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第十章 星降る夜の騒乱

第7話 星降る夜の騒乱(3)

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「あっははははは!」
「えっ、何なにロロフィリカ、どうしちゃったの」

 リディア頼むから黙ってくんねぇかな……!
 ただならぬ状況を察知してロロフィリカから距離を取っているアデルとは大違いだ。まあこの、迷いも衒いも疑いもない真っ直ぐさが、リディアらしさなんだけど。

「あー、おっかし! リディアあんた本当にバカね!」
「なっ、なによ急に。これでもペーパーテストの点は悪くないんだから!」
「そういうとこがバカだって言ってんのよ。周りをよく見てみなさい。トラクもニコラもあたしに杖を向けてるでしょ。エウフェーミアは死にかけでしょ。アデルだって警戒してんのよ?」

 致し方ないともいえる。ロロフィリカと過ごした時間の多さがリディアは段違いだ。
 俺たち以上に彼女を疑うということが難しい。ゆえに裏切られたと理解したときの衝撃の大きさも、計り知れない。

 リディアはゆっくりと首を回して、俺たちを見て、俺の腕のなかのエウに目を留めた。


「……どういうこと?」


 ビン底眼鏡の奥で睫毛を伏せたアデルがそっと首を振る。
 くしゃりと顔を歪めたリディアは、大きく肩で息をした。その様を見ていたロロフィリカは片目を細めて、ふ、と鼻で笑う。心底、莫迦にするような、侮蔑の笑み。これがロロフィリカのほんとうの顔。

「サー、ごめんなさい。あたし失敗しちゃったみたい」

 甘えるように、ねだるように、どこへともなく謝ったロロフィリカの声に応えるようにして影が降り立った。
 トラクの足元だ。
 虚空から滲み出た影が猫のかたちになる。そのシルエットの周りで渦を巻く黒い霧は、冥界の生き物が吐く瘴気の吐息。ぱっと瘴気が霧散するとその下から灰色の猫が顔を出した。


 どこにでもいそうな灰色の猫がニコリと笑う。


「まったく、ロロフィリカはドジですね」


 猫は即座に輪郭を蕩けさせて人型に戻った。変身魔法だ。水の流れるような仕草で伸ばされた手は、トラクと俺とをまとめて吹っ飛ばすための魔力の塊を放出しようとしていたが、攻撃が繰り出されるより先に動いたものがあった。
 アデルの右手だ。
 右脚を引き摺る不便を抱えるため、普段なにごとも億劫そうにのんびりと動くアデルが、見違えた動きで腰につけていたポーチのなかの触媒を〈隣人たち〉に捧げた。祈詞も、杖も必要ない。一瞬の攻防に目が追いつかなかったが、魔力同士がぶつかって激しく四散したことだけが解った。

 人間を二人薙ぎ払う予定だった魔力がなんの成果も得なかったことに、悪魔はこてりと首を傾げる。

「こざかしいですね。逆回転の相殺など、只人につかえるはずがない」

 悪魔は一見ただの人間だった。
 アキ先生に借りた資料に載っていたものと寸分違わぬ姿かたちをしている。魔王の第三配下、サー・バティスト。基本的に黒装束が多い魔王軍の手勢にあって唯一、色鮮やかな衣装に身を包み、騎士のように佩刀する地上趣味の悪魔。

 蒼白い陶器のような肌。白眼まで黒い、冥府の底のような眸。毒々しいほど赤い唇。目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、耳が二つ。ほとんど人間と同じ顔立ちだが、両の蟀谷から獰猛に捻れたツノが生えていることから、彼が魔王の手の者だと判別がつく。
 吐き気がするほど人間と酷似した、たちの悪い魔性の者。

 対するアデルは忌々しそうに顔を歪める。

「あなたたちが殺したがっている只人が誰の弟子だか忘れたの。大魔導師イルザークの弟子だよ」

 この二人はそうか、イルザーク先生と別れたところをサー・バティスト本人に追われて、空間転移魔法でここまで飛ばされたのか。
 アデルは後ろ手に触媒を手に取った。何かの粉末で満たされた小瓶を、指と指のあいだに四本。
 俺とトラクも杖を構えて、リディアとエウを下がらせる。やるしかない。

 悪魔はきりりと口角を上げた。右足が軽く地面を叩くと、その傍らに転がっていたロロフィリカを拘束していたトラクの樹が見る見るうちに腐って枯れていった。
 「よいしょ」と立ち上がったロロフィリカは青いドレスの裾をはらい、髪の毛を撫でつけると、傍らの悪魔を見上げる。

「ごめんなさい。サー、怒ってる?」
「いいえ。ここまで一人でよくがんばりました。陛下の肉体と魔力をおぎなうための子羊も、あの裏切り者イルザークの愛弟子二人も、ちゃぁんと揃っていますね。じゃまな蝿が二匹いるようですが、このていどは許容範囲ですよ」

 存外、丁寧な口調で労いながら、悪魔は手袋をはめた指先でロロフィリカの顎を擽った。
 ロロフィリカは嬉しそうに微笑んで悪魔の腕に抱きつくと、ちらとアデルに視線をやる。

「あんまり驚いてないんだね。つまんないの」
「生憎、メイヒュー先生のことがあってからこちら、オクの町の人以外を信じたことはない」

 悪魔が然りとうなずいた。

「成る程よい心がまえです」

 その言葉ののち、予備動作もなく悪魔の姿が消える。次に現れたのはアデルの背後、その細頸に黒い爪を当てがっていた。
 慈しむように喉元を撫で上げ、アデルの顎に手をかける。

「その薄暗い眸、絶望を知る眼──きみの性質は私たちにほど近い。じぶんでもわかっているのではないですか」
「エレイルという悪魔にも言われたことがあるよ。答えは同じだ」

 後ろ手に回していたアデルの指の間から小瓶が零れ落ちた。瓶底眼鏡の奥の怜悧な眸は、俺を一瞥する。わかっているよね。
 杖を悪魔に向けたまま、俺は魔法を足元に向けて発動する。──“風よその小瓶を粉砕せよ”。


「死んでも御免だ、糞野郎!!」


 土壇場に聞いたアデルの罵声に思わず顔が笑っていた。なんだよ、そんな言葉遣いもできるのか。
 俺の風に粉々になった小瓶のなかから飛び散った粉末は、前期リディアがジェラルディンたちを昏倒させた例の『ハルベリーの乾燥粉末』、吸い込めば超強力な睡眠薬となる代物だ。それが四本分。
 ピンク色の煙のなか、悪魔の黒い影がぐらりと揺れた。
 さすがに卒倒とはいかないが隙はできたらしい。

 触媒としての効能を知っていたリディアがエウの鼻と口を塞いでいる。俺はエウを抱えてリディアとともに退避し、トラクがアデルを引き摺るようにしてその場を離れた。
 煙の中から突き出した手が、アデルの顔面を掴む。爪が喰い込み白い頬に血が滲んだ。
 俺の魔法は間に合わない。

「シズル!!」

 蒼い光が爆発していた。
 アデルと悪魔の間に寸でのところで割り込んだ青い猫神が炎を噴いたのだ。衝撃でアデルとトラクが数メートルスッ転び、アデルは顔に負傷したが生きていた。
 俺はアデルの襟首を引っ掴み、背後のリディアにパスする。どうせまた止血剤を携帯しているはずだ。リディアはそういうやつだから。まだ苦しげな呼吸を繰り返し、体が動かない様子のエウも同様に預ける。
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