魔の山300景綺譚

地の果てホタル川

　自分の子供は他の子供よりもかわいいに違いない。それが、甥っ子や姪っ子であれ、小さい頃から知っている隣の子供であれ、どんな子供よりも自分の子供はかわいい。

　しかし、どんな経緯であろうが、よその子供を扱うことになれば、よその子供には反って気を使って接する、少なくとも、自分の子供ばかりをひいきにして預かった子供をないがしろする、そんなことはしないものだ。普通は。

　しかし、何が普通なのかは分からない。

　火垂の墓の親戚のおばさんも、薄情な描かれ方をしているが、あの映画も兄弟からの視線でなければ、もしかしたら、普通の考えと普通の態度で接していて、兄弟が反って世間知らずで、わがままで、扱いに困ったという物語に構成することも可能なのだろう。

　客観的な視点ほど難しいものはない。

　複雑な人間関係とその背景や関係、一族の生活史、生きている時代の歴史観、価値観に加えて、人それぞれの生の感情や繊細な感受性、知性、道徳観が違うのだから、無数の世界の中心が生まれ無数の視点が存在するのだ。

　純は親戚の家に預けられていた。父親は交通事故で病院に搬送され、生死の境をさ迷っていた。母親は付きっきりの看病で病院に行ったままだ。
　当然、純はそんなことは知らない。一人っ子の純はまだ五歳だ。
　親戚の一つ年上のやはり一人っ子の凛と一緒のいれるのが楽しかった。

　その期間は一週間もなかったのかも知れない。ただ、父親や母親と離れて暮らす初めての時間は、気の遠くなるほどに長く感じた。

　親戚の家に数日居るだけで、五歳の純にも自分の存在がどんな位置付けにあるのか、敏感に感じることができた。
　本来は、そんな感じ方をさせる周りの大人が悪いに決まっている。
　優しいおじさん、おばさん、結婚せずに同居している伯母さん、祖父母、みんな優しく接してくれていたはずだ。

　些細なことから、純と喧嘩になった。普段は居ないはずの子供が突然居始める不自然さだけで不況和音の元となる。

　凛は突然に、純の大事にし、片時も放さず首から下げて身に付けている父から貰った木のお守りを、外して見せてくれと言った。
　断っていたが、渋々に手渡すと、なかなか返してくれない。返してと言っても、
　「この彫られた姿がカッコ悪い」とか、
　「この字読めない。」とかと言い出した。
　「いい加減返してよ。」と強く言うと、
　「ケチ」と言い放ち、凛は地面に力強く大事なお守りを叩きつけた。
　「何をするんだよ。」「謝れよ」と迫ると、凛は「きゃあ」と言いながら台所に居る伯母ところまで泣きながら逃げていった。

　純は追いかけて、さらに「謝れよ。」と言うが、事情も聞かずに伯母はいきなり
　「お前が悪い」といい放った。
　「人の家に来て、おとなしくしてないといけないのに、なんて乱暴なの。」
　「俺は何もしてない。凛が‥‥‥‥」
　「そんなこと、どうでもいいの、よその家にきたならおとなしくしてなさい。今、あなたのお父さんは大変なんだから。」
　「俺は悪くない、俺は家に帰る。」
　「お前が、お前の家に帰ったって誰も居ないんだからな、真っ暗なんだからな。」　

　伯母はそう言った。
　母親と血を分けた伯母が甥っ子に対して、そう言った。

　「そんな、可哀想なこと言わないで。」とその家のおばさんは助けに入った。慰めたつもりでいたのだろう。まったく、慰さめになんかなっていない。お前の娘のしたことを不問にして、問いたたすこともなく、何が可哀想だ、ふざけんじゃない、そう純は思ったが、そんなことを言ったら益々歩が悪くなると思って口をつぐんだ。

　祖父母も喧嘩するな程度のことで関心もない。喧嘩じゃない、侮辱だ。しかも、お守りというものに対する圧倒的な。しかし、誰も味方など居ない、この家には。純はこの家の正体を一瞬にして悟った。

　父は死に、寂しさを紛らわしために母はこの実家に純を連れて毎週末のように訪ねて来ては祖母ととりとめもない話を半日しては帰るのだった。

　純は凛がピアノの稽古の間は部屋に入ることも許されず、一人で待った。　

　部屋でテレビを見ていると、見ているとテレビをおばさんは、見ていないテレビの電気はもったいないと消して、部屋の電気も昼間だから明るいと言っては消した。純は暗い部屋で一人で待つしかなかった。

　結婚せずに看護婦をしている伯母は裕福であるが、この家からは出ていかなかった。機嫌をとるために、休みの日は気前よく寿司の出前などを頼んだ。凛には「凛は海老が透きだから。」と凛一人にまげ一つの海老を与えた。ある時は蟹を買ってきては皆で食べた。凛だけが蟹味噌を食べることができた。

　おじさんが釣り堀に純と凛とを連れて行ってくれた。純は一番大きな虹鱒を釣り上げて得意になって持ち帰った。純の釣った虹鱒は純にではなく、おさに出された。おじさんも何も言わずに当然のように食べ、
　「大きいのは美味しくないな。」と言っては残した。残ったのを、
　「純。食べるか。」と聞く。純は、
　「いらない。」と部屋を出ようとした。
　「あら、釣り堀楽しくなかったの。楽しくなかったなら、今度からは連れて行けないはね。」とおばさんは言った。

　伯母さんが病気で寝込み、余命幾ばくもない時、おばさんは、
　「今まで、家に居候してて、お金はいくら残してるんだか。」と根性を露にした。

　純の母親とが病院で看病が必要な時も、おばさんは、
　「私は、大変で付き添いできない。」と言って、一晩も付き添わずに帰って言った。
　挙げ句の果てに、純に向かって、
　「お母さんは、驚かされたの遺産があるから裕福だものね。お金だして頼んでも困らないんだから頼んだら。」と言った。

　おばさんは、施設に預けたままのおじさんの死に際にも、まだ、大丈夫だと思ったと言って立ち会うこともなかった。

　凛は、結婚して一人になったおばさんの住む実家には寄り付かず、旦那とアパートで暮らしている。
　母親とは一緒に30分と一緒に居られないと語った。台所には10分もたないとも。小言が絶えないのだ。

　祖母は痴呆症による施設に無理やり入れられ、帰るために施設の施錠をかきむしるために施設を追われることを繰り返し、一人で施設で亡くなった。やはり、おばさんは介護を拒んだ。

　「凛は私が早く死ねばいいと思っているんだ、私の財産を狙って。」と近所中に話しだす。

　幼い頃の楽しかった偽りの思いでの数々は、当然の結末として、無惨な阿鼻叫喚の血の池絵巻になった。

　血の繋がりのない、事情を知らないおばさんの姉やその娘はおばさんの話を鵜呑みにする。

　娘の凛に対しては、薄情者だ、後で後悔すると説教し、純には小さい頃に世話になったのに、もっと恩を返さないと、としたり顔で繰り返す。

　どちらの視点もそれなりに正しいに違いない。
　人間の中心は人間の数だけ存在する。

　おばさんだって優しいところはたくさんあった。優しさがたくさんあったのに、普段に差別と区別がおばさんの常識として普段にあった。それがおばさんの感覚だ。
　しかし、娘の凛もそんな生き苦しさから逃げ出した。おばさん自身の抑制すべき何かを娘にすら許せず、普通のことだとして押し付ける。

　そんなおばさんを許すような寛容を持たなくてはと純も凛も考えるが、そんな寛容すらも破壊し押し入ってくるおばさんを、純も凛も受け入れられない日々が不幸を増幅させる。