【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

73話:犯人は久遠

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 神永が出張へ出た後も、メンバーは各々の仕事を淡々とこなしていた。といっても、ほとんど外回りに出ているのでデスクに残っている人の方が少ない。

「なんか、チーム長いないとたるむよな」

 隣の隣のデスクの谷口が、目はモニターに向けたまま、久遠に話しかけてくる。2人の間の席である溝口は外出していてここにはいない。

「うん、緊張感は減るかもね」

「チーム長って、ほんとに俺らと1歳しか違わないんだよな?なんであんなオーラあるんだろうな。姿勢いいからかな?インナーマッスル?俺も鍛えようかな」

 確かにいつも以上にお喋りになっている谷口が言う。久遠に話しているというよりかは、眠気しのぎに独り言を言っているという感じだった。

 神永一織が持っている凛としたあの雰囲気は、普段チーム全体に作用して、士気を上げているみたいだ。声も所作も穏やかで落ち着いていて、威圧的ではない。けれど、何となくチームをまとめあげる力がある。思えば、高校で彼が率いていた弓道部も同じような雰囲気があった。

「あー血糖値上がって眠たいしんどい。一旦メール見る」

 在宅で働いているのかというレベルに独り言をいう谷口。

 しかし、次の瞬間、緊張感が0に等しくなっていた谷口の動きが少し止まったように見えた。

「……どうかしました?」

 久遠は、シュレッダー処理の準備のため、冊子のホチキスを外しながら尋ねた。

 谷口は自分のモニターを凝視したまま答える。

「いや、これ……久遠の方にも行ってる?」

 "これ"と言いつつ、谷口はモニターから視線を外さないので、何を指しているのか分からない。マウスを覆っている右手も動かさず、ただ唖然としている。

 しばらくそのままなので、久遠は立ち上がって谷口のそばに近寄った。

「え……」

 谷口のモニター画面に映っていたのは、メールだった。1枚だけ画像が挿入されていて、テキストは1行のみ。

 画像は、女性の証明写真のような写真で、テキストは ――【ナンバーワン受付嬢(整形前)】と書かれていた。

 ぞわりと鳥肌が立った。

 その写真は、久遠がちょうど今朝目にしたものだったのだ。

 どうして……どういうこと?

 そのメールに添付されていた写真は、ありすのリップケースから出てきたあの写真と全く同じだった。

 なんで……。

 脈が早鐘を撞くように騒ぎだす。状況は理解できなかったが、異常事態が起きていることをただ身体が警告していた。

 次第に、周囲がざわつきだすのも聞こえてきた。遠くの方のエリアの社員まで、ひそひそと会話しているのが見えて、明らかに業務以外のことで騒ぎが起きているのだと分かる。
 
 メールは、ネクサイユ社員に一斉送信されているようだった。件名はなんてことない業務連絡を装っている。だから皆、何も疑わずにメールを開いたのだろう。

 "ナンバーワン受付嬢"。そんな風に表現されうる受付嬢など、ネクサイユが入っているビルでは、一人しかいない。

 ――これが、ありすさんってこと?

 「これチーム長の彼女さんのこと言ってるってことだよな……」

 谷口が言う。やはり、久遠以外も同じ認識のようだ。

「誰がこんな……流出させるみたいなこと」

 なぜこんなメールが、ネクサイユの社員に向けてばら撒かれたのか。どういう意図で、誰が。

 メールに添付された画像の女の子が、こちらを見ている。幅が広い瞳は、重ための一重まぶたに覆われていて、表情はあまり明るくなかった。これがありすだと言われても、少し頭が混乱する。
 けれど、そのつもりで見てみると、鼻や口、小さい顔の輪郭に関しては、ありすに似ているように見えてくる。

 そしてやはり、この写真の少女を見ていると、記憶の箱が刺激される感覚がある。

 ――私はこの女の子を知っている……?

 先ほどはよく見る前にありすに写真を取り上げられたが、モニターに映る写真を時間をかけて眺めていると、ますますその考えが強まっていく。

 この女の子を見ていると、なぜだか、昔の光景が、欠片のように頭に蘇るのだ。

 高校の体育館。学校の最寄り駅近くの橋――。

 どうしてなんだろう……。

 掴みきれない記憶と、今朝久遠がこの写真を見てしまったというこのタイミングで画像流出が起こったことに、久遠は嫌な予感を感じていた。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 翌日。

 最初は、違和感だった。

 社内で誰かが自分を見る視線が、ほんの少しだけ遅れる。会釈をしても、返ってくるまでに間がある。

 はじめは、顔や体に何か変なものについているのかと思ったくらいだ。けれど化粧室に行って鏡を確認しても、特に変わった様子はない。

 気のせいだよね……。

 そう言い聞かせて、久遠はキーボードを打ち続けた。しかし、昼過ぎになって、それははっきりした形になる。

「……聞いた?」
「女は怖いねぇ」

 ひそひそ声が、背中に刺さる。久遠が席を立つと、会話が途切れる。久遠が少し遠ざかると、また始まる。

 胸の奥が、冷えていく。

 溝口が、ローラー付きの椅子に座ったまま少し久遠の方に身を寄せ、気まずそうに話しかけてきた。

「久遠ちゃん」

「はい」

 溝口なら、何か知っているかもしれない。今日の社の様子に違和感がある理由について。

「昨日のさ、あるじゃない。受付嬢のコのやつ」

 直接的な表現をやけに避けようとしてくるのが少し違和感だったが、センシティブな話題であるため、ありすに配慮しているのだろうと思った。

「あのメール……久遠ちゃん、は、何か知ってる?」

 その先は、はっきり言われなかった。でも、十分だった。

「……もしかして、私が疑われてますか」

「いや、全然。私たちは全然よ」

 溝口は即答した。溝口の奥にいる谷口も、その他のメンバーも、心配そうな表情で久遠を見ていることに気がついた。

 周囲は、相変わらずこちらに意識を向けている雰囲気がある。

「けど、派遣の小島さんって子が犯人らしいって噂になっちゃってるのよ。どうしてかしら」

 普段お母さんのように頼もしい溝口が、眉間に深く皺を寄せている。久遠のことが心配でたまらないといった顔から、本当に自分のことを信じてくれているのだということが伝わってきて少し安心する。でも、どうして……。

「あの、私やってないです」

 溝口に向かって言うと、チームの皆が頷いてくれた。

「分かってるよ!久遠はやってないよな!」

 谷口がややオーバーな音量で答えてくれた。あまりに大きな声だったので、他のエリアからも視線が飛んできたのを感じた。

 チームが信じてくれているのはとても嬉しい。一方、その他の社員たちは、久遠と何の関わりもないために久遠を信じるための材料もない。

 根も葉もない噂だとしても信じてしまうのは無理もない話だった。自分に関係のない派遣を犯人として疑うのは、人気受付嬢のスキャンダルを焚きつけるための薪や灯油としてうってつけの話題なのかもしれない。

 久遠は、ゆっくり椅子に座り直した。マウスに伸ばす手が震えている。

 私じゃない、ともう一度言いたかった。けれど、単なる派遣で、チーム以外誰とも交流がない久遠は、一体誰に向かって言えばいいのか分からなかった。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 流出から2日目。

 真犯人に新たな動向はない。ありすに関しては、仕事を休んでいるらしいと耳に挟んでいる。久遠一人にすら、見られることをあそこまで恐れていたあの写真を社内メールでばら撒かれたのだ。仕事ができない状態になるのは当然だ。ありすに対する印象は揺らぎがあるため、久遠は彼女を好きでも嫌いでもないけれど、恋人である神永が気を揉むだろうと思いそれが心配だ。しかも、今は出張中で彼女のそばにいることが出来ない。きっとそれは、2人にとって大きな不安だろう。

 ――それに、久遠にとっても。

 神永不在の神永チームは、久遠のことを信じると支えてくれている。けれど、個人の善意は、噂の前では無力だった。いつもなら、こういった不安定な状況でチームの方向や在り方を定めてくれるのは神永だ。その支柱がない今、為す術がなかった。

 証拠も出処も定かでない噂など、日々働いていればきっと皆忘れる。
 そう思って、久遠は平常心を意識して業務にあたっていた。いつも通り、いつも通り。

 キーボードを打つ。誤入力し、バックスペースキーを連打する。共同編集のExcelファイルを開いて進捗を入力する。同期に失敗し、今打った分のデータが消えた。気を取り直して、メールチェックをしようとソフトを開く。例のメールが目に入ってしまって、気を取られる。

 いつも通り……。

 その時、デスクに置いていたスマホが震えた。メールを受信したみたいだった。差出人は、派遣元の会社になっていた。そして件名は、「今後のご就業につきまして」。

 目に入ってきた文章は、

「現在のご就業先につきまして、社内の状況について先方より共有を受けております。」
「内容の真偽に関わらず、このまま同現場での就業を継続することは、小島様にとってご負担が大きいと判断……」
「そのため、今回は早めに現場を引き上げ、別の就業先を探す方向で進めさせていただければと……」
「詳細については、改めてご相談のお時間を……」

 派遣元にまで噂が辿り着くということも、それがここまで早いということも、考えが及んでいなかった。ドクドクと激しくなる鼓動を感じながら、メールの文面を何度も目が滑りそうになりながら読み上げると、今後の生活が大きく変わってしまう予感に震えた。

 スマホの画面を消して、1つ深呼吸をしてみる。

 一度、凝り固まった身体の巡りを良くしよう。化粧室まで歩くだけでも、呼吸がしやすくなるかもしれない。
 そう思い、久遠が席を立ちかけた時だった。中年男性の声が降ってくる。

「小島さんだね」

 部長が話しかけてきた。驚いて慌てて立ち上がり、会釈する。

「お疲れさまです」

「今、少しお話いいですか」

 その場では理由は言われなかった。けれど、今呼び出される理由など1つしかなかった。

 部長に続いて移動する時、周囲の視線が刺さる。いつもより静かなフロア全体の意識が、自意識過剰とは思えないほど、久遠の方へ注がれているような気がした。

 案内されて入った応接室の中にいたのは、管理職の男性が1人。部長もその人の横に座り、久遠には向かいに腰掛けるよう促した。

「ごめんなさいね、作業中に呼び出して」

 切り出したのは、部長の方だった。声は案外柔らかいけれど、距離のある調子だ。

「最近、ちょっとね……君の名前が社内で出ていて」

 やっぱり、と思う。

 久遠は膝の上で両手をぎゅっと握った。

「このメールのことでね」

 部長が持っていたPCの画面をこちらに見せる。案の定、例のメールが表示されていた。

「こんなことで呼び出して申し訳ないんだがね、これだけ騒ぎになっていると、こちらとしても、お話はしなくちゃいけないということでね」

「はい」

 喉が固まりそうだった。

 こうして中年の上司と面談をする構図が、久遠はとても苦手だった。

「もし、やっていないという明確な証拠が小島さんの方にあったら、一番いいんだけどね。それだけで、この話は終わるから」

「あの」

 久遠が口を挟む。部長たちも、それを許すように目線をくれた。

「そもそも、どうして私が、その……疑われる形になっているのでしょうか」

 久遠にはまだそれが分かっていなかった。"やっていない証拠"を求める前に、そちらから、"やったと思われる証拠"を提示してほしいと思った。

「それもねえ、僕らも分かってないところがあるから申し訳ないんだけどね。タレコミなんだよ、実は」

 タレコミ?

「小島さんが、あの日の始業前、例の受付嬢の方と揉めているのを見たって人がいたんだ」

 その言葉が、久遠の胸を静かに冷やす。

「まあこれだけじゃ証拠にならないでしょって言われるとこちらも弱いんだけど……問題なのは騒ぎになっちゃってることなんだよねぇ。揉めたってことについては、実際にあったことなのかな」

 まさか、階段でのやり取りを第三者に見られていただなんて思わなかった。けれど、たしかに、あの非常階段は音がよく響くため、遠くのフロアの踊り場などにいたとしても話し声はよく聞こえるだろう。

 久遠は、頷きたくなかったが頷いた。そこは否定できるところではなかったから。

 すると向かいの2人は顔を見合せ、少し納得したような表情になる。

 久遠は一瞬、口を開きかけて、閉じた。

 やった証拠も、やっていない証拠も、ない。あるのは、噂と、組織的な空気と、曖昧な疑念だけだ。

 反論しようと思えば、できなくはない。でも、胸の奥で、何だかもう諦めてしまっている自分が座り込んでいた。

 今、この構図が、どうしようもなく怖かったからだ。

 管理職の男性たち。応接室。静かな圧。――前の会社で、助けを求めたときの光景が、嫌でも蘇る。

『証拠がないわけだから』
『若い子がまーた騒いでるよ』
『正直、君も悦んでたんじゃないの』

 反笑いで、まともに話も聞いてもらえなかったあの時の、喉の奥が詰まるような感覚。思い出されるあの構図は、今の久遠のエネルギーを着実に奪っていた。無力化するための特殊なガスが出ているみたいに、熱意を担う心の部位が、どんどん縮小していく。混乱するのではなくて、かえって心が冷えていく。

 身に覚えのない疑念に対して躍起にならない理由には、もう一つあった。

 ……引き際なのかな。

 神永の顔が、ふっと浮かんだ。

 彼と再会してからずっと、心がすり減っていた。はじめは、罪悪感を抱える相手と再会してしまったせいで。しかしその後は、叶わないと分かっている想いに身が焦げていくのが苦しかった。

 寄せては返す波のような恋愛感情が、だんだんと返らなくなっていき、やがて満潮になった。

 期待しては落ちて、自分でもバカみたいだと思っていた。たとえ彼に今恋人がいなくたって、そもそも、私だけは彼を求める資格なんて持っていないはずだったのに。

 ここに居続ける限り、きっと同じことを繰り返す。

 久遠は、視線を落としたまま、静かに口を開いた。

「……あの」

 2人の視線が久遠を向いている。

「もし私が、ここを辞めるって言ったら……それが一番早いですか?」

 一瞬、空気が止まった。

 けれど、間違ったことは言っていないはずだという自信はあった。これが、相手にとって最も楽なルートのはずだと分かっていた。一社員のために業務時間を割くことすら負担なのに、今回は対象がなんと派遣社員なのだ。わざわざ守ることに会社が感じる手間は増え、一方で、存在ごと切ってしまうのも容易に可能な会社のパーツ。

 年上の管理職が、わずかに目を瞬かせる。

「……あ、うん」

 そして、少し間を置いて言った。

「分かってくれて助かるよ」

 引き止められもしない。迷いも、惜しさも、そこにはない。当然だった。久遠が勝手に働く楽しさを見出していたここは、期限付きの居場所であって、本当の居場所ではなかったから。

「分かりました」

 久遠は、小さく頷いた。

「私のほうから、派遣会社には連絡します」

「助かるよ」

 席を立つ。ドアに手をかけ、「失礼します」と言って部屋を出るまで、凛とした姿勢は崩さないようにした。強がりだったけれど、神永チームの一員として少しでも恥ずかしい印象を持たれないようにしたかった。



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