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104話:久遠のハジメテについて
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私の恋人は、私の前だと少し子どもっぽくなる。
「久遠、これね、話すかどうかずっと迷ってたんだけど」
彼が言いづらそうに、しかし少し不貞腐れたような顔で話しかけてきたのは、体を重ねた回数がまだ片手で数えられるほどだった時期のある夜のこと。
身体の奥にまだ彼を感じているような、甘い疼きに意識を奪われていた時、隣に横たわった一織がぽつりと呟いた。
まだ息が乱れている久遠とは違って、彼は、汗こそ浮かべているものの、既に意識がしっかりしているみたいだ。
「ん……なに?」
「こんなこと言うのね、ほんっとに女々しいなって……思うんだけど」
彼にしては珍しい、歯切れの悪い物言い。言い訳じみた前置きをわざわざ置いて何を言い出すのかと身構え、久遠の意識の混濁も少しずつ晴れてくる。
「うん。どうしたの?」
「久遠のはじめてって……どんな奴?」
急にそんなことを聞くものだから、久遠は一瞬目が点になったけれど、次第におかしくなってきて、つい笑みがこぼれた。
すると、すかさず彼の右手が伸びてきて、頬を挟まれる。
「んむっ」
ぶにっと頬を潰され、久遠はにやけを止めようとするけれど、なかなか難しい。そんな久遠の様子に、さっきまで遠慮がちだったはずの彼の顔はどんどん険しくなっていき、久遠を睨んでいる。
「笑わないで。面白い話じゃない」
普段の彼らしくない子どもみたいな棘が面白くて、ますます愛おしい。
「一織くん、ずっと気になってたの?」
潰された窮屈な頬の中で発される声は、もごもごとくぐもっている。
「当たり前でしょ?最初に聞いた時、頭真っ白……っていうか、真っ黒になっちゃって……。あのままシてたら、久遠のこと壊しちゃってたかもしれない」
そう言われて、久遠も2人の初めての夜のことを思い出す。彼が入ってくることに少し恐怖を覚えて、ゆっくりして、とお願いする時、『久しぶり』だからと久遠から言ったのだった。
「……怖いこと言うね」
「笑い事じゃないんですよ久遠さん」
頬を掴む力は優しい。けれど、彼の眼差しは本当に冗談じゃないのだと訴えかけてきている。
久遠もなんとか笑みを抑えて、布団を引き上げた。彼の手から顔を解放されて、布団を纏ったまま枕の上に腰掛けると、彼も起き上がって隣に腰掛けた。
「……本当に聞きたいの?」
一応彼に再確認すると、彼は何か言いかけては視線を逸らすということを何度か繰り返したが、最終的に頷いた。
「大学生の時に付き合ってた人。サークルの先輩で」
「サークルの……先輩……」
一織は、そのワードがまるで鉛のような重さを持っているもののように受け止めて、がっくりと項垂れた。
「なんのサークル入ってたの……?」
彼は両手を顔で覆ってしまっていて、表情は見えない。けれど、その絞り出すような声だけで十分に感情は伝わってきた。
「や、やっぱりやめない?一織くんがつらそうだよ」
「……いや、知りたい。どっちから告白したの?久遠から……?」
なんのサークルに入っていたかはもうどうでもいいのか、質問がすり変わった。
「ううん。私はもともと、先輩だな、としか思っていなくて。向こうが好きだと思ってくれてたことにも全然気づかなくて……。だから初めて告白してくれた時、断ったの」
大学1年の時に付き合ったあの人は、久遠が友だちに誘われて入サーしたバトミントンサークルにいた3年生の先輩だった。体験の日、一緒に行った久遠の友だちは久遠を置いてある男性の先輩とダブルスを組んでしまい、所在なかった久遠に声をかけてくれたのがその人だった。友だちが組んだダブルスに対抗しに行こうとダブルスを組んでくれて、それがあの人と話すようになったきっかけだった。
――と、いうところまでは彼に話す必要はないと思うので、詳細な経緯は話さない。久遠が隠したいというわけではなく、話すことが、目の前の彼を必要以上に傷つけるような気がするのだ。……ほら、今も項垂れたまま。
「でも、3回も言ってくれたから……私も、付き合ったら好きになれるかもって思い始めて、『お試しでいい』って言ってくれた相手に甘えて、付き合ってみた、という感じで……」
ちらりと彼の反応を見るが、彼はまだ顔を隠している体勢だった。
「……じゃあ、久遠から好きになったわけじゃないんだ。……好きになれた?」
「……それがまさしく、お別れになった原因というか。優しかったし、尊敬はしてたけど、恋愛感情ではないのかなっていう……違和感みたいなものが、どうしても続いてしまって」
あの人は、『それでもいい』とデートを重ねてくれたけれど、数ヶ月もすればやっぱり表情は暗くなって、どちらのためにもならないような、良くない時間が流れていた。
久遠はずっと、ふとした時に高校時代までの恋愛感情と比べてしまっている自分がいることに気づいて、後ろめたい気持ちがあった。
「だからほんと、1年もしないうちに別れたんだ。……だからそういうことも、2,3回しかしてないし」
「あ、思い出さないで」
「む、無茶な……」
黙って聞いていたかと思えば急に鋭い声が飛んできたので、間の抜けた声が出てしまった。
しばらく気まずい沈黙が続く。久遠は、一織がどう出てくるのかと、布団を掴んで待っていた。
やがて彼は、「あぁ……」とため息に近いような声を漏らす。
「悔しい。俺はずっと大切にしてたのに……」
力なくぼやいた、『俺は』の『は』の部分に、含みを感じた。
「ああなんであの時……あーー。いや……新しい恋人がいるって勘違いしてたって、奪いにいけばよかったんだよね。あぁー……あの時の自分のメンタルが恥ずかしい。てか悔しい。俺はずっと我慢してたのに……」
顔を覆ったまま完全に独り言として話し続ける彼は、普段の彼とは少し別人みたいだ。
久遠が彼のぐるぐるしてしまっていそうな思考を止めるために「え?」と口を挟む。
すると、一織は手をそっと外し、その隙間から覗くように久遠を睨んだ。
「……高校ん時、ずっと本当は手出したかったからね?久遠、なんも知らない顔で俺の部屋とか来るじゃん。俺がどれだけきつかったか分かる?」
「そ、そうだったの?なんか、一織くんからそういうこと感じたことなくって……」
「隠してたんだよ。思春期だよ?けど久遠、俺のこと信頼してくれてたし……この人といれば安全、みたいな顔されるんだもん」
一織は、ため息のような深呼吸のような息を一つ吐き、顔から手を下ろすと久遠の手を繋いだ。いや、正確には手ではなく、手首を掴んだ。
「そうかな?」
シーツの上で握られた手――手首に視線を落としながら久遠が聞く。
「そうだよ。そんな信頼、俺から壊しにいけないでしょ?しかも、高校生だし、あの久遠のお父さんとお母さんに育てられた久遠だし……性欲なんかに触れたらショック受けちゃうんじゃないかと思って」
高校生の時、久遠の自宅に来て挨拶を済ませている彼は、既に久遠の両親の過保護さに触れている。
「ふふ、一織くんは一織くんで、私のこと、理想化してますね。少し」
「そうだよ。あん時の久遠は、純粋で可愛くて、大事にしたくて仕方なかったんだから」
一織が、少し遠くを見て、まるで昔の久遠を恋しがるように言う。
「……今は?」
比較するような物言いがひっかかり、久遠が一織の顔を覗き込む。
彼も久遠に視線を移してくれたかと思うと、ゆっくりと顔が近づいてきて、触れるだけのキスを落とされた。
「今は……大事にしたいし――」
彼の瞳は、こうして近くで見ると銀灰色に透き通って見える。久遠が吸い込まれるように見ていると、彼も久遠を見つめたまま、言葉の続きを零した。
「……めっちゃくちゃにしたい」
「ふふふ、いけないんだ」
久遠が、明透に欲を呈示してくる彼が面白くて笑うと、彼もやっと、呆れ笑いで表情を崩してくれる。
「いけないんだよ。でもほんとは、昔からそうしたい時あった」
一織はそう言うと、腕を伸ばしてきて久遠を抱きしめた。素肌と素肌が触れ合う感覚にはまだ慣れない。彼の匂いがぶわりと久遠を包むので、一織のトクトクと規則的な鼓動と違って、久遠の脈は平静を保てなくなった。
「一織くん……」
「あ。こんなこと言ってるけど、久遠のこと責めてるわけじゃないからね」
一織は久遠の首筋に頭を預けて、そう呟く。
「……嫉妬して、俺が勝手に後悔してるだけで……俺のために純潔守ってろよ、みたいなことを言ってるわけじゃないから」
久遠はまた笑みが零れる。
「わかってるよ。……今日の一織くん、たくさん喋って可愛い」
調子に乗った久遠がついそう言うと、一織は少し体を離して久遠をまた睨んだ。
一織の作り込まれたCGのような美貌が険しさを帯びると、圧がある。彼のこんな顔、チーム長と部下でしかなかった少し前の関係性で向けられていたら震えが止まらなかったに違いない。――けれど、今は違う。
ただただ可愛いくて、愛おしいと思う。さっきまで汗をかいていたのに、今は陶器のように艶めいている彼の頬に手を伸ばして撫でてしまうことができるくらいには、2人の関係は大きく変化していた。
そんな久遠の手に頬を少し擦り付けるようにして、一織は目線を落とした。
「なんだよ1年弱くらいで……もっと我慢しろよそいつ……」
不貞腐れたように呟くので、久遠はまた面白くなってしまう。
「話し合いもしないまま、一晩で私のこと襲った人のセリフとは思えないね」
久遠が会社を去ろうとしたあの日、積もる話をするためにこの家に来たのに、一言も交わさぬままキスされ、寝室に連れ込まれた。
「……カウンター強いね」
「降参?」
「降参」
少し間があって、何も言わないまま視線だけが絡む。
その沈黙を破るように、彼が先に口を開いた。
「……今日の久遠、なんかいじわる」
「ごめんなさい。一織くんが可愛くて」
久遠はそう言ってから、あの夜のことを思い出した。あの時の、一瞬の強い不安のこと。
「でもあの時……あんなこと口走っちゃって、私もその場でどうしようって思いました。だって、あんなこと言って、一織くんの興が冷めちゃったらどうしようと思って……。けど、そんなことにはならなくてよかった」
あの時、快楽と熱でふわふわ浮いていた脳が、痛みの恐怖に盾を出すように出した言葉が、あれだった。自分の粘膜を守ろうとするよりも、8年越しに取り返しかけている彼の想いの方を大事にすべきだった、と、冷静な脳では考えられる。
一織は久遠の言葉を聞いてから、つまらなそうに言った。
「ならないよ。そいつが久遠のこと抱けて、俺が抱けないの意味分かんないし。それに、過去のことは変えられなくても、これからの久遠は俺が埋め尽くすから、いいの」
独占欲を隠そうともしない言葉だけれど、怖くない。むしろ、久遠の心の中に、ゆっくりと落ち着く場所を作ってくれる。
「うん。じゃあ切り替える?」
久遠が半分冗談めかして言うと、一織は目線を上に上げて少し考えた。
「切り替え……ない。もう一回しよう」
「ふふ、仕方ないな」
「あ。そんな調子乗ってたら、やめてって泣いてもやめてあげないからね」
既に久遠に触れている一織が、頬にかかった髪を耳にかけてくれながら、怖いことを言った。
「それはいつもだと思うんですけど……んむっ」
言い終わる前に唇を塞がれて、久遠は小さく息を漏らした。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
2人が交わった熱と吐息の余韻が、部屋に溜まったまま。
その中で、久遠が一織の胸に顔を埋めている。一織の呼吸はまだ整いきらず、大きく上下していた。
彼の腕が、ぎゅっと背中に回った。汗ばむ体で密着していると、あの神永一織が本当に自分のもとへ帰ってきたのだという実感が、ふつふつと胸を温めてくれる。
私だけの、一織くん。みんなが憧れる彼だけれど、今はこうして、私だけを囲んでくれている。
「私の前だと少し子どもっぽくなるの、大好き」
胸板越しにこもった声で囁くと、一織から観念したような吐息が漏れた。
「おお……。そうやって、久遠が素直に言ってくれるの珍しいから嬉しいけど……子どもっぽいは複雑……」
「ふふっ。でも可愛くて大好きですよ?」
顔を上げて、近すぎる顔を覗き込むと、彼は困ったように眉を下げた。けれど、やごて意地悪そうに目を細める。
「敬語だからチューね」
「あっ、はい。じゃなくて、うん」
慌てて言い直したけれど、もう遅い。久遠がキスすると、離れ際に彼も唇を追ってきて、ちゅ、と小さく甘い音が鳴った。
久遠の顔が熱くなったことに、一織は満足げに鼻先を寄せてくると、久遠を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
「……久遠の前でこそ一番かっこよくいたいのに」
独り言のように、悔しげに彼は呟く。
「久遠のこと好きすぎて保てない」
そう言って、彼は再び私の首筋に顔を埋めてきた。
独占欲を隠さないその姿も、嫉妬して拗ねる姿も、すべてが私だけに向けられている。 8年という長い月日を経て、なぜだか手に入れることのできた、彼の本当の温度。
久遠は、もう一度だけ、一織に口付けを落とすと、この上ない幸福感の中で静かに目を閉じた。
私の恋人は、私の前だと少し子どもっぽくなる。
「久遠、これね、話すかどうかずっと迷ってたんだけど」
彼が言いづらそうに、しかし少し不貞腐れたような顔で話しかけてきたのは、体を重ねた回数がまだ片手で数えられるほどだった時期のある夜のこと。
身体の奥にまだ彼を感じているような、甘い疼きに意識を奪われていた時、隣に横たわった一織がぽつりと呟いた。
まだ息が乱れている久遠とは違って、彼は、汗こそ浮かべているものの、既に意識がしっかりしているみたいだ。
「ん……なに?」
「こんなこと言うのね、ほんっとに女々しいなって……思うんだけど」
彼にしては珍しい、歯切れの悪い物言い。言い訳じみた前置きをわざわざ置いて何を言い出すのかと身構え、久遠の意識の混濁も少しずつ晴れてくる。
「うん。どうしたの?」
「久遠のはじめてって……どんな奴?」
急にそんなことを聞くものだから、久遠は一瞬目が点になったけれど、次第におかしくなってきて、つい笑みがこぼれた。
すると、すかさず彼の右手が伸びてきて、頬を挟まれる。
「んむっ」
ぶにっと頬を潰され、久遠はにやけを止めようとするけれど、なかなか難しい。そんな久遠の様子に、さっきまで遠慮がちだったはずの彼の顔はどんどん険しくなっていき、久遠を睨んでいる。
「笑わないで。面白い話じゃない」
普段の彼らしくない子どもみたいな棘が面白くて、ますます愛おしい。
「一織くん、ずっと気になってたの?」
潰された窮屈な頬の中で発される声は、もごもごとくぐもっている。
「当たり前でしょ?最初に聞いた時、頭真っ白……っていうか、真っ黒になっちゃって……。あのままシてたら、久遠のこと壊しちゃってたかもしれない」
そう言われて、久遠も2人の初めての夜のことを思い出す。彼が入ってくることに少し恐怖を覚えて、ゆっくりして、とお願いする時、『久しぶり』だからと久遠から言ったのだった。
「……怖いこと言うね」
「笑い事じゃないんですよ久遠さん」
頬を掴む力は優しい。けれど、彼の眼差しは本当に冗談じゃないのだと訴えかけてきている。
久遠もなんとか笑みを抑えて、布団を引き上げた。彼の手から顔を解放されて、布団を纏ったまま枕の上に腰掛けると、彼も起き上がって隣に腰掛けた。
「……本当に聞きたいの?」
一応彼に再確認すると、彼は何か言いかけては視線を逸らすということを何度か繰り返したが、最終的に頷いた。
「大学生の時に付き合ってた人。サークルの先輩で」
「サークルの……先輩……」
一織は、そのワードがまるで鉛のような重さを持っているもののように受け止めて、がっくりと項垂れた。
「なんのサークル入ってたの……?」
彼は両手を顔で覆ってしまっていて、表情は見えない。けれど、その絞り出すような声だけで十分に感情は伝わってきた。
「や、やっぱりやめない?一織くんがつらそうだよ」
「……いや、知りたい。どっちから告白したの?久遠から……?」
なんのサークルに入っていたかはもうどうでもいいのか、質問がすり変わった。
「ううん。私はもともと、先輩だな、としか思っていなくて。向こうが好きだと思ってくれてたことにも全然気づかなくて……。だから初めて告白してくれた時、断ったの」
大学1年の時に付き合ったあの人は、久遠が友だちに誘われて入サーしたバトミントンサークルにいた3年生の先輩だった。体験の日、一緒に行った久遠の友だちは久遠を置いてある男性の先輩とダブルスを組んでしまい、所在なかった久遠に声をかけてくれたのがその人だった。友だちが組んだダブルスに対抗しに行こうとダブルスを組んでくれて、それがあの人と話すようになったきっかけだった。
――と、いうところまでは彼に話す必要はないと思うので、詳細な経緯は話さない。久遠が隠したいというわけではなく、話すことが、目の前の彼を必要以上に傷つけるような気がするのだ。……ほら、今も項垂れたまま。
「でも、3回も言ってくれたから……私も、付き合ったら好きになれるかもって思い始めて、『お試しでいい』って言ってくれた相手に甘えて、付き合ってみた、という感じで……」
ちらりと彼の反応を見るが、彼はまだ顔を隠している体勢だった。
「……じゃあ、久遠から好きになったわけじゃないんだ。……好きになれた?」
「……それがまさしく、お別れになった原因というか。優しかったし、尊敬はしてたけど、恋愛感情ではないのかなっていう……違和感みたいなものが、どうしても続いてしまって」
あの人は、『それでもいい』とデートを重ねてくれたけれど、数ヶ月もすればやっぱり表情は暗くなって、どちらのためにもならないような、良くない時間が流れていた。
久遠はずっと、ふとした時に高校時代までの恋愛感情と比べてしまっている自分がいることに気づいて、後ろめたい気持ちがあった。
「だからほんと、1年もしないうちに別れたんだ。……だからそういうことも、2,3回しかしてないし」
「あ、思い出さないで」
「む、無茶な……」
黙って聞いていたかと思えば急に鋭い声が飛んできたので、間の抜けた声が出てしまった。
しばらく気まずい沈黙が続く。久遠は、一織がどう出てくるのかと、布団を掴んで待っていた。
やがて彼は、「あぁ……」とため息に近いような声を漏らす。
「悔しい。俺はずっと大切にしてたのに……」
力なくぼやいた、『俺は』の『は』の部分に、含みを感じた。
「ああなんであの時……あーー。いや……新しい恋人がいるって勘違いしてたって、奪いにいけばよかったんだよね。あぁー……あの時の自分のメンタルが恥ずかしい。てか悔しい。俺はずっと我慢してたのに……」
顔を覆ったまま完全に独り言として話し続ける彼は、普段の彼とは少し別人みたいだ。
久遠が彼のぐるぐるしてしまっていそうな思考を止めるために「え?」と口を挟む。
すると、一織は手をそっと外し、その隙間から覗くように久遠を睨んだ。
「……高校ん時、ずっと本当は手出したかったからね?久遠、なんも知らない顔で俺の部屋とか来るじゃん。俺がどれだけきつかったか分かる?」
「そ、そうだったの?なんか、一織くんからそういうこと感じたことなくって……」
「隠してたんだよ。思春期だよ?けど久遠、俺のこと信頼してくれてたし……この人といれば安全、みたいな顔されるんだもん」
一織は、ため息のような深呼吸のような息を一つ吐き、顔から手を下ろすと久遠の手を繋いだ。いや、正確には手ではなく、手首を掴んだ。
「そうかな?」
シーツの上で握られた手――手首に視線を落としながら久遠が聞く。
「そうだよ。そんな信頼、俺から壊しにいけないでしょ?しかも、高校生だし、あの久遠のお父さんとお母さんに育てられた久遠だし……性欲なんかに触れたらショック受けちゃうんじゃないかと思って」
高校生の時、久遠の自宅に来て挨拶を済ませている彼は、既に久遠の両親の過保護さに触れている。
「ふふ、一織くんは一織くんで、私のこと、理想化してますね。少し」
「そうだよ。あん時の久遠は、純粋で可愛くて、大事にしたくて仕方なかったんだから」
一織が、少し遠くを見て、まるで昔の久遠を恋しがるように言う。
「……今は?」
比較するような物言いがひっかかり、久遠が一織の顔を覗き込む。
彼も久遠に視線を移してくれたかと思うと、ゆっくりと顔が近づいてきて、触れるだけのキスを落とされた。
「今は……大事にしたいし――」
彼の瞳は、こうして近くで見ると銀灰色に透き通って見える。久遠が吸い込まれるように見ていると、彼も久遠を見つめたまま、言葉の続きを零した。
「……めっちゃくちゃにしたい」
「ふふふ、いけないんだ」
久遠が、明透に欲を呈示してくる彼が面白くて笑うと、彼もやっと、呆れ笑いで表情を崩してくれる。
「いけないんだよ。でもほんとは、昔からそうしたい時あった」
一織はそう言うと、腕を伸ばしてきて久遠を抱きしめた。素肌と素肌が触れ合う感覚にはまだ慣れない。彼の匂いがぶわりと久遠を包むので、一織のトクトクと規則的な鼓動と違って、久遠の脈は平静を保てなくなった。
「一織くん……」
「あ。こんなこと言ってるけど、久遠のこと責めてるわけじゃないからね」
一織は久遠の首筋に頭を預けて、そう呟く。
「……嫉妬して、俺が勝手に後悔してるだけで……俺のために純潔守ってろよ、みたいなことを言ってるわけじゃないから」
久遠はまた笑みが零れる。
「わかってるよ。……今日の一織くん、たくさん喋って可愛い」
調子に乗った久遠がついそう言うと、一織は少し体を離して久遠をまた睨んだ。
一織の作り込まれたCGのような美貌が険しさを帯びると、圧がある。彼のこんな顔、チーム長と部下でしかなかった少し前の関係性で向けられていたら震えが止まらなかったに違いない。――けれど、今は違う。
ただただ可愛いくて、愛おしいと思う。さっきまで汗をかいていたのに、今は陶器のように艶めいている彼の頬に手を伸ばして撫でてしまうことができるくらいには、2人の関係は大きく変化していた。
そんな久遠の手に頬を少し擦り付けるようにして、一織は目線を落とした。
「なんだよ1年弱くらいで……もっと我慢しろよそいつ……」
不貞腐れたように呟くので、久遠はまた面白くなってしまう。
「話し合いもしないまま、一晩で私のこと襲った人のセリフとは思えないね」
久遠が会社を去ろうとしたあの日、積もる話をするためにこの家に来たのに、一言も交わさぬままキスされ、寝室に連れ込まれた。
「……カウンター強いね」
「降参?」
「降参」
少し間があって、何も言わないまま視線だけが絡む。
その沈黙を破るように、彼が先に口を開いた。
「……今日の久遠、なんかいじわる」
「ごめんなさい。一織くんが可愛くて」
久遠はそう言ってから、あの夜のことを思い出した。あの時の、一瞬の強い不安のこと。
「でもあの時……あんなこと口走っちゃって、私もその場でどうしようって思いました。だって、あんなこと言って、一織くんの興が冷めちゃったらどうしようと思って……。けど、そんなことにはならなくてよかった」
あの時、快楽と熱でふわふわ浮いていた脳が、痛みの恐怖に盾を出すように出した言葉が、あれだった。自分の粘膜を守ろうとするよりも、8年越しに取り返しかけている彼の想いの方を大事にすべきだった、と、冷静な脳では考えられる。
一織は久遠の言葉を聞いてから、つまらなそうに言った。
「ならないよ。そいつが久遠のこと抱けて、俺が抱けないの意味分かんないし。それに、過去のことは変えられなくても、これからの久遠は俺が埋め尽くすから、いいの」
独占欲を隠そうともしない言葉だけれど、怖くない。むしろ、久遠の心の中に、ゆっくりと落ち着く場所を作ってくれる。
「うん。じゃあ切り替える?」
久遠が半分冗談めかして言うと、一織は目線を上に上げて少し考えた。
「切り替え……ない。もう一回しよう」
「ふふ、仕方ないな」
「あ。そんな調子乗ってたら、やめてって泣いてもやめてあげないからね」
既に久遠に触れている一織が、頬にかかった髪を耳にかけてくれながら、怖いことを言った。
「それはいつもだと思うんですけど……んむっ」
言い終わる前に唇を塞がれて、久遠は小さく息を漏らした。
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2人が交わった熱と吐息の余韻が、部屋に溜まったまま。
その中で、久遠が一織の胸に顔を埋めている。一織の呼吸はまだ整いきらず、大きく上下していた。
彼の腕が、ぎゅっと背中に回った。汗ばむ体で密着していると、あの神永一織が本当に自分のもとへ帰ってきたのだという実感が、ふつふつと胸を温めてくれる。
私だけの、一織くん。みんなが憧れる彼だけれど、今はこうして、私だけを囲んでくれている。
「私の前だと少し子どもっぽくなるの、大好き」
胸板越しにこもった声で囁くと、一織から観念したような吐息が漏れた。
「おお……。そうやって、久遠が素直に言ってくれるの珍しいから嬉しいけど……子どもっぽいは複雑……」
「ふふっ。でも可愛くて大好きですよ?」
顔を上げて、近すぎる顔を覗き込むと、彼は困ったように眉を下げた。けれど、やごて意地悪そうに目を細める。
「敬語だからチューね」
「あっ、はい。じゃなくて、うん」
慌てて言い直したけれど、もう遅い。久遠がキスすると、離れ際に彼も唇を追ってきて、ちゅ、と小さく甘い音が鳴った。
久遠の顔が熱くなったことに、一織は満足げに鼻先を寄せてくると、久遠を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
「……久遠の前でこそ一番かっこよくいたいのに」
独り言のように、悔しげに彼は呟く。
「久遠のこと好きすぎて保てない」
そう言って、彼は再び私の首筋に顔を埋めてきた。
独占欲を隠さないその姿も、嫉妬して拗ねる姿も、すべてが私だけに向けられている。 8年という長い月日を経て、なぜだか手に入れることのできた、彼の本当の温度。
久遠は、もう一度だけ、一織に口付けを落とすと、この上ない幸福感の中で静かに目を閉じた。
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