ぱっちりした二重と長いまつ毛は、瞬きする度に音がなりそうだ。神永を見上げて笑いながら話すその女性は、絵に描いたような美女だった。
「可愛い、すごく」
「違う違う。いや、可愛いけど、そうじゃなくて、久遠さんは付き合ってると思う?あれ」
あれと指さされ、また受付の2人へ目線を向ける。
神永が「じゃあ」と言うように軽く手を上げて、去ろうとしている時だった。受付嬢の口は、「うん、また」と動いたように見える。
お似合いだった。
「もしかしたら、そうかもしれないね」
エレベーターの方へ去っていく神永の背中を見つめて見送る受付嬢。その受付嬢を、久遠がまた見つめている。
神永が遠ざかったところで、神永と話していた受付嬢に対して隣の受付嬢がからかうように小突き、彼女が照れたように笑っているところまで見えた。
「おー、久遠ちゃんは付き合ってるだろ派ね!俺と仲間。ちなみに、溝口さんは敵。2対1だな今」
勝手に陣営に巻き込まれたが、否定することもないので食い下がらなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
ショックを受けていることを、認めたくなかった。自分が立場をわきまえられていなかったことを自覚したくなかったから。
その後デスクに戻って何度もタイピングミスをしても、コピーの長辺とじの設定を間違えても、コーヒーをデスクにこぼしても、まだ、それについて考えるのを避けていた。
けれど、とうとうショックを受けている自分と向き合わざるを得なくなったのは、早めに上がることが出来てオフィスビスを出た後。
――車に轢かれかけたことがきっかけだった。
「久遠っ……!」
誰かの大きな声が近くで響き、誰かに腕を強く引かれた。
驚いて顔を上げると、今渡ろうとしていた横断歩道の信号は赤になっていた。
それからというもの、業務にも慣れてきて、久遠に任される仕事も増えた。
相変わらず、神永と2人になる仕事も度々ある。けれど、久遠は前ほど動揺することは減っていた。淡々と一部下として不足なく業務を遂行することが、最も目立たない存在の仕方だと腹を括っているからだ。
展示会の日に伝えてくれた感謝と、翌日の歓迎会不参加という線引きの間の落差は、頬に氷水がぴしゃっとはねたような感覚をくれた。
"変に期待したり落ち込んだり、そういうこと、もうしない"
出勤前にメイクをする時、仕上げの保湿ミストをかけてから、鏡に向かってほぼ毎日そんなことを唱えている。
不自然とも言える習慣だけれど、案外これが奏功していた。務めてから1ヶ月経った今、久遠は、比較的安定した精神状態で仕事をこなせるようになってきている。
このまま、うまくやれるかもしれない。
お互い知らない人のフリをしたまま、過去に蓋をしたまま、単なる上司と部下としてやり過ごしていけるのかもしれない。
そんなふうに希望を見始めてしまっていた時だった。
――心を揺れ動かされてしまうことが、目にも耳にも入ってきたのは。
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「あ、チーム長、彼女といる」
谷口の外回りに同行し、2人でオフィスに帰ってきた時。
はじめは、谷口が言っている言葉がよく分からなかった。けれど、谷口の視線につられてその視線の先のものに共同注意を向けた時、やっとその言葉が理解され始めた。
広いオフィスのロビーの受付には、神永が立っていた。退勤には早いので、おそらく神永も外に出ていたところから帰ってきたところなのだろう。荷物を持っている。荷物を持って、受付嬢の一人と会話をしていた。
それだけならまだ、何も特別なことじゃない。社員が受付嬢と話すことは当然あることだし、おかしなことではない。
久遠が思わず息を呑んだのは、神永の表情がはっきり見えてからだ。
……あんな笑顔、久しぶりに見た。
会社で再会してからの神永は、チーム長としての姿、表情しか見ていなかった。無表情かもしくは、穏やかだけど凛としているような涼しい笑顔だけ。
けれど今、遠くで神永が受付嬢に向けている笑顔は、久遠にまるで高校時代にトリップしたかのような感覚に陥らせる。
神永よりずっと背の低い、ちょうど久遠のような背丈の女性を見下ろして、柔らかく笑っている。そして時折、鼻で笑うように嘲笑するような顔もして。
チーム長神永の役割を脱いだような表情だった。
会社の中に神永が素に近い顔を向ける人がいるなんて可能性を、久遠はこの瞬間までなぜか度外視していたみたいだ。
「あ、話してなかったっけ、チーム長のあれ」
谷口に言われて、はっとトリップから帰ってきた。つい神永と受付嬢に釘付けになっていたことを自覚して、慌てて谷口へと視線の矛先を変える。
特別気にしてしまっていると察されてしまっては大変だ。なんともない声色を出せるように喉に意識を向けてから答える。
「伺ってはないです」
声のトーンばかり気にしていたらうっかり敬語が出てしまったけれど、谷口は今そんなことには関心がないようで、面白そうに神永の方を見ながら言った。
「まあ、付き合ってるだろ派と、いやあれは違うぞ派がいて、まだはっきりしてないんだけどね」
「ゆうてもあの顔は他に向ける顔と違いすぎるだろーとは、俺は思うんだけどねー」と楽しそうな谷口の横で、久遠は必死に受付カウンターの神永から視線を外したいのに、眼が悪あがきするみたいに言うことを聞いてくれない。
「女の子から見てどう思う?」
意見を聞かれて、久遠は慌てて笑顔を浮かべた。かなりぎこちないものになっていたと思うが、楽しそうな谷口は何も気にしていない。
神永と話している受付嬢の女性は、どこかで見たことがあるような気がすると思っていたけれど、これまで来社する度ダントツで可愛いと思っていたからかもしれない。ここのオフィスの受付嬢はみな可愛く、メイクの上手な女性が揃っているけれど、神永が今話している相手は中でも目を引いた。
緩くカーブがかかった柔らかい髪色の髪の毛は、美容師のSNSで出てくる動画で見るような嘘みたいな艶があって、笑った時にできるえくぼの愛らしさもこの距離からでも見える。肌の色に合った淡いピンクのチークが少し幼さを印象付けていて、ぱっちりした二重と長いまつ毛は、瞬きする度に音がなりそうだ。神永を見上げて笑いながら話すその女性は、絵に描いたような美女だった。
「可愛い、すごく」
「違う違う。いや、可愛いけど、そうじゃなくて、久遠さんは付き合ってると思う?あれ」
あれと指さされ、また受付の2人へ目線を向ける。
神永が「じゃあ」と言うように軽く手を上げて、去ろうとしている時だった。受付嬢の口は、「うん、また」と動いたように見える。
お似合いだった。
「もしかしたら、そうかもしれないね」
エレベーターの方へ去っていく神永の背中を見つめて見送る受付嬢。その受付嬢を、久遠がまた見つめている。
神永が遠ざかったところで、神永と話していた受付嬢に対して隣の受付嬢がからかうように小突き、彼女が照れたように笑っているところまで見えた。
「おー、久遠ちゃんは付き合ってるだろ派ね!俺と仲間。ちなみに、溝口さんは敵。2対1だな今」
勝手に陣営に巻き込まれたが、否定することもないので食い下がらなかった。
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ショックを受けていることを、認めたくなかった。自分が立場をわきまえられていなかったことを自覚したくなかったから。
その後デスクに戻って何度もタイピングミスをしても、コピーの長辺とじの設定を間違えても、コーヒーをデスクにこぼしても、まだ、それについて考えるのを避けていた。
けれど、とうとうショックを受けている自分と向き合わざるを得なくなったのは、早めに上がることが出来てオフィスビスを出た後。
――車に轢かれかけたことがきっかけだった。
「久遠っ……!」
誰かの大きな声が近くで響き、誰かに腕を強く引かれた。
驚いて顔を上げると、今渡ろうとしていた横断歩道の信号は赤になっていた。
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