救いの声

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1章 試練

霧の記憶

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霧隠山のふもとに足を踏み入れると、まわりは深い霧に包まれていた。
木々の姿はかすかにしか見えず、道は白くぼんやりと滲んでいる。
けれど、みことの心には、不思議なほどの静けさがあった。

恐れも、不安も、どこか遠くにあるようだった。
ただ、歩くべき方向を知っているような感覚が、足元を支えていた。

霧の中、ふと幼い頃の記憶がよみがえる。

それは、母と別れたあの日のことだった。

背の高い木の下で、母は少しだけ微笑んで、みことの肩にそっと手を置いた。
そして、何も言わずに、まるで「大丈夫よ」と語りかけるように、背中をやさしく押してくれた。

その手のあたたかさが、今でも残っている気がした。

(――私は、ちゃんと進める)

霧の向こうに、小さな道しるべのような光がまたたいた。
みことは静かに息を整えると、一歩、また一歩と山へと入っていった。

疲れた体を木陰に預けて、みことは腰を下ろした。
風が木々をゆらし、遠くで鳥の声が響く。
少し目を閉じた、その瞬間だった。

ふいに、あの懐かしい日々が浮かんできた。



お母さんと二人、田んぼ道を歩く。
空は青く澄みわたり、風が草をさらさらと揺らしていた。

「ほら、みこと。こっちこっち」
笑いながら振り返るお母さんは、楽しそうだった。
手をつなぐと、あたたかくて安心した。

家に帰れば、縁側で一緒におやつを食べたり、
洗濯物を一緒に干したり。
並んだ影が伸びて、ふたつの笑い声が重なる。

夜は、囲炉裏の火を囲んで話をした。
昔のこと、今日のこと、なんでもないこと。
お母さんの話し方が好きだった。
優しくて、明るくて、何より――楽しそうだった。

その時間がずっと続くと、子どもながらに信じていた。

でも、記憶はするりと、あの日へと移っていく。

朝の光の中。
お母さんは小さな荷物を背負って、玄関に立っていた。

「行かなくちゃいけないの」
その声は、どこか遠くのもののようだった。

みことは、ずっと記憶の中にあった疑問を、勇気を出して口にした。

「……どうして?」

お母さんは、一瞬だけ立ち止まり、ふっと笑ったあと、少しだけ真面目な顔になって言った。

「お母さんはね、みことのことが――嫌いだから」

みことの時間が止まった。

何かの冗談かと思った。
でも、お母さんはそれ以上、何も言わなかった。
戸を開け、背を向けたまま、歩き出していった。

あたたかい記憶が、一気に冷えていくようだった。
今までの笑顔も言葉も、全部、自分だけが信じていたのだろうか――

「私だけ……楽しかったの?」

その問いには誰も答えなかった。



はっと目が覚めると、あたりはすっかり暗くなっていた。
日はすでに沈んでいる。

自分が寝てしまっていたことに気づき、みことは小さく息を吐いた。

風が頬をなでて通り過ぎていく。
あの記憶が夢だったのか、それとも現実だったのか、わからない。

ただ、心の奥に、あの言葉だけが重く残っていた。

それでも、みことは立ち上がった。
痛む気持ちをそのままに、また、一歩を踏み出す。
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