【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

56話:2人きりの出張(4日目)①

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 出張4日目。

 折り紙教室を終えたその日の夜、病院スタッフから飲み会の誘いを頂き、神永と久遠も居酒屋に向かうことになった。

 看護師が数人、心理士が3名、医師も何人か混じっているらしいが、私服に戻ってしまえば、誰がどの職種なのかもう分からない。仕事の緊張がほどけた空気の中で、皆それぞれグラスを手にしていた。
 久遠はその様子を見て、自分がかつてお世話になっていた看護師たちもこうだったんだろうか、なんて考える。今になって彼らの舞台裏を見れたような気持ちでこっそり嬉しくなる。

 神永とこうして飲みの席にいるのは初めてだった。あの久遠の新歓の時も、神永は出席を断っていた。だから、オフィスでない居酒屋という場所にいる彼が、なんとなく現実味を帯びていないように見える。

 店に入ると、神永の隣は自然と若い女性の看護師たちに囲まれた。
「神永さん、普段どんなお酒飲まれるんですか?」
「伊豆、よく来られるんですか?」
 神永は困った顔もせず、優しい笑顔で当たり障りのない返事を返している。その顔を、彼女たちはうっとりと――いや、ほとんど食い入るように見ていた。
 久遠は、その向かい側でグラスを持ったまま静かに座っていた。神永を今か今かと狙っている女性陣に、その人は今カノがいるはずですよ、と言ってみたい気持ちも一瞬よぎる。しかし、それは親切心というよりも、久遠と違って何も考えずに神永に近づくことができる彼女たちへの羨望から来るものだと自分でも分かっていたから、もちろん何もしなかった。

「いやあ、小島さんはお手柄でしたね」

 高橋が、そう言って久遠の方に向き直ってくれた。

「折り紙教室にあの來くんが協力してくれるなんて思っても見なかったですよ。彼がプレイルームに来てくれことすら、今日が初めてなんです」

「本当ですか?そうなんですね」

 久遠が来てから來に変化が見られた事実に、そこに自分の影響力がどれだけあったかは分からないにせよ、素直に嬉しく思った。つい笑みが零れる。

「彼の心を開く腕がピカイチでしたね」

 高橋からそんなふうに真っ直ぐ褒めてもらえると、嬉しさよりも焦りが勝ってしまった。

「いえそんな……。たまたまうまくいったんだと思います」

 自分を必要以上に低くするつもりはなかったが、堂々と褒め言葉を受け取ることもできなかった。神永がすぐそばにいるからだ。久遠の存在を疎ましく思っているかもしれない相手の前で、評価されるのが怖かった。

「神永さん、よく彼女を連れてきてくれましたね」

 高橋は、今度は神永の方を見て言ってしまった。ああ、私にだけ言ってくれるならまだどうにかできたのに。この輪に神永を入れないで……。高橋に何も罪はないのにもかかわらず、心の中でそう叫んでしまう。

 視線が神永に集まり、神永が口を開いた。その瞬間は久遠にとって、咄嗟に耳を塞ぎたくなるほど怖かった。

「私も、彼女だからこそできたことだと思っています。期待して選んで、ここに連れてきました。お役に立ててよかったです」

 騒がしい店内で、その言葉だけが久遠の耳にやけに鮮明に到達した。

 久遠は目を見開く。周囲は神永のその言葉に何やら反応しているのは聞こえてくるが、久遠にはそんな余裕はなかった。

 嬉しい、悲しい、どちらとも言えない。感情が追いつく前に、ただ強い衝撃だけが残った。

 だって、一昨日の夜、『会いたくなかった』と言った人が、今はこうして、上司として最大限の評価を口にしている――。この落差を、どう処理できるのか分からなかった。

 高橋、神永、看護師の会話は続いている。その中で久遠だけが、混乱の中に置いていかれてしまったような感覚に陥っていた。

「しっかし、どうして、あんなに早く懐いたんでしょうね?年齢が近いからですかね」

 高橋が首を傾げる。

 高橋の目が久遠の目を見ていたため、久遠に話しかけてくれていると分かり、慌てて姿勢を正す。いつまでも呆けていられない。

「そうかもしれません」

 久遠は、そう答えた。しかし、神永はやや否定した。神永は少し言葉を選ぶように話す。

「確かに年齢のこともあると思います。ですが恐らく、それに加えて彼女自身の経験が活きたのかと」

 その一言で、場の視線が久遠に戻る。神永は、自然に久遠に話を振る形を作ってくれていた。集団の会話に、久遠が入りやすいように。

 ――チーム長と一派遣社員としては、久遠に入院歴があるなんて知らないはずなのに。
 それに神永から触れてきたことが、何を意味するのかわからなかった。一昨日既に2人の間に過去があったことを認めてしまっているからもう触れても構わないだろうと吹っ切れたのか。はたまた、使える価値のある話題だと判断して、仕事のための利用だからと割り切って持ち出してきたのか。

 そんなことを考えていてもしょうがないので、そこから久遠は、小児科に入院していた頃のことを簡単に話した。より幼い子たちに絵本を読み聞かせるといった役割があるだけで気持ちが違ったこと。誰かの役に立てる感覚が、支えになっていたこと。細かくは語らなかったが、周囲は真剣に聞いてくれ、その中で神永も黙ってそれを聞いていた。

 再び話の標的が自分から他へ移っていくと、久遠はまた、混乱の中に放り戻され、分からなくなってしまう。一昨日の夜の神永から言われた言葉が頭から離れないのだ。優しくされるほど、評価されるほど、心の中はごちゃまぜになってくる。

 久遠は、その混乱から逃げるすべがそれしかなくて、ひたすらアルコールの入ったグラスに口をつけていた。特別美味しいわけじゃない酒も、今の久遠にとっては、それを飲むという動作でこの場に自然に擬態できるから有難い。
 周囲の会話に相槌を打ち、笑い、グラスを口に運ぶ。自分から話すことは少なくて、聞き役に回っていたから、気づけば飲み物だけが減っていった。グラスを空にすると、誰かが自然に次を注いでくれる。その流れを断る理由も見つからなくて、久遠はそのまま受け取ってしまう。

 しばらくして、頭の中が少しずつ浮いてくるような感覚に気づいた。視界の周縁が少しだけ暗くなっていて、周囲の笑い声が一拍遅れて届く。これはまずい、とようやく思った。
 変なことを言う前に、席を外そう。そう考えたのか、それとも、ただ空気から逃げたかっただけなのか、自分でも分からないまま、久遠は立ち上がった。誰かに声をかける余裕もなく、そのまま店の外へ出る。
 席を立つ瞬間、神永は高橋と話していたため、何か言われることもなく退店することができた。 


 外に出ると、夜の空気が思った以上に冷たかった。けれど、店内はいやな熱気が籠っていたこともあり、今の久遠にはちょうど良い。

 ――ここも、海が近いんだ。

 遠くから、低く響く波の音が聞こえた。波の音は一定で、深くて、途切れない。そのリズムに意識を向けると、胸の内側でざわついていたものが、ほんの少しだけ静まる気がした。
 久遠は、波音を逃がさないように、ただ耳を澄ませる。早く、このふわふわした感じが引いてほしかった。早く、いつもの自分に戻りたかった。

 ガタッ――!

 静かな空間を割るように、突然激しい音が聞こえた。

 反射で振り向くと、暖簾を押しのけたままの神永が立っていた。
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