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序章
ニコラ・ロウは唐突に思い出した
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奇妙な魔力が鼻先を掠める。
俺がその気配に気づいたのは、〈王立バルバディア魔法学院〉の入学式へ向かう駕篭が飛び立ち、幾分も経っていない頃のことだった。
駕篭には振動を抑制するための魔法が幾重にも展開されているが、曳航する翼竜の羽搏きに合わせて多少は揺れる。
だから、隣に座っていた婚約者の顔色がよくないのは、乗り物酔いのせいだと思っていた。
出発時に酔い止めの薬は飲んでいたが、翼竜の駕篭など滅多に乗れない代物だ。慣れない浮遊感に体がついてこないのだろう、と。
──だが違う。
ぐったりとしている彼女の頭を引き寄せた。
俺の肩に凭れかかり柳眉を顰めた婚約者の様子を見て、逆隣りに座っていた少女も「体調が悪いの?」と心配そうな表情になる。
「そうみたいだ。酔ったのかと思ったんだが……」
「吐き気止めなら持ってるよ。魔法薬の先生が調合した薬だからよく効くと思う」
「ありがとう。……エウフェーミア、平気か」
薄く開いた婚約者の菫色の双眸が、俺たちと乗り合わせた新入生たちを見渡した。
こちらを見ている少女もいるし、気づかず窓の外の景色に見惚れている少年もいる。やがてぱちりと瞬いた先にいたのは、ごそごそとカバンの中から薬を取り出したところの親切な少女だった。
よくよく集中してみると、先程ふと感じた奇妙な魔力は、少女の右手から滲み出ている。
エウフェーミアの髪を撫でていた手が柄にもなく強張った。
こっちの世界に生まれ落ちて早十五年。
様々な魔法をこの目にし、多様な魔物に出会ってきたが、彼女の右手中指にはまっている赤い指輪ほど底知れず不気味なものは今までなかった。
──こいつの指輪……。なんだ?
悪、ではない。
そもそも善悪の定義もない、何者か。
混沌。忘却。絶望。人智も遠く及ばぬ、暴虐の限りを尽くす純粋なる力。
そんなものが、あの指輪に封じ込められている。そういう禍々しい気配を感じる。
目の前でけろっとした顔で薬を差し出すこの少女は、自分が一体どんな魔力を垂れ流しているか自覚がないのか。
「……すまないが」
駕篭の中だ。逃げ場などない。
とにかくこの指輪から、エウフェーミアを遠ざけなければならない。
「もっと離れた席に座ってもらえるか。きみの魔力と相性がよくなくて、気分が悪いようだ」
───そしたらね、彼は突然こう言ったの。『もっと離れた席に座ってもらえるか。きみの魔力と相性がよくないようだ』
遠い昔に置いてきたはずの少女の声が、脳裡に踊る。
ぎくりと動きを止めた俺に向かって、栗毛の少女は心外だというふうに顔を顰めた。
───そんな意地悪を言うニコラに、リディアはこう言い返すのね。『お生憎さま……』
「お生憎さま。わたしは魔力のない只人ですので」
こいつは一体なにを言っているんだ?
これから向かうのは魔法を学ぶための教育機関だ。魔力がないということは魔法を使えないということ。そんなの入学する意味がない。資格を与えられるはずもない。
心底、不可思議な発言だった。
「魔力のない只人がバルバディアに入学して……」
───で、ニコラは嫌みったらしくこう言うの。『魔力のない只人がバルバディアに入学して一体何をどうやって学ぶつもりだ?』ってね。
───出だしから嫌味全開だなぁ。そいつすぐ死にそう。
───まだ死なないよ!
「一体何をどうやって……学ぶつもりだ?」
「うるさいわね! あんたに関係ないでしょ! あーやだやだ、移動しようアデル!」
頭の中に次々と浮かんでは消える、誰かと誰かのやりとり。
混乱する俺の目の前を通っていこうとした栗毛の少女と、彼女についていく黒髪の少年。
この二人の関係がどうであれ、謎のデジャヴもさて措いて、とにかくあの指輪については見過ごせない。
黒髪の少年の手首を掴むと、彼は野暮ったい黒縁眼鏡の奥から、焦げ茶色の素朴な双眸を覗かせた。
「……なにか」
「あの子とは友人なのか?」
「幼なじみですけど」
「差し出がましいようだけど友人は択んだほうがいい。あの指輪はよくない」
───アデルの手首を掴んで、『友人は択んだほうがいい』なんて言うわけ。
───なんだそいつ、余計なお世話だよな。ツレくらい自分で選ぶっつーの。
───あはは、そう、その通り。そこでアデルの反撃!
少女からアデルと呼ばれていた少年は、すっと冷たい目になって俺を睨みつける。
「本当に、差し出がましい人ですね。友人くらい自分で択びます」
鋭い刃物ですっぱりと切り伏せられた感覚だった。
───まだ死なない、ってことはこの後死ぬんだろ?
───まあね……。三巻で登場したあと七巻に至るまで、リディアとアデルに散々嫌味を言って対立しまくった挙句、八巻で魔王軍の一員として登場して、九巻で石化魔法にかかって死んじゃうの。
───なんつーか、あんま同情できねぇ悪役坊ちゃんだな。
───そう言わないで。彼にも色々事情があるんだよー。
───お前はニコラの友だちかよ。
「……は?」
その瞬間、ニコラ・ロウは唐突に思い出した。
十五年前に転生してきた自分が、何者であったかを。
俺がその気配に気づいたのは、〈王立バルバディア魔法学院〉の入学式へ向かう駕篭が飛び立ち、幾分も経っていない頃のことだった。
駕篭には振動を抑制するための魔法が幾重にも展開されているが、曳航する翼竜の羽搏きに合わせて多少は揺れる。
だから、隣に座っていた婚約者の顔色がよくないのは、乗り物酔いのせいだと思っていた。
出発時に酔い止めの薬は飲んでいたが、翼竜の駕篭など滅多に乗れない代物だ。慣れない浮遊感に体がついてこないのだろう、と。
──だが違う。
ぐったりとしている彼女の頭を引き寄せた。
俺の肩に凭れかかり柳眉を顰めた婚約者の様子を見て、逆隣りに座っていた少女も「体調が悪いの?」と心配そうな表情になる。
「そうみたいだ。酔ったのかと思ったんだが……」
「吐き気止めなら持ってるよ。魔法薬の先生が調合した薬だからよく効くと思う」
「ありがとう。……エウフェーミア、平気か」
薄く開いた婚約者の菫色の双眸が、俺たちと乗り合わせた新入生たちを見渡した。
こちらを見ている少女もいるし、気づかず窓の外の景色に見惚れている少年もいる。やがてぱちりと瞬いた先にいたのは、ごそごそとカバンの中から薬を取り出したところの親切な少女だった。
よくよく集中してみると、先程ふと感じた奇妙な魔力は、少女の右手から滲み出ている。
エウフェーミアの髪を撫でていた手が柄にもなく強張った。
こっちの世界に生まれ落ちて早十五年。
様々な魔法をこの目にし、多様な魔物に出会ってきたが、彼女の右手中指にはまっている赤い指輪ほど底知れず不気味なものは今までなかった。
──こいつの指輪……。なんだ?
悪、ではない。
そもそも善悪の定義もない、何者か。
混沌。忘却。絶望。人智も遠く及ばぬ、暴虐の限りを尽くす純粋なる力。
そんなものが、あの指輪に封じ込められている。そういう禍々しい気配を感じる。
目の前でけろっとした顔で薬を差し出すこの少女は、自分が一体どんな魔力を垂れ流しているか自覚がないのか。
「……すまないが」
駕篭の中だ。逃げ場などない。
とにかくこの指輪から、エウフェーミアを遠ざけなければならない。
「もっと離れた席に座ってもらえるか。きみの魔力と相性がよくなくて、気分が悪いようだ」
───そしたらね、彼は突然こう言ったの。『もっと離れた席に座ってもらえるか。きみの魔力と相性がよくないようだ』
遠い昔に置いてきたはずの少女の声が、脳裡に踊る。
ぎくりと動きを止めた俺に向かって、栗毛の少女は心外だというふうに顔を顰めた。
───そんな意地悪を言うニコラに、リディアはこう言い返すのね。『お生憎さま……』
「お生憎さま。わたしは魔力のない只人ですので」
こいつは一体なにを言っているんだ?
これから向かうのは魔法を学ぶための教育機関だ。魔力がないということは魔法を使えないということ。そんなの入学する意味がない。資格を与えられるはずもない。
心底、不可思議な発言だった。
「魔力のない只人がバルバディアに入学して……」
───で、ニコラは嫌みったらしくこう言うの。『魔力のない只人がバルバディアに入学して一体何をどうやって学ぶつもりだ?』ってね。
───出だしから嫌味全開だなぁ。そいつすぐ死にそう。
───まだ死なないよ!
「一体何をどうやって……学ぶつもりだ?」
「うるさいわね! あんたに関係ないでしょ! あーやだやだ、移動しようアデル!」
頭の中に次々と浮かんでは消える、誰かと誰かのやりとり。
混乱する俺の目の前を通っていこうとした栗毛の少女と、彼女についていく黒髪の少年。
この二人の関係がどうであれ、謎のデジャヴもさて措いて、とにかくあの指輪については見過ごせない。
黒髪の少年の手首を掴むと、彼は野暮ったい黒縁眼鏡の奥から、焦げ茶色の素朴な双眸を覗かせた。
「……なにか」
「あの子とは友人なのか?」
「幼なじみですけど」
「差し出がましいようだけど友人は択んだほうがいい。あの指輪はよくない」
───アデルの手首を掴んで、『友人は択んだほうがいい』なんて言うわけ。
───なんだそいつ、余計なお世話だよな。ツレくらい自分で選ぶっつーの。
───あはは、そう、その通り。そこでアデルの反撃!
少女からアデルと呼ばれていた少年は、すっと冷たい目になって俺を睨みつける。
「本当に、差し出がましい人ですね。友人くらい自分で択びます」
鋭い刃物ですっぱりと切り伏せられた感覚だった。
───まだ死なない、ってことはこの後死ぬんだろ?
───まあね……。三巻で登場したあと七巻に至るまで、リディアとアデルに散々嫌味を言って対立しまくった挙句、八巻で魔王軍の一員として登場して、九巻で石化魔法にかかって死んじゃうの。
───なんつーか、あんま同情できねぇ悪役坊ちゃんだな。
───そう言わないで。彼にも色々事情があるんだよー。
───お前はニコラの友だちかよ。
「……は?」
その瞬間、ニコラ・ロウは唐突に思い出した。
十五年前に転生してきた自分が、何者であったかを。
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