魔の山300景綺譚

十二滝わたる

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千曲川のローレライ

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 その流れはいつもせせらぎを響かせ穏やかに蛇行しながら流れている。そんな印象的だけが記憶に残る。
 この川の行き先が、日本海であり、遠く新潟まで様々な生活の匂いを集めながら大河となっていく姿を想像することもなかった。

 千曲川のほとりにある比較的田舎にしては大きめの病院に赴任して3年ほど経過していた。

 病院は時代の流れに乗って、電子カルテシステムの導入をしていた。
 難しい医学の知識を易々と覚えてきた秀才の集まりであろう医師や看護士達にも、時代の波は押し寄せ、不思議に得手不得手があることを知った。

 パソコンにむかっての操作など、パソコン技術を知らない僕だって、必要な操作方法の手順など簡単に覚えてられたものだが、さほど高齢でない医師であっても、その扱いについていけず、患者から怒鳴られる者、長期休養となる者、辞める者が結構な割合で続出しだしていた。

 かの女史もパソコン操作についていけずに休みかちになり、ついには臨床勤務からも外れ、表向きは若い後継医師の指導としての勤務を与えられた。

 パソコンにも対応できない定年まで片手の女医の指導などたかが知れている。忙しい中で、仕事もしないでただ口うるさいだけの彼女は、研修医はじめ、看護士からまでも、次第に疎んじるような存在になっていった。

 定年前に退職するだろうと誰もが思った。

 彼女はかつては同じ診療科の口先だけのような医師と結婚し、二人の子どもをもうけていたが、夫の浮気からの本気により離婚していた。離婚された側が妾となっているような不可解な関係であることは誰もが知っていた。

 一人でマンションに暮らし、優雅な老後を過ごすことが想像された。ただ、夫も子どももいない、医師という職業柄、職権により命令はするが頼る頼られる関係を築いてきた訳ではない彼女の一人暮らしは、寂しいものになるであろう。

 それまでの関係が、借りに見せかけだけの関係であろうと、側に話しを聞いてくれる相手がいるかいないかの価値など考える暇などないままに、医療の世界を歩いて来ることだけで、夫を奪われた自分の心を埋めてきたようなものだから、結果、仕方がないことかも知れない。

 病院で孤立した彼女が頼ったのは、彼女を捨てて子ども達を連れて別の女医と一緒になった前の夫だった。
 若い頃に別れてからも妾のように関係を持っていた、こんな腐れ縁しか彼女に頼るものは残っていなかった。

 心の病として長期病気休暇中の彼女の代理人として、依願退職の手続きにきたのは、彼女が頼った夫から指示を受けた別に暮らしている実の息子だった。息子は歯科医師として独立しようとしているらしく、資金繰りに奔走していると聞こえている。

 長期休暇の申請も実の息子から出されていた。
 第三者の医師の診断書もきっちりと添付されていたが、年のために彼女本人に確認の電話をすると、彼女はすべてを前の夫と自分の息子に任せてます言っていた。

 退職願の署名も本人のものではないようであったが、印鑑は何でも押してあればいいようなものであるため、再度、彼女に電話で確認することにした。

 「今、息子さんが退職願を持って来ましたが、間違いないのですね」と尋ねると彼女は小さく「えっ」と驚きの声を上げたように聞こえた。
 そのあと、長い沈黙があり、やっと
 「そうですか、任せてありますので、そうであれば、退職でお願いします。2月29日付けですね、分かりました」と答えた。

 彼女は退職の辞令も受け取りには来なかった。退職金の振り込みは3月になるはずだ。

 それから、数ヶ月たった。
 山奥の里にも春が訪れたと思ったら、一気に5月の蒸し暑い初夏となる。

 千曲川の下流が信濃川と名を変える辺りは、剥き出しの岩山が迫り、川幅が狭くなる。
 川幅も大きくなりながらも狭く蛇行した千曲川の一角に変わり果てた遺体が見つかったのはこの頃だ。遺体の損傷は激しく、身元の特定は難航したが、千曲川上流で、2月末の季節外れの大雨の時に大騒ぎをした隣県に住む医師の事件を思い出した警察は、やっとあの時の騒動の結末であることを知った。
 
 2月末の事件とは、ある大雨の日、女が千曲川に架かる橋から飛び降りるのを車で通りかかった者が見たという通報であった。
 詳しく言えば飛び降りるのを見た訳ではなかった、振りかえって見ると人女はいなかったというものだ。

 大雨の増水し濁流となった川は、そんなあやふやな情報を根拠にして捜索することができないほどな、荒々しいものだったかは、警察も動かなかった。巡査が数人、目撃者を申しわけ程度に聞きに回ったくらいだ。

 事件当日、女医の元夫はどこでこの事を聞いたのか知らないが、元妻が飛び込んだと大騒ぎしていた。
 警察もなぜその女が女医と分かるのか、大いに不審であるはずであるが、詰め寄ることもなく、どうしようもないと説得するのが精一杯だった。
 こんな真夜中に、増水した川に飛び込んだのかどうかも分からない事実を取り上げるほど、忙しい訳ではないが、事件のない田舎では動くことなどしない。

 元夫は、その後は、行方不明の届け出も依頼もなく、ただの不可解な出来事として扱われた。

 遺体はあの女医だった。
 元夫は疑われることもなく、遺体の早めの引き取りの事務的な連絡を貰うと、何故か地元の市役所への手続きではなく、隣町に届け出し、火葬場も隣町で早々に済ませていた。

 地元の新聞には身元の不明の遺体の記事が数行載っただけだった。誰も気にかける者などいなかった。

 僕があの女医が2月末のあの大雨の日付でなくなっていることに気が付いたのは偶然だった。

 「ということは、退職辞令の日には彼女はいなかったってことか」と僕は言った。

 「退職金の銀行口座の振り込み日にも生きてはいなかったったことになる。‥‥‥、警察は面倒な遺体の引き取りの依頼にはやたらと気を使うが、自ら仕事を増やすことなどしないからな、ただの好奇心からだけど、田舎での探偵ごっこになるが、面白くないか、探るか」と友は言う。

 退屈な僕らは休日を使ってあるこれと調べることにした。

 調べると色々と面白いことが簡単にわかってきた。そして次々とおかしなことも。

 素人の僕らでもこんなことができるのかと思った。田舎の警察ってのは取り締まりだけなんだと思った。

 大雨の日に女が飛び込んだと通報したのは隣町の歯科技工士で、女医の実の息子のいる病院一緒に働いている者だった。

 仕組んだな、と僕らは感じた。証拠など何一つなかった。ただの好奇心のパズルの組み合わせを勝手にやっているようなものだった。

 さらに、新たな事実も分かった。あの千曲川に架かる橋の向こうの村は、亡くなった女医の故郷だった。

 そして、あの大雨の当日、彼女は幼なじみの家を真夜中に訪ねていた。
 ずぶ濡れになった彼女は、どんどんと玄関をたたき、幼なじみの名前を必死で呼んでいたのだ。
 真夜中の出来事に驚いた幼なじみは、息吹かしながら玄関を開けてさらに驚いたという。
 ずぶ濡れの服は一部ズタズタで、
 「助けて」と彼女は言ったという。

 真夜中の訪問に驚き、玄関に立たせたままに、家の中で、家の者どうしが騒いでいる最中に、いつの間にかいなくなっていたのだという。

 彼女は亡くなったことを告げると幼なじみは青ざめていた。ただ、何から助けてほしいのかは分からなかったらしい。僕らも触れないままに訪問を終えた。

 女医の退職金も生命保険も元夫が受け取っていた。元夫は金策に尽きていたことも分かった。

 息子は独立して歯科医院を開設した。事件を通報した歯科技工士も一緒だった。

 警察に知らせても、恐らく「それで、証拠は」と言うだろ。そう、証拠など何もない。

 推理小説のような物語、それでしかない。
 しかし、どこでも起きていて、どこにでも起こりうることなのだ。
 

 
 

 

 
 

 
 

 



 

 
 

 

 

 

  
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