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ありがとう。少年へ
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小さい頃の記憶は、不確かです。「あれは夢の一部だったのか」「それともリアルな妄想か」。特別、何か印象に残ることでなければそれが誠かわかりません。誰かに尋ねても知るわけありません。しかし、そんな不確かな記憶も今の自分を作っているのです。きっとそうだった。と、思い出せるのです。
*
僕は乗り物が苦手でした。一歩、足を踏み入れるまでは我慢できましたが、動き出すと途端に視界が揺らぎます。しかし、学校に行くためには乗らなければなりません。
小学生ですが、通勤ラッシュに飲まれて通学していました。入学して一ヶ月は親が付いてきてくれましたが、仕事がある親を引っ張っていくのは申し訳なくて、自分から断りました。薬を飲めば幾分か良くなりますが、人混みはどうしようもありません。最後尾の車両に乗っても誤差のです。あの日も気合を入れて乗りましたが、とても息苦しかったです。次の駅で沢山の人が降りるので5分ほどの辛抱です。
「うぅ、慣れないなぁ」
降りる人たちの流れに入らないように避けます。たくさんの人が一気にいなくなり、窮屈さはなくなりましたが、それでも立っている人ばかりです。次の駅まで10分ほどです。しかし、僕は流石に体力の限界だったのか、フラフラとしていたのでしょう。
「おい、大丈夫か」
腕を掴んで、支えてくれた僕と同じくらいの…少年と置きましょうか。小さい子供は格好によって性別がわかりにくいと思います。その少年は格好も声も、顔も、どちらにでもとれそうです。ちなみに少年は少女も含まれるので構わないでしょう。
「座れそうにないな。 ほら、壁に寄りかかろう」
車掌室と書かれた窓がある壁側に寄りかかりました。
僕は少年の手をしっかりと握りました。当時は無意識だったと思います。誰かがそばにいてくれるという安心感だと思います。
少年は、ポケットからリンゴの飴を僕に渡してくれました。食べると良いと世間的には言われているのは知っていましたが、流石にその時は食べる気が起きませんでした。
「お前、どこで降りるんだ?」
「次の駅だよ」
「なんだ。 すぐなのか」
「君は?」
少年は少し黙ってしまいました。当時の僕は察するという配慮を知らず、そのままその話を続けました。
「忘れた?」
「…まぁ、そうだな。というか、お前、気持ち悪いなら電車じゃなくて親に送ってもらうとかしてもらえないのか?」
「お父さんとお母さん忙しいし送ってもらうの、悪いかなって。車もないから混んでる電車に連れて行くのもあれだし」
僕の両親は朝早く、そして夜遅くに帰ってきます。僕の身を心配していましたが、僕としては申し訳なくて仕方がありませんでした。僕に笑顔を向けてくれる優しい両親ですが、少し離れるとすぐに疲れた顔になってしまいます。学校に送ったら急ぎ足でまた電車に向かっていくのです。僕を嫌っているわけではありません。それだけは言えます。それ故に迷惑はかけたくありませんでした。
「でも、君が手を握ってくれるだけでちょっとは良くなったよ! ありがとう!」
僕が、電車に乗って気持ち悪いと思う中には寂しさもありました。周りはスーツを着た笑顔のない顔に、眠さを我慢してまで起きようとする人、つまらなそうに携帯や窓の外を見る人。一種の恐怖を感じました。僕は邪魔者の様に押され、最寄りで乗ろうとする時に、モタつくと後ろの人は舌打ちをします。一駅だけでもその人がぴったりと後ろに付いていると思うだけで、泣いてしまいそうでした。しかも、混雑が終わっても後悔に似た何かが僕を襲いました。また明日、僕にイラついていた人に出会ったら?明日はちゃんと乗れるだろうか?そもそも他の人も表に出さないだけで、イライラしているんじゃないか?と。
アナウンスで目的の駅が流れます。
「ランドセル背負っているから、学校に行くんだよな。帰りも電車なのか?」
「うん」
「また一人で?」
「ううん。 学校には夜8時までいて、8時になったらお母さんが迎えに来る。学校のご飯2回食べれるんだ!」
少年の返事を待たずに僕は、じゃあねと言って降りてしまいました。
*
多分次の日だと思います。朝、その少年にまた出会いました。いつもの様に電車は混んでいましたが、乗った時、偶然にも少年がすぐ側にいました。
「あ、えっと、名前なんだったけ」
「■■」
今はもう思い出せません。重要なことだから忘れてはならないことですが、覚えていないのです。だからこの記憶は現実なのかが怪しいと思うのです。この記憶は少年ありきのはずなのに、名前は覚えていません。
「お前、なんで手握ってんだ」
僕は出会ってすぐに少年の手を握っていました。この黒くて朝日なんて見えもしない陰湿な空間で、少年だけは僕の目にしっかりと映っています。溢れんばかりの安心感があったのでしょう。
「降りるまで握ってていい? なんか、怖いんだ」
「別にいいけどさ」
深い車輪の音に、微かに聞こえる誰かのいびき。僕と少年は皆が降りるまで黙っていました。少年の気持ちはわかりませんが、僕は誰かを不快にさせてしまうことにとても敏感です。密着している空間です。小声でもうるさく思う人はいるはずです。
「わわわ!」
「バカ! 身をまかせるな! 降りるのはドア前のやつらだけでいいんだ! お前は避けるんだ!」
今でも満員電車の乗り降りはイマイチわかりません。ドアの前の人は降りるのは当然だと思いますが、微妙な位置にいると降りるのかどうか迷います。降りたところで当時の僕なら小さい体でそのまま階段まで流されていきます。つまり、流れの中で止まると邪魔だと思われそうで、運が悪ければ電車を一本流すことになります。
そして、また次の電車でどっと人が降ります。再び大群に飲まれない様に気合を入れなければなりません。小さい子供が流れに逆らってくると、「子供のくせに逆らって押すな」と押し返してくる人が多数です。こんなことをいちいち考えてしまう人は、そもそも満員電車に乗るなという話です。それは僕も当時から思っていました。でも、乗らざるおえない状況なのです。そう言い聞かせるしかありません。
空いた車両になりました。偶然にも2つ、席が空いたのです。
「席空いてる。 座ろう」
「いや、いいよ」
「何言ってんだ。お前、気持ち悪いんだろう」
「いいって。 大丈夫」
僕はガラガラでない限り椅子に座りたくありませんでした。簡単な理由です。文句を言ってくる人がいるからです。気持ち悪い、吐き気があると僕がいくら感じても外見ではわかりません。もちろん僕は足腰が悪いわけではありません。「若いくせに何座っているんだ。譲れ」と声を荒げる人が少なからずいるのです。もちろん僕だって非情な人間ではありませんので、譲ろうと思う心はあります。しかし、文句を垂れる人は僕より元気だろうと明らかにわかります。それでも外観で判断してはいけません。もしかしたらその日の方が辛いかも…。ですが、体調が優れない僕からしたら、譲るも何も今、僕は気持ち悪いわけです。他の人のことを考える余裕はないのですが、言ったところで火に油を注ぐだけです。
つまり、文句を言われるとさらに頭の奥がキュッと痛くなるので僕は座りたくないのです。
「寄りかかっているだけでいいよ」
「そう言うなら、わかった」
僕は一呼吸ついてから、少年に尋ねました。
「■■はどこの学校? 遠いの?」
少年の顔は帽子でよく見えませんでした。
「遠いかな」
「バッグは?」
「学校の話はもういいだろ」
「でもなにも持ってないならどこ行くの?」
今思えばよく怒られなかったと思います。こんなにしつこい奴なら一言抑えると思います。それも妄想の一端だから怒られないように思い出したのでしょうか。それとも少年は心の広い持ち主だったのでしょうか。
「終点まで」
「どこから乗って?」
「終点から」
駅表に目をやると終点から終点までは各駅停車であれば50駅は少なくともあるでしょう。乗っていた電車は急行電車ですが、終点から終点までは1時間はかかりそうです。なぜ急行より速い特急などに乗らないのか、など当時の僕は考えませんでした。
「…お前は学校楽しいのか?」
「楽しいよ。 先生とお話ししたり、うさぎと遊んだり」
「そうか。 こっちは楽しくないな。どうせすぐ別れるから」
『まもなく…駅…』
「この駅だろ。 ほら、降りる準備しよう」
「■■は明日も乗ってる?」
「…明日は乗ってるよ」
扉の前で待っている時も少年は僕の手を握っていてくれました。
僕が手を離して降り、振り返ると少年は小さく手を振ってくれました。それは堪らなく僕は嬉しかったことを覚えています。自分のことに手を振ってくれた。優しさを感じたのもありますが、それ以上に僕を認識してもらったことが嬉しかったのです。
僕が見えなくなるまで、少年は手を振っていました。
僕も見えなくなるまで、少年に手を振ってました。
*
またある日。この記憶の中では鮮明に思い出せる日の一つです。朝から豪雨で先が白く見えにくく、傘に打ち付ける雨が車の通る音すらかき消しました。駅に着けば、電車が大遅延を起こしており、人が溢れていました。
「凄い人だぁ。 でもこれでしか行けないし、取り敢えず改札入っちゃおう」
僕は人混みに向かって、深呼吸をしてから入りました。
いつも以上に苦しく、ホームに行こうと階段を降りた時には、小学生の僕ですら通れないほど人、人、人。そして小学生の身長だと、大人が持つ傘の位置に体が当たります。一番後ろに行くまでに何度も傘にあたり、一層ジメジメしました。
「ったく! 何だよ!」
「わっ! ごめんなさい!」
電車も来ない、雨も降ってイライラしている人ばかりです。いつもよりも煙たがれました。すみません、すみませんと間と通ろうとしても突き返されるオチです。
電光掲示板には時間どころか、電車の詳細すら表示されず、『雨と○○駅でお客様対応のため、ただ今40分遅れで…』と流れ続けていました。
「あ、椅子空いてる!」
ホームにある椅子が空いていたのです。ホームの椅子なら、人の流れが激しいので遠慮する必要はありません。空きの隣に座っているお婆さんも項垂れており、僕も座った途端にどっと疲れました。
座ってから周りを見れば、足を揺する人、電車は来ないのかと線路の先を何度も見る人、駅員さんに文句を垂れる人など、いい心地ではありませんでした。
僕は駅員さんに文句を言う人はどうしてそうなるのか気になって仕方がありませんでした。そこの駅員さんは遅らせた原因では勿論ないわけです。その駅員さんは駅員さんで無線を持って連絡をしています。忙しそうだと一目瞭然です。それでも文句を言いつづけ、止める人はいません。
自分が言われているわけではないのに、その言葉を聞くたびに自分が責められているような感覚になります。精神的に空気が悪くて、その中に一人でいることが怖くて怖くて吐きそうでした。
「おい」
突然声をかけられ、僕もさっきぶつかった人に文句を言われるのかと思い、首がキュッとしました。
「大丈夫か。 なんか、いつも以上に顔が白いけど」
顔を向ければあの少年でした。僕は安心と共に、真夜中の路地でようやく人に会えた様な嬉しさ、そして今まで感じていた恐れが一気に乗っかってしまい、少し泣きそうになっていました。
「何で泣くんだよ。 そんなに会うのが嬉しいのか。 変なやつ」
「どうしてここに?」
「この駅に着いた時、押し出されたんだ。 人が多くて乗れないし」
少年は傍に立ってくれました。僕は自然と笑みがこぼれました。
「お前、学校間に合うか?」
「ここまで遅れていたら、先生もわかってくれるよ」
僕はとあることを思い出しました。
「そういえば、こないださ、学校はすぐ別れるから楽しくないって言っていたけど、なんで別れちゃうの?」
相手の気持ちを考えない発言です。幼かったとはいえ、失礼なことです。それでも少年は答えてくれました。
「いろんなところに移動するからだ。 一昨日までは雪がたくさん来るところに住んでた」
「えぇ?! 引っ越しってこと?!」
「そんな驚くことか?」
「だって、沢山引っ越すってことは、僕ともすぐ別れちゃうの?」
少年は吹き出して笑いました。初めて心を許してくれた様な気がしました。
「そんなに別れるのが嫌か?」
「嫌だよ! ともだちと別れるなんて嫌だよ!」
「ははっ! そうか、友達か。ありがとな」
それから何を話したのでしょうか。覚えていないので、きっと他愛のない会話だったと思います。周りの空気と違って、少年と話しているときはとても安心して、楽しかったです。初めてともだちになれた。そんな喜びもあったと思います。
また別の日。
「手、ケガしたの?」
少年の手には大きな絆創膏が貼られていました。
「喧嘩よくするから」
「喧嘩! 怖くないの?」
「別に」
「すごいね~。強いんだ」
またまた別の日。
「お前、その青色のトレーナーよく着るな。青色好きなのか?」
「うん。青と、白が好き。■■は何色好き?」
「帽子がそうだけど、赤と黒が好き」
たった10分ほどの区間ですが、僕にとっては何時間にも感じました。詳しく話の内容を覚えているものは少ないですが、少年と沢山話したことだけは覚えています。
そして何日か経った日の事です。そろそろ鬱陶しい梅雨に入る時の頃だと思います。梅雨はジメジメしているのはもちろんですが、周りの人の空気が一層重くなるのが、僕は嫌いでした。でも、学校がある日は少年と電車で会えます。嫌だったはずの電車と人混み、そして梅雨も、少年と会うことに比べたらちっぽけなことです。
どうしてここまで少年に惹きつけられたのでしょうか。初めてのともだちと言うのもありましたが、それよりも、少年が僕といる時に笑顔になってくれるのが嬉しかったです。少年は僕の話を聞いてくれて、そして、馬鹿にして笑うようなことは一切しませんでした。ほほえましく見守ってくれた、と言うのが適切かと思います。年齢を聞くことはしませんでしたが、当時の僕よりしっかりしていたので年上だったのかもしれません。
「腕につけてるの何?」
「自分で編んだミサンガだ」
「ミサンガ?」
「自然に切れたら願い事が叶うらしいんだ」
少年のしているミサンガは情熱の赤色と、それを際立たせるような黒色で編まれていました。
「へぇ、願い事かぁ」
「お前は何かあるか? 願い事」
「えっと、願い事・・・」
「小さい事でもいいさ」
「じゃあ、■■とずっとともだちでいたいな!」
「お前が忘れなきゃずっと友達だよ」
呆れながらも、笑ってくれる。兄・姉、そんな感じが一番近いかもしれません。
「■■は何を願ってるの?」
「そうだな。 兄弟に会いたいな」
「兄弟とも別れちゃったの?」
「うん・・・別れたな」
「会いに行けないくらい遠いところに住んでるの?
「あぁ。 遠い、遠いところだ。 気軽に行けない。 飛行機でも何日かかることか。 そのくらい遠いところに。お前さ、何となく弟に似ているんだ」
「僕が?」
「年も同じくらいだろうな。 寂しがり屋で、よく面倒を見ていた」
「僕、兄弟いないからわからないけど、■■が家族だったら頼りになるね!」
「ありがと」
「■■が兄弟に会えた時は、僕にも会わせてよ!
「もちろん」
雨が降る毎日が始まりました。いつものように電車に乗り、少年を待っていました。しかし、少年が現れなくなりました。
その日から一週間ほどでしたでしょうか。僕は、少年の事が心配になりました。でも、住所も連絡先も知らないため電車で待つしかありません。
人混みは以前より減っていました。よく、「6月からは鬱やだるさで通学通勤の人が減る」と言われています。きっとそれが実際に起きていたのでしょう。窓の外がわずかに見える様になりました。耳に入るのは車輪の音と、雨が電車に打ち付ける音、そして服が擦れ合う音。今日も会えないかな、と思い始めると、少年の言っていた「いろんなところに移動する」が頭を巡ります。もしかしたら、二度と会えなくなると感じてしまい悲しくなります。
ある日、少年は終点から終点まで乗っていると言うセリフを思い出しました。僕は朝早くにいつもとは逆方向の電車に乗り、終点に行きました。電車内は走り回れるほど空いており、先頭から最後尾の間は数えるほどの人しかいません。僕は早く着きたいの一心で、先頭のドアにいました。雨は小雨ですが相変わらず降り続けています。景色はどんどん自然に近づいています。通過して見える駅のホームの人も、減っていきます。
乗っているとき、僕は少年の事が心配でたまりませんでした。ランドセルをぎゅっと持ち、流れる街並みを見ていました。
アナウンスから終点の駅名が流れます。その時の僕は終点には来たことがありません。電車の先頭がホームの先頭に差し掛かります。ホームの先頭は屋根がなく、雨が降っているので人はいないと思っていました。
「あ! 今の!
一瞬、窓から見覚えのある帽子が見えました。屋根のないところで、傘もなく、ベンチに体育すわりで座っていました。
僕は、扉から降りると急いでホームの先頭に走りました。屋根のない場所にあるベンチに、少年はいました。傘はさしておらず、服の色が変わるほど濡れていました。僕は傘をさして、駆け寄ります。
「■■! どうしたの?!」
少年はびくっとした後に、うずくまっている顔を上げ、僕の方に向けました。
「お前! なんでここに」
「風邪ひいちゃうよ?! 屋根の下行こう!」
僕は少年の手を引いて、屋根の下に引っ張りました。
少年の手は冷え切っていて、表情も暗かったです。口を中々開いてくれませんでした。僕も、その時はいつもと違う雰囲気に声をかけることが出来ませんでした。小雨なはずなのに、雨音がうるさく感じました。僕は少年の手を温める様に握りなおします。目もそらさずに見つめました。
「・・・学校、行きたくなくて」
少年は小さい声で話はじめます。
「よそ者って言われるし、お父さんも、お母さんもいないってからかわれるし。喧嘩も吹っ掛けられるし」
初めて見る少年の弱さに、僕は何も返事ができませんでした。ふと、少年の手元を見ると、あのミサンガがありませんでした。悪い事しか思いつきませんでした。
「ミサンガ、はさみで切られるし」
震える声と共に、帽子の陰から涙がこぼれます。悲しむ少年を僕はこれ以上見たくありませんでした。いつだって、僕に付き合ってくれて、話もしてくれる少年です。当時の僕は精一杯言葉を探しました。
「僕が代わりにミサンガ新しく作るよ!」
「は?」
「赤と黒だったよね!」
「ミサンガは自分で作らないと意味がないんだぞ」
「え! そうなの?! えっと、なら、えっと」
「そもそも、作り方知らないだろ」
「べ、勉強するよ! それがだめなら、えっと、えっと!」
僕はたまたまポケットに入っていた飴玉を取り出しました。
「あめちゃんあげる!」
「いつから入ってるんだよ。 それ」
「古くはないと・・・思うよ! でも、ほら!悲しいときはお腹空いているからって言うじゃん!」
「何だよそれ」
少年は、小さく笑ってくれました。何がおかしいのか当時の僕にはわかりませんでした。ですが、少年がいつもの雰囲気に近づいていることはとても嬉しかったです。
「学校、嫌なら僕の学校来なよ! 先生とも仲いいし!」
「大丈夫」
「なら! 僕が■■の学校に一緒に行くよ!」
少年は僕の手から飴を受け取りました。
「いいって。 何となく元気でたからさ」
「本当に大丈夫? 服も濡れてるし、傘もないんでしょ?」
「今日はもう家に帰るよ。 また明日から学校は行くさ。 冷静に考えれば行かないってことは負けたようなもんだからな」
「怪我しちゃだめだよ」
「もうお前に心配させないよ。お前、泣いちゃってるしさ」
そう言われて、僕は自分が必死で泣いてしまっていたことに気が付きました。
「それに、お前も学校あるんだろう? 時間大丈夫なのか?」
「あ!」
「ははっ、まずは自分の事を気にしな」
発車ベルが鳴り響き、急いで折り返す電車に飛び乗りました。扉が閉まり、振り返ると少年は笑顔で手を振って見送ってくれました。僕も元気になった少年に負けないくらいに手を振り返しました。ホームが見えなくなるまで、窓に張り付いていました。
*
僕は母を待っている間に、学校の図書館に篭り、手芸や編み物の本を漁りました。少年に言われた「自分で作らなきゃ意味がない」というセリフを聞きましたが、少年の悲しそうな顔に僕はいてもたっていられなかったのでしょう。先生に頼んで、家庭科室にある糸を少し分けてもらいました。ミサンガの作り方は簡単でした。数本の糸を結び、机に貼り付けます。そのあとはひたすら4の字を編み込んで行くだけです。しかし、編み物の「あ」の字も知らない当時の僕にとってはえらく大変だった気がします。
その日から再び少年と出会うことができました。当時の僕は、少年が心配になって、毎日飴を持つようになりました。今でも癖でカバンに入っています。少年は毎回受け取ってくれました。
「お前の家の近くで、セミは鳴き始めたか?」
「うん。 ジーって鳴いてるよ。夜もなんかリーリーって鳴ってる」
「それはコオロギじゃないか?」
「セミじゃないの?」
「セミは夜には鳴かないんだよ」
「へ?」
今思えば、色々なことを少年から教えてもらったような気がします。勉強以外の事を会話の中で学んだと思います。
「■■のお家って終点だよね?」
「そうだよ」
「山とかあるけど、やっぱり虫とかいっぱいいるの?」
「カブトムシとか、玄関にいっぱいいるぞ」
「いいな?!」
「よくないって。 朝から気持ち悪い。ウジャウジャしてる虫とか勘弁してくれ…」
夏が近づくにつれて、満員電車は暑苦しくなりますが、僕はもうそんな事気にしなくなっていました。僕は少年といる事が当たり前のようでした。前に行っていた少年の事情なんてすっかり忘れていた頃に出てきました。
「ひ、引っ越す?」
車内に響くほどの声を出してしまいました。すぐに少年に注意されましたが、落ち着けませんでした。
「前にも言ったろ。 すぐ離れちゃうからな」
「い、いつ?」
「明日の夜」
「急だよ!」
「悪ぃ。 親の都合だし…事前に言えなくて」
「…」
僕は頭がきゅうっと締まりました。別れるのももちろん悲しいですが、何よりミサンガがまだできていない!と。
「明日の夜ってことは、朝はまだ会えるんだよね?」
「学校には行かなきゃいけないからな」
なんとしてでも今日中に完成させなければなりません。そして、少年と別れてしまう事はどうしても回避できない出来事として、受け止めるしかありませんでした。自分が何かを言ったところで止められることではないのです。僕は色々話し足りない事が沢山あり、何から言えばいいのかわからなくなりました。いつものように、何となく思ったことを話せばいいのに、口を開くことができませんでした。
少し、電車の車輪の音が大きく聞こえました。外はもうすぐ夏に近づき、真っ青な空が広がっていました。
「靴紐、何でそんな硬く結んでいるんだ」
僕の靴は何重にも絡んだ適当な結び方をしていました。
「今日、お母さんに結んでもらえなくて…」
「これだと脱ぐ時大変だろ」
少年はしゃがんで、靴紐を解きます。
「ありがとう」
「自分で今度からできるようにしないとな。 ほら、一緒に結んでみようぜ」
隣にいる少年と一緒に壁に寄りかかりながらしゃがみました。少年は自分の靴紐を解き、お手本をしてくれました。
「片っぽを丸にして、しっかり持てよ。 そんな大きくやらなくて大丈夫だよ。 このくらいでいいよ。
うん、その丸を結ぶようにもう片方でぐるって」
「こう?」
「そう。 そんで、この間からキュって…」
「なんか変になっちゃったよ?」
「ははっ。 不恰好な蝶だな」
「蝶?」
「この結び方の名前。 蝶々結びって言うんだ」
「へー。 そういえば蝶々みたいだったな?」
「綺麗にできたらな。 解いてやり直そう。
力を入れるのは最後の仕上げの時だ。
よく見てな」
少年はゆっくりと、丁寧に蝶々結びの手本を見せてくれました。
少年の靴紐は、少年が好きだと言っていた赤色でしたが、今にも切れてしまうほどボロボロでした。靴は履き潰れていて、黒色が土や砂で少し白っぽくなっていました。全体的に何度か修理しているような痕が見えました。
「靴、新しいの買わないの?」
「紐は弟から、靴は兄貴からもらったんだ。ボロボロだよな。でも、捨てるに捨てられなくて」
話し終わった時、少年が結んでいた赤色の紐が切れてしまいました。
「とうとう切れちゃったな」
少年は仕方ないと言いつつ、まだ残っている紐を無理やり結びました。
「お前、やってみな」
切れたことに寂しそうな表情を一瞬、少年は浮かべましたが、すぐに僕の方を気にかけてくれました。その時少年は明るく微笑んでいました。僕は少年がやってくれた結び方を思い出しながら、自分の靴紐を結びます。
「えっと、ここからどうするんだっけ」
「ぐるっとやった隙間から、蝶の羽を意識しながら引っ張ってみな。 ゆっくりな」
「できたよ!」
「いいな。 それで、仕上げに、結び目をきつくするんだ。
円になってる紐の根元を引っ張って」
「こう? あ、できた!」
まだ頼りない感じの蝶々でしたが、結べたことは大変嬉しかったです。もう片方の靴も、固結びから解こうとしましたが。
『まもなく…』
窓の外はもう駅に差し掛かってました。
「もう片方は一人でやってみな」
少年はいつもと変わらず僕を見送ろうとしました。明日が最後と思うと僕は中々笑顔にはなれませんでした。
「どうした?」
「え、な、何でもないよ! また明日ね!」
「あぁ」
僕は電車から降り、手を振り続けました。
僕は授業中もこっそりとミサンガを編み続けました。自分の腕に重ね合わせて、手首一周分を作るために半分以上はまだ編みきれていませんでした。蝶々結びも満足にできない僕でしたから、何度も編み間違えては解き、を繰り返していました。放課後も母が迎えに来るまで、ずうっと教室に残って編んでいました。
母が迎えに来て、家に帰った後も編み続けました。その後は、母に見つからないように、母が眠った後にこっそりと編んでいました。なぜ母にバレないようにやっていたのかは、いまいちわかりません。母なら喜んで手伝ってくれると思いますが、僕は秘密にしました。きっと、少年との関係が僕しか知らないという一種の優越感があったのかもしれません。
いつぐらいに出来上がったかは定かではありませんが、ミサンガが編みきれました。最後に解けないように玉結びにするのですが、やり方が書いてある本は学校の図書館です。しかし、結ばないと解けてしまいます。
「あ! そうだ!」
*
いつものように混んでいるホーム。扇子で扇ぐ人、冷たい飲み物を飲む人、夏休みが近づいていると話す学生。そんな風景を横目に、僕はポケットに入ってるミサンガを握り、電車に乗りました。
人の隙間から見える外は日が照りつけ、遠くの山が見えるほど快晴でした。そしていつものように人がどっと降ります。その時は何故でしょうか。殆ど降りてしまったのです。いつも以上に乗っている人が少なく、向こうの車両から少年がやってくるのが見えました。
「おはよ」
「お、おはよう!」
最後だと緊張している僕とは違い、少年は相変わらずでした。
「ほら、座ろう。 今日は人全然いないしさ」
僕は招かれるまま少年の横に座りました。正面の窓には住宅街が徐々にビルに変わっていくのが見えます。
「今日さ、■■の駅まで一緒に行くよ」
「お前、学校は?」
「見送るもん」
わがままでした。出会う前にはそんなこと思っていませんでしたが、やはり別れるのは辛かったのかもしれません。
「お前がそういうなら、別にいいけどさ」
終点まで時間はありますが、それでも刻一刻と時間が減っていく感覚は良いものではありませんでした。
「ごめん」
少年がポツリとつぶやきました。
「え? 何が?」
「…いや、せっかく友達って言ってくれたのにすぐに別れることになって」
その答えから、少年が僕のことを気にかけてしまったと感じました。
「気にしてないよ! たしかに別れるのは寂しいけど、でも! ■■のせいじゃないし、■■が僕のことを嫌いになったわけでもないよね?」
「嫌ってるならわざわざ会わないって。お前は友達って思ってくれるんだろ?」
「うん!」
少年はポケットから何かを取り出して、僕の手のひらに置きました。
「お詫びも兼ねたお礼」
それは青と白で編まれたミサンガでした。
「これ!」
「自分以外が編むのは意味ないって言ってたけど、厳密な決まりはないからな。お前、一人だと不安だから、お守り程度に思ってくれ」
そう聞いて、僕は安心しました。自分が作っていたミサンガも一応は間違っていない事に確信が持てたからです。
「いらなかったか?」
「ううん! 嬉しいよ! ■■が遠くに行ってもこれなら寂しくないもん」
「そうか。 ならよかった」
青と白で編まれたミサンガは売り物のように綺麗な出来でした。日に照らせばラメが小さく煌めき、綺麗な海辺のようでした。
「上手だなぁ…」
自分が編んだ物を思い出すと、比べるのも失礼なくらいな出来です。学校に余っていた薄汚れていた糸でしたから。
「いくら上手でも、つけていたら3日で黒くなっちまう。本当に願いを叶えるかどうかわからないただの糸さ」
「でも、■■が編んでいるからただの糸じゃないよね。 編むの大変だし、色を編み間違えたら治すの大変だもん」
「編み方知っているのか?」
ポロリと話してしまいました。タイミングも下手くそで、子供の頃だから許せる事だと今は思います。
雰囲気も何もありませんでした。すぐにポケットから自分が作ったミサンガを少年に見せました。
「それは?」
「あ、編んだ!」
「お前が?」
「うん! ■■にあげる!」
少年はしばらくミサンガを見つめていました。僕は恥ずかしくて少年の顔を見れませんでしたが、少年が小さく笑った声で目を開けることができました。少年の微笑んだ顔は今にも涙が出そうでした。少し震えた声、帽子を深く被ろうか悩んでいる手、僕があげたミサンガを優しく見つめる少年を、僕は今でも鮮明に思い出せます。
「ばーか。結んだら腕につけられないだろ」
僕の作ったミサンガは綺麗な円状でした。
「あー! そうだよね? 切って結んで!」
「切ったら意味ないだろ。ま、無理に手に通せないことはないけどな。体に結んでいなきゃ行けない理由はないんだ。大切に持っとくさ」
「でも」
「くれたんだから返さないぞ。それに、お前が作ってくれたんならただの糸でも貰うさ」
その言葉は小恥ずかしかったです。初めて友人にプレゼントをして、受け取ってもらえました。自分が存在していることを肌身で感じました。
そんな想いは束の間、もう電車は終点に到着していました。名残惜しく僕たちは駅におりました。
「本当にここまでだ。お前は早く学校に行きな。ミサンガ、ありがとな」
少年はいつものように去って行こうとしました。これから先、再び会うことができるのか一気に不安になりました。子供の頃は近くのスーパーですら、親とはぐれたら一生会えないのではないかと感じてしまいます。今ここで伝えたいことは伝えるべきだと僕は、ランドセルをしっかり握って少年と約束しました。
「今度は僕が、■■を守れるように強くなるよ! だから、また会ってよね! 電車だって一人で乗れるようになるからね!」
約束にしては一方的でした。それでも少年は笑顔で、それでいて真剣に応えてくれました。
「あぁ。今度は私の手を握れるくらいにはなっていろよ」
僕らはそれ以上言葉を交わしませんでした。きっとまた会えると信じてミサンガを握りしめていました。
(了)
*
僕は乗り物が苦手でした。一歩、足を踏み入れるまでは我慢できましたが、動き出すと途端に視界が揺らぎます。しかし、学校に行くためには乗らなければなりません。
小学生ですが、通勤ラッシュに飲まれて通学していました。入学して一ヶ月は親が付いてきてくれましたが、仕事がある親を引っ張っていくのは申し訳なくて、自分から断りました。薬を飲めば幾分か良くなりますが、人混みはどうしようもありません。最後尾の車両に乗っても誤差のです。あの日も気合を入れて乗りましたが、とても息苦しかったです。次の駅で沢山の人が降りるので5分ほどの辛抱です。
「うぅ、慣れないなぁ」
降りる人たちの流れに入らないように避けます。たくさんの人が一気にいなくなり、窮屈さはなくなりましたが、それでも立っている人ばかりです。次の駅まで10分ほどです。しかし、僕は流石に体力の限界だったのか、フラフラとしていたのでしょう。
「おい、大丈夫か」
腕を掴んで、支えてくれた僕と同じくらいの…少年と置きましょうか。小さい子供は格好によって性別がわかりにくいと思います。その少年は格好も声も、顔も、どちらにでもとれそうです。ちなみに少年は少女も含まれるので構わないでしょう。
「座れそうにないな。 ほら、壁に寄りかかろう」
車掌室と書かれた窓がある壁側に寄りかかりました。
僕は少年の手をしっかりと握りました。当時は無意識だったと思います。誰かがそばにいてくれるという安心感だと思います。
少年は、ポケットからリンゴの飴を僕に渡してくれました。食べると良いと世間的には言われているのは知っていましたが、流石にその時は食べる気が起きませんでした。
「お前、どこで降りるんだ?」
「次の駅だよ」
「なんだ。 すぐなのか」
「君は?」
少年は少し黙ってしまいました。当時の僕は察するという配慮を知らず、そのままその話を続けました。
「忘れた?」
「…まぁ、そうだな。というか、お前、気持ち悪いなら電車じゃなくて親に送ってもらうとかしてもらえないのか?」
「お父さんとお母さん忙しいし送ってもらうの、悪いかなって。車もないから混んでる電車に連れて行くのもあれだし」
僕の両親は朝早く、そして夜遅くに帰ってきます。僕の身を心配していましたが、僕としては申し訳なくて仕方がありませんでした。僕に笑顔を向けてくれる優しい両親ですが、少し離れるとすぐに疲れた顔になってしまいます。学校に送ったら急ぎ足でまた電車に向かっていくのです。僕を嫌っているわけではありません。それだけは言えます。それ故に迷惑はかけたくありませんでした。
「でも、君が手を握ってくれるだけでちょっとは良くなったよ! ありがとう!」
僕が、電車に乗って気持ち悪いと思う中には寂しさもありました。周りはスーツを着た笑顔のない顔に、眠さを我慢してまで起きようとする人、つまらなそうに携帯や窓の外を見る人。一種の恐怖を感じました。僕は邪魔者の様に押され、最寄りで乗ろうとする時に、モタつくと後ろの人は舌打ちをします。一駅だけでもその人がぴったりと後ろに付いていると思うだけで、泣いてしまいそうでした。しかも、混雑が終わっても後悔に似た何かが僕を襲いました。また明日、僕にイラついていた人に出会ったら?明日はちゃんと乗れるだろうか?そもそも他の人も表に出さないだけで、イライラしているんじゃないか?と。
アナウンスで目的の駅が流れます。
「ランドセル背負っているから、学校に行くんだよな。帰りも電車なのか?」
「うん」
「また一人で?」
「ううん。 学校には夜8時までいて、8時になったらお母さんが迎えに来る。学校のご飯2回食べれるんだ!」
少年の返事を待たずに僕は、じゃあねと言って降りてしまいました。
*
多分次の日だと思います。朝、その少年にまた出会いました。いつもの様に電車は混んでいましたが、乗った時、偶然にも少年がすぐ側にいました。
「あ、えっと、名前なんだったけ」
「■■」
今はもう思い出せません。重要なことだから忘れてはならないことですが、覚えていないのです。だからこの記憶は現実なのかが怪しいと思うのです。この記憶は少年ありきのはずなのに、名前は覚えていません。
「お前、なんで手握ってんだ」
僕は出会ってすぐに少年の手を握っていました。この黒くて朝日なんて見えもしない陰湿な空間で、少年だけは僕の目にしっかりと映っています。溢れんばかりの安心感があったのでしょう。
「降りるまで握ってていい? なんか、怖いんだ」
「別にいいけどさ」
深い車輪の音に、微かに聞こえる誰かのいびき。僕と少年は皆が降りるまで黙っていました。少年の気持ちはわかりませんが、僕は誰かを不快にさせてしまうことにとても敏感です。密着している空間です。小声でもうるさく思う人はいるはずです。
「わわわ!」
「バカ! 身をまかせるな! 降りるのはドア前のやつらだけでいいんだ! お前は避けるんだ!」
今でも満員電車の乗り降りはイマイチわかりません。ドアの前の人は降りるのは当然だと思いますが、微妙な位置にいると降りるのかどうか迷います。降りたところで当時の僕なら小さい体でそのまま階段まで流されていきます。つまり、流れの中で止まると邪魔だと思われそうで、運が悪ければ電車を一本流すことになります。
そして、また次の電車でどっと人が降ります。再び大群に飲まれない様に気合を入れなければなりません。小さい子供が流れに逆らってくると、「子供のくせに逆らって押すな」と押し返してくる人が多数です。こんなことをいちいち考えてしまう人は、そもそも満員電車に乗るなという話です。それは僕も当時から思っていました。でも、乗らざるおえない状況なのです。そう言い聞かせるしかありません。
空いた車両になりました。偶然にも2つ、席が空いたのです。
「席空いてる。 座ろう」
「いや、いいよ」
「何言ってんだ。お前、気持ち悪いんだろう」
「いいって。 大丈夫」
僕はガラガラでない限り椅子に座りたくありませんでした。簡単な理由です。文句を言ってくる人がいるからです。気持ち悪い、吐き気があると僕がいくら感じても外見ではわかりません。もちろん僕は足腰が悪いわけではありません。「若いくせに何座っているんだ。譲れ」と声を荒げる人が少なからずいるのです。もちろん僕だって非情な人間ではありませんので、譲ろうと思う心はあります。しかし、文句を垂れる人は僕より元気だろうと明らかにわかります。それでも外観で判断してはいけません。もしかしたらその日の方が辛いかも…。ですが、体調が優れない僕からしたら、譲るも何も今、僕は気持ち悪いわけです。他の人のことを考える余裕はないのですが、言ったところで火に油を注ぐだけです。
つまり、文句を言われるとさらに頭の奥がキュッと痛くなるので僕は座りたくないのです。
「寄りかかっているだけでいいよ」
「そう言うなら、わかった」
僕は一呼吸ついてから、少年に尋ねました。
「■■はどこの学校? 遠いの?」
少年の顔は帽子でよく見えませんでした。
「遠いかな」
「バッグは?」
「学校の話はもういいだろ」
「でもなにも持ってないならどこ行くの?」
今思えばよく怒られなかったと思います。こんなにしつこい奴なら一言抑えると思います。それも妄想の一端だから怒られないように思い出したのでしょうか。それとも少年は心の広い持ち主だったのでしょうか。
「終点まで」
「どこから乗って?」
「終点から」
駅表に目をやると終点から終点までは各駅停車であれば50駅は少なくともあるでしょう。乗っていた電車は急行電車ですが、終点から終点までは1時間はかかりそうです。なぜ急行より速い特急などに乗らないのか、など当時の僕は考えませんでした。
「…お前は学校楽しいのか?」
「楽しいよ。 先生とお話ししたり、うさぎと遊んだり」
「そうか。 こっちは楽しくないな。どうせすぐ別れるから」
『まもなく…駅…』
「この駅だろ。 ほら、降りる準備しよう」
「■■は明日も乗ってる?」
「…明日は乗ってるよ」
扉の前で待っている時も少年は僕の手を握っていてくれました。
僕が手を離して降り、振り返ると少年は小さく手を振ってくれました。それは堪らなく僕は嬉しかったことを覚えています。自分のことに手を振ってくれた。優しさを感じたのもありますが、それ以上に僕を認識してもらったことが嬉しかったのです。
僕が見えなくなるまで、少年は手を振っていました。
僕も見えなくなるまで、少年に手を振ってました。
*
またある日。この記憶の中では鮮明に思い出せる日の一つです。朝から豪雨で先が白く見えにくく、傘に打ち付ける雨が車の通る音すらかき消しました。駅に着けば、電車が大遅延を起こしており、人が溢れていました。
「凄い人だぁ。 でもこれでしか行けないし、取り敢えず改札入っちゃおう」
僕は人混みに向かって、深呼吸をしてから入りました。
いつも以上に苦しく、ホームに行こうと階段を降りた時には、小学生の僕ですら通れないほど人、人、人。そして小学生の身長だと、大人が持つ傘の位置に体が当たります。一番後ろに行くまでに何度も傘にあたり、一層ジメジメしました。
「ったく! 何だよ!」
「わっ! ごめんなさい!」
電車も来ない、雨も降ってイライラしている人ばかりです。いつもよりも煙たがれました。すみません、すみませんと間と通ろうとしても突き返されるオチです。
電光掲示板には時間どころか、電車の詳細すら表示されず、『雨と○○駅でお客様対応のため、ただ今40分遅れで…』と流れ続けていました。
「あ、椅子空いてる!」
ホームにある椅子が空いていたのです。ホームの椅子なら、人の流れが激しいので遠慮する必要はありません。空きの隣に座っているお婆さんも項垂れており、僕も座った途端にどっと疲れました。
座ってから周りを見れば、足を揺する人、電車は来ないのかと線路の先を何度も見る人、駅員さんに文句を垂れる人など、いい心地ではありませんでした。
僕は駅員さんに文句を言う人はどうしてそうなるのか気になって仕方がありませんでした。そこの駅員さんは遅らせた原因では勿論ないわけです。その駅員さんは駅員さんで無線を持って連絡をしています。忙しそうだと一目瞭然です。それでも文句を言いつづけ、止める人はいません。
自分が言われているわけではないのに、その言葉を聞くたびに自分が責められているような感覚になります。精神的に空気が悪くて、その中に一人でいることが怖くて怖くて吐きそうでした。
「おい」
突然声をかけられ、僕もさっきぶつかった人に文句を言われるのかと思い、首がキュッとしました。
「大丈夫か。 なんか、いつも以上に顔が白いけど」
顔を向ければあの少年でした。僕は安心と共に、真夜中の路地でようやく人に会えた様な嬉しさ、そして今まで感じていた恐れが一気に乗っかってしまい、少し泣きそうになっていました。
「何で泣くんだよ。 そんなに会うのが嬉しいのか。 変なやつ」
「どうしてここに?」
「この駅に着いた時、押し出されたんだ。 人が多くて乗れないし」
少年は傍に立ってくれました。僕は自然と笑みがこぼれました。
「お前、学校間に合うか?」
「ここまで遅れていたら、先生もわかってくれるよ」
僕はとあることを思い出しました。
「そういえば、こないださ、学校はすぐ別れるから楽しくないって言っていたけど、なんで別れちゃうの?」
相手の気持ちを考えない発言です。幼かったとはいえ、失礼なことです。それでも少年は答えてくれました。
「いろんなところに移動するからだ。 一昨日までは雪がたくさん来るところに住んでた」
「えぇ?! 引っ越しってこと?!」
「そんな驚くことか?」
「だって、沢山引っ越すってことは、僕ともすぐ別れちゃうの?」
少年は吹き出して笑いました。初めて心を許してくれた様な気がしました。
「そんなに別れるのが嫌か?」
「嫌だよ! ともだちと別れるなんて嫌だよ!」
「ははっ! そうか、友達か。ありがとな」
それから何を話したのでしょうか。覚えていないので、きっと他愛のない会話だったと思います。周りの空気と違って、少年と話しているときはとても安心して、楽しかったです。初めてともだちになれた。そんな喜びもあったと思います。
また別の日。
「手、ケガしたの?」
少年の手には大きな絆創膏が貼られていました。
「喧嘩よくするから」
「喧嘩! 怖くないの?」
「別に」
「すごいね~。強いんだ」
またまた別の日。
「お前、その青色のトレーナーよく着るな。青色好きなのか?」
「うん。青と、白が好き。■■は何色好き?」
「帽子がそうだけど、赤と黒が好き」
たった10分ほどの区間ですが、僕にとっては何時間にも感じました。詳しく話の内容を覚えているものは少ないですが、少年と沢山話したことだけは覚えています。
そして何日か経った日の事です。そろそろ鬱陶しい梅雨に入る時の頃だと思います。梅雨はジメジメしているのはもちろんですが、周りの人の空気が一層重くなるのが、僕は嫌いでした。でも、学校がある日は少年と電車で会えます。嫌だったはずの電車と人混み、そして梅雨も、少年と会うことに比べたらちっぽけなことです。
どうしてここまで少年に惹きつけられたのでしょうか。初めてのともだちと言うのもありましたが、それよりも、少年が僕といる時に笑顔になってくれるのが嬉しかったです。少年は僕の話を聞いてくれて、そして、馬鹿にして笑うようなことは一切しませんでした。ほほえましく見守ってくれた、と言うのが適切かと思います。年齢を聞くことはしませんでしたが、当時の僕よりしっかりしていたので年上だったのかもしれません。
「腕につけてるの何?」
「自分で編んだミサンガだ」
「ミサンガ?」
「自然に切れたら願い事が叶うらしいんだ」
少年のしているミサンガは情熱の赤色と、それを際立たせるような黒色で編まれていました。
「へぇ、願い事かぁ」
「お前は何かあるか? 願い事」
「えっと、願い事・・・」
「小さい事でもいいさ」
「じゃあ、■■とずっとともだちでいたいな!」
「お前が忘れなきゃずっと友達だよ」
呆れながらも、笑ってくれる。兄・姉、そんな感じが一番近いかもしれません。
「■■は何を願ってるの?」
「そうだな。 兄弟に会いたいな」
「兄弟とも別れちゃったの?」
「うん・・・別れたな」
「会いに行けないくらい遠いところに住んでるの?
「あぁ。 遠い、遠いところだ。 気軽に行けない。 飛行機でも何日かかることか。 そのくらい遠いところに。お前さ、何となく弟に似ているんだ」
「僕が?」
「年も同じくらいだろうな。 寂しがり屋で、よく面倒を見ていた」
「僕、兄弟いないからわからないけど、■■が家族だったら頼りになるね!」
「ありがと」
「■■が兄弟に会えた時は、僕にも会わせてよ!
「もちろん」
雨が降る毎日が始まりました。いつものように電車に乗り、少年を待っていました。しかし、少年が現れなくなりました。
その日から一週間ほどでしたでしょうか。僕は、少年の事が心配になりました。でも、住所も連絡先も知らないため電車で待つしかありません。
人混みは以前より減っていました。よく、「6月からは鬱やだるさで通学通勤の人が減る」と言われています。きっとそれが実際に起きていたのでしょう。窓の外がわずかに見える様になりました。耳に入るのは車輪の音と、雨が電車に打ち付ける音、そして服が擦れ合う音。今日も会えないかな、と思い始めると、少年の言っていた「いろんなところに移動する」が頭を巡ります。もしかしたら、二度と会えなくなると感じてしまい悲しくなります。
ある日、少年は終点から終点まで乗っていると言うセリフを思い出しました。僕は朝早くにいつもとは逆方向の電車に乗り、終点に行きました。電車内は走り回れるほど空いており、先頭から最後尾の間は数えるほどの人しかいません。僕は早く着きたいの一心で、先頭のドアにいました。雨は小雨ですが相変わらず降り続けています。景色はどんどん自然に近づいています。通過して見える駅のホームの人も、減っていきます。
乗っているとき、僕は少年の事が心配でたまりませんでした。ランドセルをぎゅっと持ち、流れる街並みを見ていました。
アナウンスから終点の駅名が流れます。その時の僕は終点には来たことがありません。電車の先頭がホームの先頭に差し掛かります。ホームの先頭は屋根がなく、雨が降っているので人はいないと思っていました。
「あ! 今の!
一瞬、窓から見覚えのある帽子が見えました。屋根のないところで、傘もなく、ベンチに体育すわりで座っていました。
僕は、扉から降りると急いでホームの先頭に走りました。屋根のない場所にあるベンチに、少年はいました。傘はさしておらず、服の色が変わるほど濡れていました。僕は傘をさして、駆け寄ります。
「■■! どうしたの?!」
少年はびくっとした後に、うずくまっている顔を上げ、僕の方に向けました。
「お前! なんでここに」
「風邪ひいちゃうよ?! 屋根の下行こう!」
僕は少年の手を引いて、屋根の下に引っ張りました。
少年の手は冷え切っていて、表情も暗かったです。口を中々開いてくれませんでした。僕も、その時はいつもと違う雰囲気に声をかけることが出来ませんでした。小雨なはずなのに、雨音がうるさく感じました。僕は少年の手を温める様に握りなおします。目もそらさずに見つめました。
「・・・学校、行きたくなくて」
少年は小さい声で話はじめます。
「よそ者って言われるし、お父さんも、お母さんもいないってからかわれるし。喧嘩も吹っ掛けられるし」
初めて見る少年の弱さに、僕は何も返事ができませんでした。ふと、少年の手元を見ると、あのミサンガがありませんでした。悪い事しか思いつきませんでした。
「ミサンガ、はさみで切られるし」
震える声と共に、帽子の陰から涙がこぼれます。悲しむ少年を僕はこれ以上見たくありませんでした。いつだって、僕に付き合ってくれて、話もしてくれる少年です。当時の僕は精一杯言葉を探しました。
「僕が代わりにミサンガ新しく作るよ!」
「は?」
「赤と黒だったよね!」
「ミサンガは自分で作らないと意味がないんだぞ」
「え! そうなの?! えっと、なら、えっと」
「そもそも、作り方知らないだろ」
「べ、勉強するよ! それがだめなら、えっと、えっと!」
僕はたまたまポケットに入っていた飴玉を取り出しました。
「あめちゃんあげる!」
「いつから入ってるんだよ。 それ」
「古くはないと・・・思うよ! でも、ほら!悲しいときはお腹空いているからって言うじゃん!」
「何だよそれ」
少年は、小さく笑ってくれました。何がおかしいのか当時の僕にはわかりませんでした。ですが、少年がいつもの雰囲気に近づいていることはとても嬉しかったです。
「学校、嫌なら僕の学校来なよ! 先生とも仲いいし!」
「大丈夫」
「なら! 僕が■■の学校に一緒に行くよ!」
少年は僕の手から飴を受け取りました。
「いいって。 何となく元気でたからさ」
「本当に大丈夫? 服も濡れてるし、傘もないんでしょ?」
「今日はもう家に帰るよ。 また明日から学校は行くさ。 冷静に考えれば行かないってことは負けたようなもんだからな」
「怪我しちゃだめだよ」
「もうお前に心配させないよ。お前、泣いちゃってるしさ」
そう言われて、僕は自分が必死で泣いてしまっていたことに気が付きました。
「それに、お前も学校あるんだろう? 時間大丈夫なのか?」
「あ!」
「ははっ、まずは自分の事を気にしな」
発車ベルが鳴り響き、急いで折り返す電車に飛び乗りました。扉が閉まり、振り返ると少年は笑顔で手を振って見送ってくれました。僕も元気になった少年に負けないくらいに手を振り返しました。ホームが見えなくなるまで、窓に張り付いていました。
*
僕は母を待っている間に、学校の図書館に篭り、手芸や編み物の本を漁りました。少年に言われた「自分で作らなきゃ意味がない」というセリフを聞きましたが、少年の悲しそうな顔に僕はいてもたっていられなかったのでしょう。先生に頼んで、家庭科室にある糸を少し分けてもらいました。ミサンガの作り方は簡単でした。数本の糸を結び、机に貼り付けます。そのあとはひたすら4の字を編み込んで行くだけです。しかし、編み物の「あ」の字も知らない当時の僕にとってはえらく大変だった気がします。
その日から再び少年と出会うことができました。当時の僕は、少年が心配になって、毎日飴を持つようになりました。今でも癖でカバンに入っています。少年は毎回受け取ってくれました。
「お前の家の近くで、セミは鳴き始めたか?」
「うん。 ジーって鳴いてるよ。夜もなんかリーリーって鳴ってる」
「それはコオロギじゃないか?」
「セミじゃないの?」
「セミは夜には鳴かないんだよ」
「へ?」
今思えば、色々なことを少年から教えてもらったような気がします。勉強以外の事を会話の中で学んだと思います。
「■■のお家って終点だよね?」
「そうだよ」
「山とかあるけど、やっぱり虫とかいっぱいいるの?」
「カブトムシとか、玄関にいっぱいいるぞ」
「いいな?!」
「よくないって。 朝から気持ち悪い。ウジャウジャしてる虫とか勘弁してくれ…」
夏が近づくにつれて、満員電車は暑苦しくなりますが、僕はもうそんな事気にしなくなっていました。僕は少年といる事が当たり前のようでした。前に行っていた少年の事情なんてすっかり忘れていた頃に出てきました。
「ひ、引っ越す?」
車内に響くほどの声を出してしまいました。すぐに少年に注意されましたが、落ち着けませんでした。
「前にも言ったろ。 すぐ離れちゃうからな」
「い、いつ?」
「明日の夜」
「急だよ!」
「悪ぃ。 親の都合だし…事前に言えなくて」
「…」
僕は頭がきゅうっと締まりました。別れるのももちろん悲しいですが、何よりミサンガがまだできていない!と。
「明日の夜ってことは、朝はまだ会えるんだよね?」
「学校には行かなきゃいけないからな」
なんとしてでも今日中に完成させなければなりません。そして、少年と別れてしまう事はどうしても回避できない出来事として、受け止めるしかありませんでした。自分が何かを言ったところで止められることではないのです。僕は色々話し足りない事が沢山あり、何から言えばいいのかわからなくなりました。いつものように、何となく思ったことを話せばいいのに、口を開くことができませんでした。
少し、電車の車輪の音が大きく聞こえました。外はもうすぐ夏に近づき、真っ青な空が広がっていました。
「靴紐、何でそんな硬く結んでいるんだ」
僕の靴は何重にも絡んだ適当な結び方をしていました。
「今日、お母さんに結んでもらえなくて…」
「これだと脱ぐ時大変だろ」
少年はしゃがんで、靴紐を解きます。
「ありがとう」
「自分で今度からできるようにしないとな。 ほら、一緒に結んでみようぜ」
隣にいる少年と一緒に壁に寄りかかりながらしゃがみました。少年は自分の靴紐を解き、お手本をしてくれました。
「片っぽを丸にして、しっかり持てよ。 そんな大きくやらなくて大丈夫だよ。 このくらいでいいよ。
うん、その丸を結ぶようにもう片方でぐるって」
「こう?」
「そう。 そんで、この間からキュって…」
「なんか変になっちゃったよ?」
「ははっ。 不恰好な蝶だな」
「蝶?」
「この結び方の名前。 蝶々結びって言うんだ」
「へー。 そういえば蝶々みたいだったな?」
「綺麗にできたらな。 解いてやり直そう。
力を入れるのは最後の仕上げの時だ。
よく見てな」
少年はゆっくりと、丁寧に蝶々結びの手本を見せてくれました。
少年の靴紐は、少年が好きだと言っていた赤色でしたが、今にも切れてしまうほどボロボロでした。靴は履き潰れていて、黒色が土や砂で少し白っぽくなっていました。全体的に何度か修理しているような痕が見えました。
「靴、新しいの買わないの?」
「紐は弟から、靴は兄貴からもらったんだ。ボロボロだよな。でも、捨てるに捨てられなくて」
話し終わった時、少年が結んでいた赤色の紐が切れてしまいました。
「とうとう切れちゃったな」
少年は仕方ないと言いつつ、まだ残っている紐を無理やり結びました。
「お前、やってみな」
切れたことに寂しそうな表情を一瞬、少年は浮かべましたが、すぐに僕の方を気にかけてくれました。その時少年は明るく微笑んでいました。僕は少年がやってくれた結び方を思い出しながら、自分の靴紐を結びます。
「えっと、ここからどうするんだっけ」
「ぐるっとやった隙間から、蝶の羽を意識しながら引っ張ってみな。 ゆっくりな」
「できたよ!」
「いいな。 それで、仕上げに、結び目をきつくするんだ。
円になってる紐の根元を引っ張って」
「こう? あ、できた!」
まだ頼りない感じの蝶々でしたが、結べたことは大変嬉しかったです。もう片方の靴も、固結びから解こうとしましたが。
『まもなく…』
窓の外はもう駅に差し掛かってました。
「もう片方は一人でやってみな」
少年はいつもと変わらず僕を見送ろうとしました。明日が最後と思うと僕は中々笑顔にはなれませんでした。
「どうした?」
「え、な、何でもないよ! また明日ね!」
「あぁ」
僕は電車から降り、手を振り続けました。
僕は授業中もこっそりとミサンガを編み続けました。自分の腕に重ね合わせて、手首一周分を作るために半分以上はまだ編みきれていませんでした。蝶々結びも満足にできない僕でしたから、何度も編み間違えては解き、を繰り返していました。放課後も母が迎えに来るまで、ずうっと教室に残って編んでいました。
母が迎えに来て、家に帰った後も編み続けました。その後は、母に見つからないように、母が眠った後にこっそりと編んでいました。なぜ母にバレないようにやっていたのかは、いまいちわかりません。母なら喜んで手伝ってくれると思いますが、僕は秘密にしました。きっと、少年との関係が僕しか知らないという一種の優越感があったのかもしれません。
いつぐらいに出来上がったかは定かではありませんが、ミサンガが編みきれました。最後に解けないように玉結びにするのですが、やり方が書いてある本は学校の図書館です。しかし、結ばないと解けてしまいます。
「あ! そうだ!」
*
いつものように混んでいるホーム。扇子で扇ぐ人、冷たい飲み物を飲む人、夏休みが近づいていると話す学生。そんな風景を横目に、僕はポケットに入ってるミサンガを握り、電車に乗りました。
人の隙間から見える外は日が照りつけ、遠くの山が見えるほど快晴でした。そしていつものように人がどっと降ります。その時は何故でしょうか。殆ど降りてしまったのです。いつも以上に乗っている人が少なく、向こうの車両から少年がやってくるのが見えました。
「おはよ」
「お、おはよう!」
最後だと緊張している僕とは違い、少年は相変わらずでした。
「ほら、座ろう。 今日は人全然いないしさ」
僕は招かれるまま少年の横に座りました。正面の窓には住宅街が徐々にビルに変わっていくのが見えます。
「今日さ、■■の駅まで一緒に行くよ」
「お前、学校は?」
「見送るもん」
わがままでした。出会う前にはそんなこと思っていませんでしたが、やはり別れるのは辛かったのかもしれません。
「お前がそういうなら、別にいいけどさ」
終点まで時間はありますが、それでも刻一刻と時間が減っていく感覚は良いものではありませんでした。
「ごめん」
少年がポツリとつぶやきました。
「え? 何が?」
「…いや、せっかく友達って言ってくれたのにすぐに別れることになって」
その答えから、少年が僕のことを気にかけてしまったと感じました。
「気にしてないよ! たしかに別れるのは寂しいけど、でも! ■■のせいじゃないし、■■が僕のことを嫌いになったわけでもないよね?」
「嫌ってるならわざわざ会わないって。お前は友達って思ってくれるんだろ?」
「うん!」
少年はポケットから何かを取り出して、僕の手のひらに置きました。
「お詫びも兼ねたお礼」
それは青と白で編まれたミサンガでした。
「これ!」
「自分以外が編むのは意味ないって言ってたけど、厳密な決まりはないからな。お前、一人だと不安だから、お守り程度に思ってくれ」
そう聞いて、僕は安心しました。自分が作っていたミサンガも一応は間違っていない事に確信が持てたからです。
「いらなかったか?」
「ううん! 嬉しいよ! ■■が遠くに行ってもこれなら寂しくないもん」
「そうか。 ならよかった」
青と白で編まれたミサンガは売り物のように綺麗な出来でした。日に照らせばラメが小さく煌めき、綺麗な海辺のようでした。
「上手だなぁ…」
自分が編んだ物を思い出すと、比べるのも失礼なくらいな出来です。学校に余っていた薄汚れていた糸でしたから。
「いくら上手でも、つけていたら3日で黒くなっちまう。本当に願いを叶えるかどうかわからないただの糸さ」
「でも、■■が編んでいるからただの糸じゃないよね。 編むの大変だし、色を編み間違えたら治すの大変だもん」
「編み方知っているのか?」
ポロリと話してしまいました。タイミングも下手くそで、子供の頃だから許せる事だと今は思います。
雰囲気も何もありませんでした。すぐにポケットから自分が作ったミサンガを少年に見せました。
「それは?」
「あ、編んだ!」
「お前が?」
「うん! ■■にあげる!」
少年はしばらくミサンガを見つめていました。僕は恥ずかしくて少年の顔を見れませんでしたが、少年が小さく笑った声で目を開けることができました。少年の微笑んだ顔は今にも涙が出そうでした。少し震えた声、帽子を深く被ろうか悩んでいる手、僕があげたミサンガを優しく見つめる少年を、僕は今でも鮮明に思い出せます。
「ばーか。結んだら腕につけられないだろ」
僕の作ったミサンガは綺麗な円状でした。
「あー! そうだよね? 切って結んで!」
「切ったら意味ないだろ。ま、無理に手に通せないことはないけどな。体に結んでいなきゃ行けない理由はないんだ。大切に持っとくさ」
「でも」
「くれたんだから返さないぞ。それに、お前が作ってくれたんならただの糸でも貰うさ」
その言葉は小恥ずかしかったです。初めて友人にプレゼントをして、受け取ってもらえました。自分が存在していることを肌身で感じました。
そんな想いは束の間、もう電車は終点に到着していました。名残惜しく僕たちは駅におりました。
「本当にここまでだ。お前は早く学校に行きな。ミサンガ、ありがとな」
少年はいつものように去って行こうとしました。これから先、再び会うことができるのか一気に不安になりました。子供の頃は近くのスーパーですら、親とはぐれたら一生会えないのではないかと感じてしまいます。今ここで伝えたいことは伝えるべきだと僕は、ランドセルをしっかり握って少年と約束しました。
「今度は僕が、■■を守れるように強くなるよ! だから、また会ってよね! 電車だって一人で乗れるようになるからね!」
約束にしては一方的でした。それでも少年は笑顔で、それでいて真剣に応えてくれました。
「あぁ。今度は私の手を握れるくらいにはなっていろよ」
僕らはそれ以上言葉を交わしませんでした。きっとまた会えると信じてミサンガを握りしめていました。
(了)
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